『神曲』地獄巡り14. 甘く新しい詩形:ドルチェ・スティール・ノーヴォ | この世は舞台、人生は登場

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無二の親友グイド・カヴァルカンティの父親
  カヴァルカンテ・カヴァルカンティ


第6圏谷火炎の墓

地獄に堕ちてもなお誇り高い豪傑ファリナータとの会話を遮るように、別の亡者カヴァルカンテ・カヴァルカンティ(Cavalcamte Cavalcanti)が顔を出して、ダンテと一緒に息子グイドがいないかと辺りを探しました。しかし期待が空しく外れたので、泣きながら尋ねました。


 「もし君がその才能ゆえに、この盲目の獄を行けるというのなら、私の子はどこにいる?なぜ君の横におらぬ?」

 その亡霊の質問に、ダンテは答えて言いました。

 「私は自分の力で来たのではありません、あそこで控えている方が、私を導いてくださるのです。でもお宅のグイド君は先生をどうも軽蔑していた」


 それを聞いたグイドの父は、さらに嘆きながら聞き返しました。

 「君、何といった、していたというと息子はもう生きていないのか?麗しい日の光は息子の目にもうささないのか?」

               (『地獄篇』第10歌58~69、平川祐弘訳)



 この二人の対話を理解するためには、イタリア語の原詩を見る必要があります。「お宅のグイド君はどうも先生を軽蔑していた」という箇所の原文は‘forse cui Guido vostro ebbe a disdegno’です。英語の得意な人には、シングルトン氏のその箇所の英訳は原文と語順もほとんど同じなので参考になります。氏の英訳は‘whom perhaps your Guido had in disdain’となっていて、「していた」の原文のイタリア語は‘ebbe’で、英訳は‘had’です。そして、そのイタリア語は、「持つ」を意味する動詞‘avere’の遠過去という時制の三人称単数形です。それゆえに、その亡者の息子グイドに関する出来事は過去のことなので、それを耳にした父親は、「君は彼が、〈していた〉と言ったね?(dicesti ‘elli ebbe’?)」と聞き返したのです。すなわち、ダンテが過去形で話したので、その父親は息子が死んでいると解釈してしまったのです。


無二の親友グイド・カヴァルカンティ

 グィッド・カヴァルカンティについて少し見ておきましょう。生誕日は不明で、1255年以後1259年以前の何れかの年だといわれていますが、死んだのは1300年8月29日でした。ダンテが『神曲』の執筆を始めた1307年には、グイドはこの世を去っていましたが、『地獄篇』の作品中で父親カヴァルカンテに出会っている時、すなわち、1300年4月9日の時点ではまだ生存していました。




 ボッカッチオの証言によれば、カヴァルカンティ親子は、ともに姿形が優雅で富裕な騎士階層でした。しかしエピクロスの信奉者でしたので、無神論で快楽主義の思想を持ち、魂は肉体の死滅と同時に消滅すると信じていました。それゆえに、この異端者の地獄に押し込められているのです。息子グイド・カヴァルカンティ(Guido Cavalcanti)は、ダンテの無二の親友で、新しい文学をめざした清新体運動の同志でした。文学をはじめ、ほとんどすべての高貴な文章はラテン語で書かれていた時代にあって、イタリア語を使って優れた詩を創作しようとした運動です。
 ダンテとグイドは親友であり文学運動の同志であると同時に、共に教皇派(グェルフィ党)でしたので、1289年6月11日のフィレンツェ郊外カンパルディーノ(Campaldino)の戦いでは勝利を収めました。その後、グェルフィ党が黒党と白党に分裂したときも、また共に白党に所属しました。(この教皇派と皇帝派の抗争については「地獄巡り7同じく13を参照)。ダンテは、妻ジェンマが黒党の首領コルソ・ドナティの血筋(従姉妹)でしたので、この抗争に関しては穏健派でした。しかし、グイドは、過激派でしたので、両派の和睦には妨げになりました。フィレンツェ共和国の執政官による1300年6月24日の会議で、両派の過激派を国外追放にすることが決定されました。残念ながら、グイドも追放されることになってしまいました。その会議では、ダンテも3名(6名?)の執政官(プリオレ: priore)の一人であった可能性がありましたので、友人の国外追放に関与した可能性があるといわれています。しかし、この追放は、最初から形式的なもので、追放者はすぐにフィレンツェに呼び戻されました。ところが、グイドはマラリアに冒されていましたので、帰国早々の1300年8月29日にこの世を去りました。



