『神曲』煉獄登山53.食べ過ぎて痩せ過ぎた霊魂たち | この世は舞台、人生は登場

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痩せて骨と皮だけになった飽食家

 

 

   第6環道で出会った霊魂たちは、嘆き声で「主よ、私の唇を開かせ賜えDomine, labia mea aperies)」と「ミセレーレMiserere)」を歌いながら、すなわち『詩篇第50篇』を唱和しながらダンテたちの側を追い抜いて行きました。その時の霊魂たちの容姿は、次のように描写されています。

 

   彼らは誰も彼も眼が暗く凹(くぼ)んで、顔色は蒼(あお)く、体は痩(や)せ細(ほそ)り、骨格が皮膚(ひふ)にまでまざまざとあらわれていた。エリュシクトンが飢(う)えて我慢がならなくなった時でも、これほど瘦せこけて皮一枚になったことはなかったろうと思われる。(『煉獄篇』第23歌 22~27、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   各々の霊魂は、目においては黒くかすんで凹んでいた。顔においては青白かった。そして、余りにも衰弱していて、皮膚が骨格によって形づくられていた。(=皮膚が骨格のままの形をしていた。)エリュシクトーンが食を断たれることにこの上なく恐れを持った時に、食を断たれたので、皮膚の表面がこれ程までに瘦せこけたとは、私は信じない。(=これ程までは痩せてはいなかったであろう。)

 

   第6環道で浄化されている罪は、生前に犯した過度の大食と美食の罪です。ただし、その環道にいる霊魂たちは、煉獄で許される範囲の貪食の罪を犯した者たちで、許されなかった亡者たちは地獄の第3圏谷で猛犬ケルベロスによって食い千切ぎられています。しかし、この煉獄第6環道では、現世で着けた贅肉を極限まで削ぎ落とすことによって、生前の罪を浄化しています。それゆえに、ここいる霊魂たちは、両目が落ちこみ、血色がなくて、すべての贅肉を剃り落とされて、皮膚と骨格だけになっています。そして、ダンテはその姿をローマ神話に登場する「エリュシクトン」に喩えています。

 

エリュシクトン(Erysicthon

   ダンテの時代においては、(その後のルネサンス時代においても同様に)国の要職に就くためにはラテン語の修得が必須でしたので、大抵の教養人は幼少の頃からラテン語を学びました。そして、その最適な教科書としてオウィディウスの『転身物語(メタモルポセス)』が使われていました。それゆえに、日本人のほとんどだれもが、特別に学んだ記憶はなくても『桃太郎』や『かくや姫』などの童話やその登場人物のことを知っているのと同じように、中世およびルネサンスの人々は『転身物語』の神話を子供の頃から知っていたことでしょう。ギリシア・ローマ神話の登場人物としては、ゼウス(ユピテル)やポセイドン(ネプトゥヌス)やヘルメス(メルクリウス)やアレス(マルス)などは今日でも誰もが知る人物です。ところが、「エリュシクトン」といえば、ダンテの時代には『転身物語』を通じて一般的に知られている人物だったかも知れませんが、今日の私たちにとっては馴染みの薄い人物だと言えます。第6環道の激痩せ登場人物を知るためには、『転身物語』の中のエリュシクトン神話を理解する必要がありますので、ここで概容をみておきましょう。

 

 

『転身物語』第8巻738~878の概略

   エリュシクトンは、テッサリア王トリオパスの王子でした。彼は神に対して極めて不敬な人間でした。彼は、豊穣の女神ケレス(デメテル)の聖なる森で数百年の年輪を持った樫の聖木を斧で切り倒しました。その木の切り口からは血が大量に流れ出ました。さらに、その暴挙を止めに入った男の首もはねてしまいました。そのために木の妖精は死にましたが、彼女の姉妹たちがエリュシクトンへの罰を女神ケレスに願い出ました。女神は、飢餓の女神ファメスに頼んで、その乱暴者に無限の飢えの苦しみを与えることにしました。豊穣の女神は、真逆の神性を持つ飢餓の女神とは、直接会うことが許されていませんでした。そのために、女神に仕える山の妖精オレーアスをファメスのもとに遣わしました。飢餓女神は、ふだんは豊穣女神とは犬猿の仲でしたが、こんかいばかりはエリュシクトンへの処罰を引き受けました。

   ファメス女神は、エリュシクトンに取り憑いて、彼の全身に空腹感を吹き込みました。すると、その不敬の男は、無限の食欲と無限の咽の渇きを覚えたので、彼の国中のすべての食物を食べ尽くしました。そして、全財産を使い果たしたので、自分の一人娘ムネストラ(メストラ)を売り飛ばしてしまいました。そのムネストラは孝行娘でした。そして、海神ネプトゥヌスから変身の術を授かっていたので、ある時は牝馬になり、ある時は鳥になり、またある時は牛や鹿になって人を欺いて食物を手に入れては、それをすべて父親に与えていました。そして最後に、食べるものがなくなったエリュシクトンは自分の歯で自分の手足まで食べてしまいました。

