『神曲』煉獄登山52.煉獄の主題歌ミセレーレ | この世は舞台、人生は登場

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貪食の罪を浄める第6環道

 

 

   煉獄における浄罪のための修行は、地獄の責め苦と変わらないほど厳しいものです。しかし、地獄の拷問は「永遠の苦悶eterno dolore)」をともなっていますが、煉獄の懲罰は、現世で犯した罪の軽重によって拘束期間の長短はあるものの、いつかは許されます。そして、煉獄の苦悶と苦悶との間のところどころには憩いの場所が与えられていて、そこでは聖歌が流れています。また、それぞれの環道と環道の間では、罪の浄化を成し遂げた褒美として天使によって励ましの聖歌が贈られます。地獄から煉獄に入った最初の魅惑的な夜は、霊魂たちによる聖歌『サルウェ・レギーナ』の大合唱がおりました。煉獄の日課が終わり就寝の時間が近づくと、『光が消える前にTe lucis ante)』の祈りの聖歌が歌われます。さらにまた、煉獄門が開くときには、聖歌『我ら神である汝を讃えるTe Deum laudamus)』が歌われます。そして、それぞれの環道で浄化を成し遂げる度に、霊魂たちには、イエスによる「山上の垂訓」の中から適切な言葉が、祝い歌として守護天使によって歌われます。煉獄山は、浄罪をする霊魂たちの苦悶の呻き声と、浄罪を終えた霊魂たちの喜びの歌声と、天使の祝い歌で充満している場所なのです。

   煉獄には要所要所で聖歌が歌われています。しかし、『神曲』の作品中では曲の一楽句(フレーズ)だけが示されているだけなので、読者がそれによって全曲を想像しなければなりません。ということは、読者は短い詩句から想像力を働かせて曲全体を聴くことになります。すなわち、音楽の前奏(イントロ)を聴いただけで想像力によって全曲を聴かなければならないのです。そのような歌われ方がされる煉獄界の聖歌の中で最も重要な曲は何であるかを推察してみましょう。

 

   巡礼者ダンテと先達ウェルギリウスは、生前にお金を貯めすぎた霊魂とお金を使いすぎた霊魂が罪の浄化をするために地面に腹ばいになっていた第5環道を抜け出しました。すると、第6環道へ上る石段の途中で、浪費の罪を浄め終えたスタティウスと出会いました。そして、彼ら三人は、連れだって第6環道へ入りました。その時、前方から歌声が次のように聞こえてきました。

 

   すると突然嘆き声と歌声とが聞こえた。「主よわが口唇を」それは喜びと嘆きとがともどもに生ずるような声音だった。(『煉獄篇』第23歌 10~13、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   そして、ご覧なさい、「主よ、私の唇を」と泣きながら歌うのが聴かれた。喜びと苦しみを(同時に)生み出すような歌い方であった。

 

   前述したように、『神曲』の中で霊魂たちによって歌われる聖歌は、その全曲の一部分しか表記されないので、その全文は読者が補って理解しなければなりません。第6環道の入口で聞こえてきた「主よ、私の唇をLabia mea, Domine)」というラテン語の詩句は、全21詩節で構成された『詩篇(Psalmus)第50篇』(ウルガータと70人訳以外のほとんどの聖書は第51篇になる。また詩節の数も異なるが後述する)の中の第17詩節の一部分です。その第17詩節のラテン語の全文は次のようなっています。

 

 

   上の詩節が収められている『詩篇第50篇』は、後にグレゴリオ・アレグリ(1582~1652)によって『ミセレーレ』という題名で作曲されて、システィーナ礼拝堂の朝課で使われました。そしてそれは、モーツアルトによって楽譜化されるまで、バチカン宮殿の外では歌うことが禁じられた秘密の曲になっていました。では、なぜ『ミセレーレ』が神秘で貴重な聖歌になったのか、という問題を推測してみましょう。

私の推測の域を出ませんが、アレグリに『ミセレーレ』を作曲させた動機になり、またその曲がバチカンによって門外不出の貴重な聖歌になったのは、ダンテが『神曲』の中で重要な曲として使っていたからかも知れません。なぜならば、この『ミセレーレ』は煉獄界の主題歌だと言えるからです。

   煉獄界の浄罪を行う最後の場所は第7環道で、生前に犯した情欲の罪を猛火で浄める場所です。そして、そこでも二つの聖歌が使われています。最初の曲は火炎に入る手前で、イエスによる「山上の垂訓」の「第6福」で「心が清らかならば祝福される。なぜならば、彼ら自身が神を見ることになるからBeati mundo corde quoniqm ipsi Dei vocabuntur)」と、歌われます。そして二曲目は、火炎の向こう側から聞こえてきて、「来たれ、私の父なる神に祝福された者よVenite, benedicti Patris mei)」という『マタイによる福音書』の「第25章34」の言葉です。どちらの曲も緊迫した状況の中で、火炎に入ることをためらう霊魂を鼓舞するために歌われるものです。それゆえに、安らかな状況の中で歌われるのは、第6環道で歌われる『ミセレーレ』が最後の聖歌だと言えるかも知れません。

   第6環道で歌われる『ミセレーレ』は、『詩篇第50篇第17詩節』の「主よ、私の唇を」の詩文しか記述されていませんが、実際には、その詩篇のすべての詩文を歌っていると想定すべきです。しかも『ミセレーレ』は、この第6環道で歌われるのが最初ではなく、すでにダンテとウェルギリウスが地獄から煉獄に着いた当初から、霊魂たちによって歌われていました。まだ煉獄登山が許されない霊魂たちが長く留め置かれた煉獄前域(Antipurgatorio)で、すでにその聖歌は歌われていたのです。その時にその場所で、巡礼者ダンテは霊魂たちが聖歌『ミセレーレ』を歌うのを聴きました。その模様は次のように描かれていました。