清新体(Dolce Stil Novo)運動について


 ローマ帝国がほとんど全ヨーロッパを統一したことは周知の事実です。そして占領されたヨーロッパの国々は、ローマ帝国の国語であったラテン語を共通語や公用語にしました。しかし、ローマ帝国の衰退に伴い、ラテン語は乱れて、それぞれの国々や地方で独自の変化をとげました。それらの方言化されたラテン語を、標準語のラテン語に対して「俗語」と呼び、現代の私たちは「ロマンス語」と呼んでいます。ダンテは、この俗語の重要性を主張したラテン語の論文『俗語詩論(De Vulgari Eloquentia)』を、『神曲』創作よりも前に書いています。科学的根拠という点に関してはまったく疑わしいのですが、ダンテが想定した俗語の成立過程を紹介しておきましょう。

 ダンテは、俗語の発生の源を旧訳聖書に求めて、「バベルの塔」にまで遡り、次のように記述しています。


 「まがった心の直らない人間は、巨人ニムロデにそそのかされて、おごり高ぶり、おのれの術によって自然を乗り越えようとしたばかりではなく、自然の創り手なる神までも凌駕しようとしたのであった。そしてのちにバベルすなわち「混乱」といわれた塔をシナルに建てはじめたのである。・・・ 実に人類のほとんどすべてが、このよこしまな事業のために集い来たった。あるものは命じ、あるものは設計の想を練り、あるものは壁を築き、あるものは測量器を手にそれを正し、あるものはコテを用いて壁をぬり、あるものは石を切り出し、あるものは海を、あるものは陸を、運ぼうとする。その他も多くの組に分かれて、ほかの多くの作業に没頭していたのである。その時天空から大混乱が襲い来たって彼等は打ちのめされたで、一つのことばを使って共通の仕事にはげんでいたすべての人々は、多数の言葉によって分裂状態に陥り、事業を中断するはめになった。・・・ しかし神聖なことばを失わなかった・・・その数にしてはごくわずかな人々が、わたしの推察によれば、ノアの三男であったセムの末裔であったのだ。かれらからイスラエルの民が生まれ出たのであり、かれらはその離散にいたるまでもっとも古い言語祖形を用いていたのである。」  
   (『ダンテ俗語詩論』第1巻7の4~8、岩倉具忠訳)


 ニムロデに唆されてバベルの塔を建造して神より怒りをこうむる前は、全人類は一つの同じ言語を使っていました。ダンテはそれを「もっとも古い言語祖形(antiquissima locutio)」と呼びました。それはヘブライ語のことを指しているようです。その言語は、ノアの三男セムの血をひくイスラエル人によって使い続けられました。また、バベルの塔の建築に携わった色々な職種の者たちは、別々の言語を使うようになったために、理解しあえなくなり、塔の建築事業は中断していましました。
 元々はヘブライ語を使ってコミュニケーションをしていたバベルの塔の建築者たちは、お互いが理解しあえない言葉を使うようになりました。その最古の言語祖形は三つの言語に分離しました。それは、ギリシア語とラテン語とゲルマン語でした。ゲルマン語は、ハンガリア人、チュートン人、サクソン人、イギリス人など多数の民族が使う多数の俗語に分離しました。また、ラテン語は、スペイン人、フランス人、イタリア人などの使う俗語に分離しました。さらに、イタリア語だけでも14の俗語に分化している、とダンテは言っています。



中世からルネサンスに向かって

パレルモからフィレンツェ地図

 中世からルネサンスに向かった出発地点は、イタリア半島の最南部、とくにシチリアだと言っても過言ではありません。その地方は紀元前700年ごろからギリシアからの植民が盛んで、「マグナ・グラエキア(大ギリシア)」と呼ばれて、古典ギリシア文明の恩恵を受けやすいという優位性を持っていました。またその後も、地理的にも歴史的にも、イスラムの影響を受けやすく、アラビア科学と呼ばれる当時は最先端の医学、数学、天文学、光学、化学などの実学精神も根付いていました。すなわち、シチリアには、オリエントとヨーロッパの混淆文化が栄えていました。神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世を父に、ナポリ・シチリア両王国の娘コンスタンツァを母にして生まれたフリードリヒ2世(イタリアではフェデリーコと呼ばれました)は、両王国の都パレルモの宮殿で育ちました。さらに、神聖ローマ皇帝の座についた35年間でもドイツにいたのは8年だけで、ほとんどの時間をシチリアのパレルモ宮殿で過ごしました。


パレルモ宮殿に芸術家や学者を召し出している模様
パレルモ宮殿に集う芸術家や学者


 フリードリヒは、天才王として名高く、ラテン語を始めとして6カ国語をマスターしていて、シチリアに根付いていた高度な学問を吸収していました。十字軍を率いてエルサレムの奪還に赴いた時も、その聖地を治めていたアル=カミール王は、フリードリヒの高いアラビア語能力とイスラム文化を敬重する姿勢に親密さを感じ、このドイツ王に信頼を寄せました。そして、エルサレムを無血のままフリードリヒに明け渡しました。