 

   煉獄第6環道の霊魂たちは、現世で犯した貪食の罪を浄化して、すべての贅肉を削ぎ落として「エリュシクトンが瘦せこけた(Erisittone fosse fatto secco)」時のような姿になっていました。そして、「両目はかすんでくぼみ(ne li occhi era oscura e cava)」、「顔は青白く(palida ne la faccia)」、「皮膚は骨格の形状で形成されていた(da l’ ossa la pelle s’ informava)」すなわち「骨と皮だけになっていた」と、ダンテは言っています。そしてさらに、顔の形相については次のように述べています。

 

   その人々の眼窩(がんか)は珠(たま)の抜けた指環(ゆびわ)にそっくりだった。人間の顔にM(オモ)という字を読み取る人は、そこにはっきりとM(エム)の字を認めたにちがいない。(『煉獄篇』第23歌 31~33、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   両目は宝石のない指輪のように見えた。人間の顔の中に「OMO」を読みとる人は、きっとそこにMの文字を認識したことでしょう。

 

   この個所は謎めいていて難解そうですが、実はダンテの時代には簡単な文字遊びとして一般に流布していた言葉であったようです。標準イタリア語では「人間」を「ウオーモ(uomo)」と言います。ダンテも『神曲』の中ではその単語を使っています。しかし、ラテン語では人間を「ホモ(homo)」と言います。そして、イタリアでは「」の文字は発音しないので、‘uomo’がイタリア語として確立する以前、すなわちイタリア語がロマンス語の一つの方言であった時期は、人間を「オーモ(omo)」と呼んでいたようです。それゆえに、文字の中に文字を二つ挿入して激痩せした人の顔を連想しました。下の添付図を参照。

 

ダンテの激痩せのイメージの根源

 

   煉獄第6環道の霊魂たちが「瘦せこけたエリュシクトン」の姿をしている、とダンテは描いています。しかし実際には、その環道の霊魂たちの姿は、オウィディウスの描く「飢餓の女神ファメス」の異形に似ています。前述したように、エリュシクトンを罰するために、豊穣女神ケレスは山の妖精オレーオス(Oreas)を使者としてファメスのもとに派遣しました。その時に妖精オレーオスが見たファメスの怪奇な風貌を、オウィディウスは次のように描いています。

 

   かの女は、岩石だらけの原っぱにたずねもとめるファメスがいるのをみとめた。ファメスは、ほんのわずかに生えた草を爪と歯でかきむしっていた。髪はもじゃもじゃで、眼は落ちくぼみ、蒼白な顔をし、唇は、不潔なごみのためにすっかり土色になり、喉は、腐敗物のためにただれ、皮膚はかさかさになってやぶれ、内部の臓腑が見えるくらいであった。肉のない骨は、まがった腰のあたりから突きだし、腹はというと、ただそれらしい場所があるだけで、胸は宙にぶらさがり、かろうじて脊椎にひっかかっているかとおもわれた。瘦せこけているので、骨の関節が突出し、膝蓋骨はふくれあがり、踵(かかと)は大きく外がわにはみ出しておった。 (『転身物語』第8巻 799~808、田中秀央・前田敬作訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   尋ねられしファメスを(=ファメスを尋ねて)彼女(オレアス)は、石のごろごろした僻地の中で見つけた。そして彼女(オレアス)がまばらにしか生えていない雑草を爪と歯で引き抜いているのが見えた。髪の毛はボサボサであった。目はくぼんでいた。顔には蒼白な恐怖、唇はカビで汚れて灰色になっていた。喉はカビで不潔であった。皮膚は硬く、内臓が皮膚を透して見られることができたであろう。

   痩せて貧弱な骨格は曲がった腰の下で突き出ていた。内臓の位置は内臓の力によって存在していた(=内臓は内臓自体の力によって位置していた)。胸は垂れ下がり背骨の関節によってのみただ保たれていると、あなたは思ったことでしょう。そして、膝の円形のもの(=膝の皿=膝蓋骨)はふくれていた。そしてくるぶしは極度に大きなこぶで出っ張っていた。

 

   ダンテは、第6環道の霊魂たちが痩せて骨と皮だけになっている姿を、エリュシクトンに喩えていますが、むしろオウィディウスが描いた飢餓の女神ファメスの姿を想定して描いているといえます。すなわち、ダンテの読者は、エリュシクトンの名前から飢餓女神の姿を連想しなければならないのです。