ホメロスは誰でしょう | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

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幾つもの顔を持ったホメロス

 

 

 

   私は、以前に『検校覚一は日本のホメロス』というテーマでこのブログにエッセイを載せました。今回は、ホメロスの側から探索してみましょう。

   ホメロスは、紀元前8世紀頃に『イリアス』と『オデュッセイア』の二つの叙事詩を書いた詩人だと言われています。そして、その二つの作品は、西洋に現存する最も古い作品で、しかも、まさしく混沌の中から突然に完璧な姿をして現れました。当然のごとく、原初の時代に何の影響も受けず書かれた作品としては余りにも完璧なので、ホメロスの実在を疑う古典学者も多いようです。また創作年代も曖昧です。分かっているのは、紀元前750年以前ではないであろう、という程度です。その根拠も曖昧です。フェニキア文字を基にしてギリシア文字が作られたのが紀元前8世紀中頃だったので、ギリシア文字で書かれたホメロスがそれ以前に創作されることは不可能である、というだけの理由なのです。まさしくホメロスの両作品は、無の中から完璧な状態で突然に現れたので、ホメロス複数説が当然の如く信じられています。今回のブログ・エッセイでは、後世においてホメロスがどのような詩人だと想像されていたかを紹介します。

 

ダンテのホメロス像

 

 

   西洋文学の四大叙事詩人といえば、特別な意図がない限り、大方の人は、古代ギリシアのホメロス、古代ローマのウェルギリウス、中世のダンテ、そしてイギリスのミルトンの名を上げることでしょう。その四大叙事詩人の中でダンテだけが、その始祖であるホメロスの作品を直接には知ることはなかった、と推測されます。その理由は次のようです。

   ローマ帝国の分裂(396)により、ギリシア語の使用は東ローマ帝国(ビザンティウム)の中だけに限定され、西ローマからは、最初は徐々に、最後には完全に消滅しました。父親から徹底的にエリート教育をうけて、ヨーロッパ最古の総合大学と言われているボローニャ大学で学んだダンテ(1265~1321)でさえもギリシア語を学ぶ環境にはありませんでした。ソネットの達人ペトラルカ(1304~1374)は、アヴィニヨンに滞在していた東ローマ人バラムという学者から、近代ヨーロッパ人としては初めてギリシア語を習い始めました。しかし、その先生は途中で帰国してしまったので習得することはできませんでした。最初のギリシア語習得者は、ペトラルカの友人で『デカメロン』の作者ボッカッチョ(1313 ~1375)です。彼は、1360年、カラブリアにいた東ローマ人ピラトゥスをギリシア語教授としてフィレンツェに招き、近代ヨーロッパ人としては初めて、ギリシア語を習得しました。

1453年、オスマン・トルコによってコンスタンティノポリスが陥落して、ギリシア語学者が大量に西ヨーロッパへ逃げて来ましたので、ギリシア語学習も容易になりました。そして1463年頃、メディチ家の援助を受けてプラトン・アカデミーが創設され、ギリシアの研究も盛んになってきました。その運動は、「ルネサンス(Renaissance:伊語 リナシメント、Rinascimento)」と呼んで「古代古典の文芸復興」という意味になりました。私の個人的な意見ですが、ルネサンスは古典ローマの復興ではなく、古典ギリシアの復興であると言えるのです。

   古典ギリシアの文学に直に接することができなかったダンテは、「又聞き」の『イリアス』から受けたホメロス像を、次のように描きました。

 

       ほかの三人の前に立って王者のように、手に剣(つるぎ)をもって進んで来る人を見るがいい。あれが詩人の王ホメロスだ。次に来るのが諷刺(ふうし)詩人ホラティウス、オウィディウスが三番目で最後がルカヌスだ。 (『地獄篇』第4歌86~90、平川祐弘訳)

  王者のように三人の先頭にたって、手に剣をもっている者を見給え。あれは至高の詩人オメーロである、その後から来るのは風刺家オラツィオだ。三番目はオヴィディオ、最後はルカ-だ。 (同じ個所の野中素一訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   見なさい。手にあのような剣をもって、あのように領主のように三人の前をやって来る人を。あの人こそ至高の詩人ホメロスである。さらにもう一人やって来るのは風刺詩人ホラティウスです。三人目の人はオウィディウス、そして最後の人はルカヌスです。

 

 

