『神曲』煉獄登山39.ユーグ・カペーによる息子ロベール2世の紹介 | この世は舞台、人生は登場

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ユーグ・カペーの自己紹介

 

   フランス王国の祖ユーグ・カペーは、自分の名前と自分の身分を明かしました。

 

   私は現世ではユーグ・カペーと呼ばれた。フィリップ王やルイ王が私の子孫から幾人も出、彼らによってフランスは今日まで統治されてきた。 (『煉獄篇』第20歌 49~51、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私は、現世ではユーグ・カペーと呼ばれていた。フィリップたちやルイたちが私から誕生してきた。近年、フランスは彼らによって支配されている。

 

   1789年のフランス革命によって途絶えるまで、800年以上にわたりユーグ・カペーの血筋(カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝)は続きました。しかし、ダンテが『神曲』の中で語ることのできるのは、彼と同時代の第14代国王シャルル4世までです。そして、カペーは「フィリップたちやルイたちが私から誕生してきた(di me son nati i Filippi e I Luigi)」と述べています。それは、下に添付した家系図からも分かるように、歴代の国王の名前としては、その「フィリップ」と「ルイ」の二種類が圧倒的多数を占めているので、フランス国王の総称として使われているからでしょう。

 

 

ユーグ家の王位継承

 

   ユーグ・カペー王の霊魂は、名前を名乗ってから、彼の王位継承の過程と子孫のフランス王たちについて、次のように語り始めました。

 

   私はパリの肉屋の倅だったが、そのころ灰色の衣をまとった坊主一人を残して旧王朝の血統はことごとく死に絶えてしまった。それで私が王国統治の手綱を掌中に堅く握りしめることができた。そして新たに手に入れたおびただしい権力と数多い友人のおかげで、空位であった王の冠を私の息子の頭に戴(いただ)かせることができた。そこから代々の祝聖(しゅくせい)された骨が出たのだ。 (『煉獄篇』第20歌 52~60、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私はパリ伯領の肉屋の息子であった。昔の王たちが、灰色の衣を着た一人の修道士を除いて、すべてが断絶された時、私は、この手の中にしっかりと王国の支配の手綱を掴んでいた。そして新しく獲得した沢山の権力を持っていた。そして、友人で満ちていた(=味方が多かった)ので、私の息子の頭は、主(あるじ)を失った王冠にまで到達させられた。この者(息子)からこれらの者たちの神聖な骨は始まった。

 

   比喩と暗示的な表現が多いので解読と解説をしてみましょう。

   「私はパリの肉屋の息子であった(Figliuol fu’ io d’ un beccaio di Parigi)」と、ダンテはユーグ・カペーに自己紹介をさせています。

   ユーグ・カペーの口を借りたダンテによる「カペー伝説」には、現代からみると誤りがあります。カペー王は、「私はパリの肉屋の息子であった」と自己紹介をしています。カペー王が「肉屋の息子」であるということは、王の父親が「肉屋」であったと言っていることになります。現代においては、カペー王の父親はパリ伯領の君主ユーグ大公であったことが明らかになっています。そして、ユーグ大公といえば、下に添付の「フランク王国の系譜」に示されているように、西フランク王ロベールⅠ世とベアトリス(ヴェルマンドワ伯爵の娘)との息子です。しかも、ユーグ大公の后は初代神聖ローマ皇帝オットー1世の妹です。それゆえに、ユーグは西フランク王を継承するのに相応しい家柄も力量も備えていました。しかし、彼は国王になることを望まないで脇役に徹したようです。まさしく典型的な「キングメーカー(kingmaker)」と呼ぶに相応しい貴族だったといえます。それにもかかわらず、ダンテはカペー王に彼の父親ユーグ大公を「肉屋(un beccaio)」であったと言わせています。ダンテを筆頭に彼の時代のイタリア人はフランスに対して良い印象を持っていなかったのは確かなようです。それゆえに、ユーグ・カペーに彼の末裔のフランス王のことを「悪い樹木(la mala pianta)煉獄20歌43」と呼ばせ、彼自身をその「根(radice)」であると言わせているのです。

   ダンテの時代のイタリア人は、フランスに対して好意的ではなかったかも知れませんが、情報不足だったことも確かです。ダンテと同時代の歴史家で、共にフィレンツェの行政長官(プリオーレ、Priore)を務めたジョヴァンニ・ヴィルラーニ(Giovanni Villani、1276頃~1348)は『新年代記(Nuova Cronica)』の中で、「彼の父親は、肉屋か家畜商人から立身出世してパリの富裕で有力な市民になったと、大多数の著述家が書いている」と述べています。当時のイタリア人は、フランス王家は「成り上がり者」だと思っていたのでしょう。

 

 