フリードリヒ皇帝とアル・カミール王との会談
フリードリヒ皇帝とカミール王の会談


 フリードリヒは、豊かな国際感覚を持ちすぎた皇帝でしたので、時の教皇グレゴリウス9世とは対立することが多く、破門宣告を受けましたが、いっさい動じませんでした。ダンテの『神曲』の中では目立ちませんが、実は第6圏谷の火炎の墓で刑罰を受けています。ダンテ学者は、フリードリヒがエピクロスの信奉者で無神論者であったので地獄の第6圏谷に落とされている、と判断しています。菊池良生氏の『神聖ローマ帝国』によれば、教皇がフリードリヒを破門にした口実は、彼が「モーゼ、キリスト、マホメットは世界三大詐欺師だ」と発言したことでした。何人もの教皇がフリードリヒを意のままにすることができず、持て余したことは確かなようです。
 フリードリヒ皇帝は、学問の振興に貢献しました。古典ローマ文化の衰退は激しく、ギリシア語は消滅し、ラテン語さえ方言化によって乱れていました。フリードリヒは、古典時代の格式の高いラテン語の復活を推し進めました。それと同時に、詩や文章を書くための優れたイタリア語の形成にも尽力しました。そしてフリードリヒの死後、学術の中心は北上してボローニアとフィレンツェに移りました。


ボローニアとフィレンツェ

 ますボローニアにおいて、近代ヨーロッパの学術は急速に進歩しました。ヨーロッパ最古の大学として1088年に設立されたボローニア大学は、13世紀初頭には総合大学(university)として成長していました。その大学では、ウェルギリウスやオウィディウスを使って古典教育が行われ、聖トマスやアリストテレスやユスティニアヌス法典が教材で使われ、天文学や自然科学に驚異を知る教養人が教育されました。ダンテもペトラルカも、時代は違いますがガリレオもコペルニクスもボローニア大学で学びました。パレルモで志向された優れた文章を書くためのイタリア語の形成は、ボローニアにおいて一応の完成をみました。ダンテと『神曲』を理解するためには最も重要で貴重な資料を提供してくれるベンヴェヌート(Benvenuto da Imola,1320?~1388)は、ボローニアを賛歌して「哲学者たちの巣、法律の母、すべての者たちと善良なる者たちの実り豊かな場所、人文学の愛情深き乳母(原文解析は下に添付)」と詠んでいます。
〔原文解析〕


 ボローニア大学で教鞭を執っていたので、ダンテも強い影響を受けていたグイド・グイニチェルリ(Guido Guinizelli、1230~1276)は、かなり完成された俗語(イタリア語)を用いて詩作をしました。彼の詩は、科学的・哲学的考察をもちいて恋愛詩を創作しました。
 ボローニアとほとんど同時期に、フィレンツェにおいても俗語の完成を目指しました。ボローニアとは異なりフィレンツェでは、芸術を表現するのに適した優雅な響きを持ち、しかもラテン語よりも優れたイタリア語の完成を目指しました。ボローニアの詩人たちは、愛のテーマを科学的な証明をするかのごとく詩作しました。しかしフィレンツェの詩人たちは、心に感じた愛の思いを、優雅でかつ精巧に詩作する姿勢をとりました。ダンテも『神曲』の中で、彼の詩風のことを「愛神が私に霊感を与えたとき、私は筆をとり、愛神が私の中で口述するまま筆を走らせます」(『煉獄篇』第24歌52~54)と言っています。そして、その詩風のことを「甘く新しい詩形(dolce stil novo)」(57行目)と呼んでいます。それゆえに、後の人々は、それを「清新体運動」と呼んでします。その清新体派の詩人の代表がダンテとグイド・カヴァルカンティで、彼らふたりは同志であり親友でもありました。
 ダンテは『煉獄篇』の他の箇所(第11歌97~99)で、次のように言っています。


  グイドが別のグイドから言語の栄光(la gloria de la lingua) を奪ったが、どうやらその両者を巣から追い出すことになる者が生まれているようです。


 この詩句の意味するところは、親友グイド・カヴァルカンティが師グイド・グイニチェルリの詩の名声を凌駕したが、そのふたりを越えるものが出現しようとしている、ということです。ボローニア大学で構築された詩風も清新体派が目指した詩風も、ソネットやカンツォーネといった抒情詩の範囲内の議論でしたので、叙事詩は念頭にはありませんでした。両グイドを「巣から追い出すことになろう(caccerà del nido)」詩人とは、この叙事詩『神曲』を書いているダンテ自身のことなのです。

 私の筆が遅いので、第6圏谷火炎の墓地に長く留まり過ぎました。4年2ヶ月経たないうちに、祖国に帰ることは難しいということを身に染みて知ることになる、という予言をファリナータから聞かされましたので、ダンテは不安に苛まれていました。間もなくベアトリーチェが、その不安を払拭してくれるだろうと、ウェルギリウスは勇気付けました。そして二人は、この圏谷の更に悪臭の激しい墓地へと進んで行きます。