   「手にあの剣を持ち(con quella spade in mano)」三人の詩人の先頭を「君主のように(come sire)」進んでくる「至高の詩人(poeta sovrano)」というホメロス像は、中世の武人国王の姿を彷彿させます。そしてさらに、他の詩人たちの頂点に立つ人物として、次のように描いています。

 

 

 

   叙事詩は他を抜いて鷲(わし)のごとく天翔(あまが)けるが、その崇高な詩の王者が率いるすばらしい一派が会したさまをこうして私は目撃した。 (『地獄篇』第4歌94~96、平川祐弘訳)

   かくて、私は鷲のように他のものを超えて天翔(あまが)ける詩聖たちの美しい一族が勢ぞろいするのを見たのである。 (同じ個所の野中素一訳)

〔原文解析〕

直訳〕

   他の学派の更に上へ鷲のように飛ぶところの、崇高な歌の、あの高貴な御方の美しい学派が集まっているのを私は見た。

 

 

  詩に添付した平川訳の「崇高な詩の王者」と野中訳の「詩聖たち」の原文は“quel segnor de l’ altissimo canto (崇高な歌のあの高貴な御方)”は、単数形なので平川訳の方が正しくて「ホメロス」を指していることは確かです。ダンテの高貴なホメロス像は、崇高すぎて実在の姿とは掛け離れていることでしょう。

 

ローマの詩人が描くホメロス像

 

   先出のダンテの辺獄にも登場していた、古典ローマ時代きっての知性派詩人ホラティウス(Quintus Horatius Flaccus, 前65~前8年)も、ホメロスの姿を次のように描いています。

 

   学識高きマエケーナース様、古のクラティーノスの言を御信用なさるならば、水を飲む人間の書いた詩は、長く人を喜ばせる事も生命を保つ事も出来ません。リーベルがサテュロスやファウヌスの仲間へ気の触れた詩人共を加へて以来、愛らしき詩神は大抵朝から微醺を帯びて居ります。ホメーロスは酒を禮讃した事から酒呑と宣告されて居り、父エンニウスですら、酒を飲まなければ決して武器を歌う為に跳起きはしませんでした。 (ホラティウス 『書簡集』第1巻19、村上至孝訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   博学なるマエケーナース様、もしあなた様が昔のクラティーノスを信用なさるならば、水を飲む者(=酒の飲めない下戸)たちによって書かれたどんな歌も喝采を受けることはなく、長く生き残ることもできません。神リーベル(バッコスと同一視されるローマの古神)が正気なくした詩人たちをサテュロスたちやファウルスたちの項目に書き加えた時、愛すべき詩神たちは、たいがい朝方は酒の匂いをさせていたものです。ホメロスは、酒を称賛したことによって酒に溺れたと非難されています。(ローマ詩の)父エンニウスでさえも、酒に酔っていなければ、詩に作られた戦争に(=戦争を詩に描くことに)決して抜きん出ることはなかった。

 

   上の詩行の中で、ホラティウスが「大酒飲みのホメロス(vinosus Homerus)」と歌っているからといって、ローマ人たちが皆そのように考えていたと判断することはできません。なぜならば、ホラティウスの酒好きホメロス像は、『イリアス』の中に酒を讃美する個所があるというだけの些細な根拠のようです。例えばその個所は、トロイアの女王ヘカベが戦いから帰った息子ヘクトルを慰労するために、次のように述べている言葉です。

 

   それならば待っておいで、私がいま蜜の甘さの葡萄酒を持ってくるから。それでまず手始めに、ゼウス父神さまや、その他の神々へとお神酒をそそぎ、それから今度は、そなた自身も、もし飲むならば、それで元気がつくことでしょう。すっかり疲れた人には、お酒が、たいそう気力を増すものです。そなただって、ほんとに身内の者を防ぎ護って、ずいぶん骨を折ったのだから。 (『イリアス』第6巻258~262、呉茂一訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   しかし、私が密のように甘いワインを持って来るまでここにいなさい。あなたは、まずゼウス父神と他の不死なる方々にお酒を供え、それからあなた自身もそれを飲めば、気分も爽快になるでしょう。疲れ切った人間には、ワインは大きな活力を増大します。なぜならば、あなた自身も、あなたの一族を護って戦い疲れ果てているから。

 