「昔の王たちが、灰色の衣を着た一人の修道士を除いて、すべてが断絶された時(53~54)」

   「昔の王(li regi antichi)」とは、西フランク王国の王たちを意味しています。歴史学の用語に換言すれば、「カロリング(カール大帝の血をひく)王朝」の王たちのことです。そして、その血統の王朝は、ルイ5世が狩りの最中に起こった事故により20歳で早死にしたことにより断絶しました。ただし、その血筋をひく者としては、ルイ5世の叔父にあたるロレーナ伯シャルル(伊語Carlo di Lorena:仏語Charles de Lotharingie:英語Charles of Lorraine)が存命でしたが、彼はドイツ王国に忠誠を誓っていて、兄王ロテールがドイツと戦った時、オットー2世に味方してフランスに敵対しました。それゆえに、フランス人から王位継承者としては除外されていました。その結果として、フランスの王位はパリ伯のユーグ家に引き継がれることになりました。すなわち、西フランク王国(カロリング朝)の嫡流ルイ5世が跡継ぎを残すことなく早世したので、「主を失った王冠(la corona vedova)」は、ユーグ・カペーの子孫(ユーグ朝)へと引き継がれることになったのです。

   「灰色の衣を着た一人の修道士(un renduto in panni bigi)」という表現は、ルイ5世には当てはまりません。なぜならば、その王にまつわる歴史的出来事に「修道士」に該当する事件も人物も存在しないからです。我が国の著名なダンテ学者野上素一先生は、その「修道士(renduto)」を前述のロレーナ伯シャルルだと同定して、「修道院にいたという伝説がある」と指摘されています。野上先生は根拠なしに指摘することはないので、何かに書かれているのでしょうが、残念ながら私には探す能力はありません。野上先生は「メロヴィング朝の最後の王シルベリック三世も同じ運命にあったが、ダンテが両者を混同しているわけではない」と指摘されているのですが、一般的な学説は野上説とは反対です。ダンテだけではなくは当時のイタリアでは、カペー王の父親の「肉屋説」でも分かるように、フランスに関する情報が不足していたので、そのような混同はあり得ることだと私は考えています。

   ダンテがロレーヌ伯シャルルと混同したフランク王シルデリク(Childéric)3世について見ておきましょう。メロヴィング朝(ゲルマン人によって築かれた最初のフランク王朝)の13代目の国王テウデリク4世が死去(737年)してから空位になっていた王位に、ピピン3世とカールマンの兄弟の助力によって、シルデリク3世が即位しました。しかし、実権は家臣のピピン3世が握っていて、ついに751年にシルデリクは王位も奪い取られました。そして、シルデリク3世は廃位させられた上に剃髪までさせられました。その後、サントメール (Saint-Omer)にあるサン・ベルタン(Saint-Bertin)修道院に幽閉されたと言われています。

 

 

 

「その者(私の息子)からこれらの者たちの神聖な骨は始まった(dal quale〈=mio figlio〉 cominciar di costor le sacrate ossa)」

   「その者(quale)」も「私の息子(mio figlio)」も単数形なので、具体的には第2代フランス国王ロベール2世を指していると解釈するのが自然です。そうであるならば、上に引用した「神聖な骨が始まった」という詩句に加えて、「空位であった王の冠を私の息子の頭に戴(いただ)かせることができた(a la corona vedova promosa la testa di mio figlio)直訳:私の息子の頭は、主を失った王冠にまで到達させられた」という詩句は、初代フランス王をユーグ・カペーではなく息子のロベール2世だとダンテは考えていたことになります。

   「神聖な骨(le sacrate ossa)」は、歴代フランス王の遺骨を意味しています。ただし、先にも触れましたように、ダンテが『神曲』の旅をして煉獄でユーグ・カペーに面談しているのは、1300年の復活祭直後の火曜日でした。ということは、その時に現世にいて権勢を振るっていたフランス王は第11代のフィリップ4世なので、「神聖な遺骨」とは、それ以前に亡くなった第2代ロベール2世から第10代フィリップ3世までの9人の王を指しています。そして、「神聖な(sacrate)」とは、歴代フランス王がランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行ったことを表し、「遺骨(ossa)」とは第4代国王フィリップ1世を除いた全ての国王がサン・ドニ大聖堂に埋葬されていることを意味していると解釈できます。

(注)フィリップ1世だけは、生前の好色を恥じて先祖と共に埋葬されることを辞退したので、サン・ドニ大聖堂ではなくサン=ブノワ=シュル=ロワール修道院(Saint-Benoît-sur-Loire)に埋葬されました。

 

 

ブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)。

パジェット・トインビーの『ダンテ辞典』。

原文:C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2:Commentary, Vol.2.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols, Princeton U.P.

P. Toynbee (Revised by C.S. Singleton) “A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of Dante”Oxford U.P.