   上に引用した詩行の中に、ホメロスが酒好きだったと判断するほどの確実な証拠があるとは思えません。とにかく、ローマ人たちにとっては、ホメロスが酒好きであってほしかったのでしょう。ホラティウスにあるように「水を飲む(=酒を飲まない)者によって書かれた詩歌は、どんなものも気に入られることはなく、また長く生き残ることもない(nulla placer diu nec vivere carmina possunt quae scribuntur aquae potoribus)書簡集第1巻19、2-3」という考え方は、ローマ詩人たちには常識であったようです。そして、ホメロスほどの大詩人ならば、さぞかし酒を沢山飲んだにちがいない、と勝手に考えたのでしょう。

 

酒豪のホメロスから下戸のホメロスへの転身

 

   いつの間にかホメロスは、大酒飲みから酒を飲まない下戸の姿に転身しました。英国ルネサンス詩人ミルトン(1608-1674)は、彼のラテン語による詩の中で、次のようにホメロスを描いています。

 

   食事に貧窮して、川の水を飲むホメロスは、ドゥリキウム島(イタケと同様にオデュッセウスの領土)の勇者(オデュッセウス)を長く海の中を引き回した。また、ペルセウスの娘で太陽神の女神官(キルケ)の宮殿の中を、また女の声音で待ち伏せをする浅瀬の中を、はたまた、地底の王よ、あなたの居城の中を引き回した。そこでは、彼は黒い血を死霊たちの群に渡さなかった、と言われている。 (ミルトン『エレギア』第6番71~76、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   上の詩行は、『オデュッセイア』を書いたホメロスについて言及している個所です。ローマ詩人ホラティウスによって「酒に溺れた(vini vinosus)」(『書簡集』1-19:6)と歌われていたホメロスを、ミルトンは「質素な食事(dapis exiguus)」で「川の水を飲む人(rivi potor)」と描いています。そして、「川の水を飲む人」とは、「酒を飲まない下戸」と同義に解釈されています。

 

   ホメロス像は、ローマ時代の「大酒飲み」から、ダンテの「中世の王侯」を経て、「酒を飲まない貧者」へと転身してきました。その現代へのホメロス像の転身に重要な役割を果たしたのは、ボッカチオ(Giovanni Boccaccio, 1313-1375)だと言えます。彼は、その詩祖を次のように描いています。

 

 

 

   ホメロスは次のような人物だと知られています。彼は、断崖絶壁の岩の多いでこぼこ道や樹木の茂った山国の中を通って、各地を歴訪したのち、この上ない苦難をしながらアルカディアの海辺に滞在した。頭脳は明晰であったが、光(視力)に関しては病苦に襲われていた。あの莫大で驚くべき書き物は、『イブレオ』ではなく、ムーサの甘い蜜で一面に塗られた『イリアス』と『オデュッセイア』を口授した。 (ボッカチオ『異教の神々の系譜』第14巻19章、筆者訳)

〔原文解析〕

 

   ボッカチオといえば、ダンテの『神曲』を最初に称賛した詩人ではありましたが、また、先述したように近代ヨーロッパ人の中で最初にギリシア語を習得した古典学者でもありました。それゆえに、敬愛するダンテの王侯の姿をしたホメロス像も、また、ホラティウスの大酒飲みの詩人像も否定しました。ボッカチオは、古代ギリシア時代から受け継がれている伝統的な「盲目の吟遊詩人像」をルネサンス・ヨーロッパに復活させたと言えるでしょう。

   諸国を巡り歩く盲目の吟遊詩人としてのホメロス像は、多くのルネッサンス以後の人々に信じられてきました。その根拠となったものは、『オデュッセイア』の中に登場している吟遊詩人の姿です。その場面は、その叙事詩の主人公オデュッセウスが故国イタケに帰る途中で難破してスケリエ島に漂着して、その国のアルキノオス王に歓待される個所(第6巻~第13歌)です。その光景を少し詳しく紹介してみましょう。まず、国王は宴を盛り上げるために吟遊詩人を呼び寄せるために、召使いに次のように命令します。

 

   神のごとき歌人デモドコスを召し寄せよ。かれには神が、なんであろうと気のおもむくままに歌えば、何人にもまして人の心をよろこばす力を与え給うたのだ。 (『オデュッセイア』第8巻43~45、高津春繁訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼(アルキノオス王)は、神にも似た吟遊詩人デモドコスを呼び寄せた。なぜならば、神は彼に人を満足させる他の者より抜きん出た歌唱力を授けていた。彼の心は、その歌唱力によって歌うよう(彼自身を)鼓舞する。

 

   そして次に、使者が王の命令によってデモドコスを連れてきて、弾唱の準備をします。その様子は次のように描かれています。

 

 

   従者がお気に入りの歌人をつれて来た。かれをとりわけ歌の女神(ムーサ)は愛したが、幸いと禍いの両方を与えた。その目は奪ったが楽しい歌を与えたのだ。かれのためにポントノオスは宴(うたげ)の人々のまんなかに、高い柱を背に、白銀(しろがね)の鋲を打った椅子を据え、その頭の真上に、鋭い音(ね)の竪琴(たてこと)を釘にかけ、手で取れるように教えてやった。またかたわらに美しい卓と籠、好きな時に飲むように葡萄酒の杯をおいた。彼らは前に出された食べ物に手を出した・・・。 (『オデュッセイア』第8巻62~71、高津春繁訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   そして、使者は最適の歌人を連れて近くに戻って来た。ムーサは、その歌人を他の誰よりも贔屓(ひいき)にしていて、良い事と悪い事を与えていた。(ムーサは)両眼を奪ったが、他方では甘美な歌の技を授けていた。それゆえに、ポントノオスは、彼(歌人:デモドコス)のために銀の鋲(びょう)を打った椅子を、招待客たちの中央に設置して、長い柱に向かってもたせ掛けた。従者は、鮮明な音の竪琴を彼(歌人)自身の頭の上に、掛け釘から下の方へ吊して、自分の手で取れるように指し示した。近くに籠と美しい机を置いた。さらに、心が欲する時に飲むようにと、近くに酒の杯もおいた。彼らは準備され提供された料理の上に手を伸ばしていた。

 

   ボッカチオが想定していた「光(視力)を病苦に襲われた(luminibus egritudine captus)」盲目のホメロス像は、上の『オデュッセイア』で描かれたデモドコスから由来しています。上の記述から想像することができるように、当時の吟遊詩人たちは、アルキノオス王のような王侯たちに招かれたり、時には雇われたりしました。そして、客のリクエスト曲や、歌人自らの選曲によって、竪琴を奏でながら弾唱したようです。その弾唱の曲目は、次のように記述されています。

 

   飲食の欲をみたすと、歌の女神(ムーサ)は歌人に勇士たちの勲(いさお)をうたわしめた。それは、評判が天にまでとどいたオデュセウスとペーレウスの子アキレウスとの争い、いかにして二人がかつて神々のためのゆたかな宴(うたげ)で激しい言葉で言い争い、人々の王アガメムノーンは、アカイア人(びと)の将たちが仲違いした時に、ここの中で喜んだかを語る部分であった。 (『オデュッセイア』第8巻72~78、高津春繁訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   しかし、飲み物と食べ物の欲求から急いで解放されると、ムーサ女神はすぐに吟遊詩人に人間の栄光を自由に歌わせた。それゆえに、その時、その歌の評判は、広大な天にまで届いていた。オデュッセウスとペーレウスの息子アキレウスとの諍(いさか)いは、一体全体どの様にして、神々の豪華な宴の中で恐ろしい言葉で争われたかを、そして人々の王アガメムノンは心の中で喜んでいた。なぜならば、アカイア人の最上なる者たちが喧嘩をしているからである。

 

   上の詩行の中で歌われているオデュッセウスとアキレウスの諍いのエピソードは『イリアス』にも『オデュッセイア』にも登場していないので、それが何であったかは不明です。しかし、この場合の吟誦のテーマは何であれ、その詩人は、詩神ムーサの霊感を受けて弾唱しています。ということは、聴衆からのリクエストではなく、詩人自身の選曲によって歌われたことになります。そして、ここで登場している吟遊詩人デモドコスの歌の評判は天にまで届いていたので、その人物がホメロスの原形である、と解釈される根拠になっていることが多いようです。しかし、私個人は、デモドコスがホメロスの原形であるとは考えません。

 

 

 

ホメロスは誰でしょう?

 

 

   この世で活躍した時代からまだ400年ほどしか経っていないシェイクスピアでさえも単独説が疑われて、フランシスコ・ベーコン説やクリストファー・マーロウ説などが存在しています。言わんやホメロスは、およそ2800年も前の人物です。その姿が解るほうが奇跡で、現代の私たちは、いろいろな資料から推測する以外にはありません。

 

 

 

   長い間(19世紀後半まで)『イリアス』と『オデュッセイア』に描かれているトロイアは、ホメロスが作り出した架空の都市だと考えられていました。しかし、19世紀のドイツの実業家ハインリッヒ・シュリーマンやイギリスの考古学者アーサー・エヴァンズなどによって、紀元前1200年頃に実際に起こった出来事であったことが明らかにされました。しかし、現代のギリシア文字がフェニキア文字を借用して作られたのは紀元前9世紀ごろだと推測されています。それ以前にも、ギリシア語を表記したものに「線文字A」や「線文字B」の存在もエヴァンスによって発見されていましたが、物語を記述する機能は持っていませんでした。ということは、トロイア戦争を題材にした二つの叙事詩は、トロイア戦争からおよそ400年後に誕生したことになります。すなわち、400年の間、文字に書き留められていない口承の「トロイアの話」が存在していたということになります。すなわち、上出の『オデュッセイア』に登場しているデモドコスのような吟遊詩人たちによって口承伝承されたのでしょう。そして最後に、ホメロスという名前で二つの大作が誕生したのです。

 

   ギリシア語の言語学の研究によれば、『イリアス』と『オデュッセイア』に使われている方言は、アイオロス方言やアルカディア方言などかなり多方面にわたっています。ということは、その二篇の叙事詩は、一人の詩人によって一つの地方で創作されたものではない、という可能性が高いのです。また、その叙事詩の叙述に使われている主な言語はイオニア方言であることが判明しています。そのことから、その作者が生活していた本拠地はイオニア(現在のトルコ・イズミル県)であったという説が生まれました。さらに、その作者がホメロスならば、彼はイオニア人か、またはそこを生活圏にしていた人物であろうと推測されました。そして、ホメロスのような吟遊詩人が何人も存在していたという学説も生まれ、次のように断言する学者も登場しています。

 

ウィキペディアの地図に筆者が加筆したものです。

 

   ホメロスが、『イリアス』と『オデュッセイア』を、自分の頭脳から自由に制作した、輝かしい想像力ゆたかな芸術家でなかったことを教えている。彼は、それまでに存在した伝説を利用したにすぎなった。われわれは現在、彼はじつは、トロイアの物語を歌った叙事詩人の長い系列の中の、最後の偉大な一人であったと信じている。彼らは歌いはしたが、書くことはなかった。というのは、文字をもたぬ民族の間では、制作過程が、今日われわれが考えるのとは、まったくちがっていたからである。 (J.チャドウィック『線文字Bの解読』大城功訳、みすず書房、13~14)

 

   ホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』が想像力に欠けた作品である、という見解には、私個人はまったく同意できません。ホメロスは「トロイアの物語を歌った叙事詩人の長い系列の中の、最後の偉大な一人」ではなく、唯一無二の詩人でした。もしかすると、ホメロス自身は、吟遊詩人ではなく、彼らの吟誦を聴く側の人間だったかも知れません。ホメロスが優れていたのは、フェニキア文字から作られたばかりでまだ普及していなかったギリシア文字を使いこなす能力と学識であったかも知れません。しかし、文字を操る技術だけであるならば、ホメロスの他にも多くの詩人がいたことでしょう。ホメロスだけが偉業を成し遂げることができたのは、国中に散乱していた詩の素材を組み合わせて巨大な叙事詩に仕立て直す構想力が備わっていたからだと言えます。すなわち、ホメロスだけが、トロイア戦争からおよそ四百年の間、数多の吟遊詩人たちが発酵と熟成を繰り返してきた素材を使って、輝かしい芸術作品を完成させた唯一の叙事詩人だったのだと、私は信じています。

   我が国の文学にもホメロス叙事詩と同じような成立過程を辿って誕生した作品があります。それが、『平家物語』なのです。両者の創作に共通しているのは、文字を介さない口承だけの期間を持っていたことです。私はそれを「発酵と熟成の期間」と呼んでいます。比較的明らかになっている『平家物語』の成立過程を見ることは、まったく知られていないホメロスのその過程を推測するのに有益だと考えています。姿の見えないホメロスを、比較的姿の見える検校覚一を通して見ることは有意義な結果を得ることが出来るのではないでしょうか。ホメロスの実像の科学的解明がなされていない状態では、検校覚一と比較することは、広大なロマンを感じませんか?