 

   そうこうするうちに私たちより少し上の山腹を横切って、人々が一句一句「ミセレーレ」を唱えながら進んで来た。(『煉獄篇』第5歌 22~24、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   そしてその間に、人々が、幅のある側面を通って、私たちの少し前方を、「憐れみたまえ」の歌を一つ一つ詩句を丁寧に歌いながらやって来つつあった。

 

   上の引用文の中の「ミセレーレMiserere)」というラテン語の言葉は、『詩篇第50篇』の最初の歌詞でもあり、またのちに、その聖歌の題名にもなりました。「一句一句a verso a verso)」丁寧に「歌いながらcantando)」進んでいたということは、『ミセレーレ』は、その聖歌の題名だと言うことです。その聖歌『ミセレーレ』が浄罪の旅を始める前の煉獄前域で歌われ、さらにまた浄罪登山を終えようとしている第6環道でも歌われているということは、煉獄の浄罪修行の全行程を通して歌われていると解釈することもできます。すなわち、「ミセレーレ」は煉獄篇の中で使われている聖歌の中で最も重要な曲だといえます。その曲もう少しじっくりと鑑賞してみましょう。

 

 

ミセレーレの鑑賞と解析

 

   ダンテが『神曲』の中で使っている聖書はラテン語訳『ウルガータ』です。その聖書とギリシア語訳『セプトゥアギンタ』の二種類の聖書では、ミセレーレで始まる詩篇は「第50篇」ですが、その他の近代聖書は、私の知る限りすべて「第51篇」に分類されています。因みに、ギリシア語聖書でも現代の聖書は「第51篇」になっています。まず、『詩篇第50篇』の概要を日本聖書協会の翻訳聖書によって見ておきましょう。

 

詩篇第51篇』(日本聖書協会訳)

1   神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。

2   わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。

3   わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。

4   わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

5   見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。

6   見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

7   ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。

8   わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。

9   み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。

10  神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

11  わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。

12  あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

13  そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。

14  神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。

15  主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

16  あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。

17  神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。

18  あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。

19  その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

 

   『詩篇第50篇』は、本篇が開始される前に二つの詩節がその作品の「題目」として添えられています。その二つの詩節を本編に加えれば、その作品は21の詩節から成り立っていることになります。しかし、一般的にはその題目の個所は本体には加えないので、全19詩節から成る作品だと考えられています。その題目の部分は聖書によって異なっていますが、『ウルガータ』の『セプトゥアギンタ』からの翻訳版は次のような文言になっています。

 

  題目:最後に彼(ダビデ)がベトサビの近くに入った時に、予言者ナタンが彼の近くにに来た時に詠んだダビデの詩篇

〔原文解析〕

 

詩篇第50篇の原文解析〕第1詩節から第2詩節

 

 

〔直訳〕

   神よ、あなたの大きな慈悲の心に従って私を憐れみたまえ。そしてあなたの溢れる慈悲の心に従って、私の罪を浄めたまえ。

   私の罪業から私を徹底的に洗浄したまえ、私の罪から私を浄めたまえ。

 

〔詩篇第50篇の原文解析〕第3詩節から第4詩節

 

 

〔直訳〕

   私は自分の過ちを自覚していますから、私の罪が常に私の面前に存在しています。

   私は唯一あなたにのみ罪を犯してきました。あなたの御前で過ちを犯してきました。その結果、あなたが裁きを行う時はあなたは絶対者です。

 

〔詩篇第50篇の原文解析〕第5詩節から第7詩節

 

 

〔直訳〕

   見よ、私は邪悪の下で生まれました。そして私の母は邪悪な状態の中で私を生みました。

   ご覧の通り、あなたは真理を尊重してきました。識別不能で秘密のあなたの叡知を私に明示して来ました。

   私にヒソップ草を振りかけたまえ。そうすれば私は浄められるでしょう。私を洗いたまえ、そうすれば私は雪よりも白くされるでしょう。

 

 

〔詩篇第50篇の原文解析〕第8詩節から第9詩節

 

 

〔直訳〕

   私の聴覚に喜びと楽しみを与えたまえ。そうすれば、辱められた(身体中の)骨は喜び跳ねることでしょう。(ヘブライ語聖書からの翻訳では)あなたが粉砕した骨は喜び跳ねることでしょう。

   私の罪業からあなたの顔を逸らせたまえ。そして私のすべての悪行を消し去りたまえ。

 

〔詩篇第50篇の原文解析〕第10詩節から第13詩節

 

〔直訳〕

   神よ、私の中に清潔な心を生み出してください。そして、私の身体の中で魂を新たにして真っ直ぐにしてください。

   あなたの面前から私を投げ捨てないでください。そして、あなたの聖霊を私から奪い取らないでください。

   あなたの救いの喜びを私に返してください。そして、第一の者としての霊力で私を鼓舞してください。

   私は敵対者たちにあなたの道を教えるでしょう。そうすれば、不信心者たちはあなたに回心するでしょう。

 

 

〔詩篇第50篇の原文解析〕第14詩節から第15詩節

 

 

 

〔直訳〕

   私を血(?)から解き放て、神よ、私の救い主の神よ。そうすれば、私の弁舌はあなたの律法を声高らかに言うでしょう。

   主よ、私の唇を開けてください、そうすれば私の口はあなたの賛辞を発表して知らせるでしょう。

 

 

 

〔詩篇第50篇の原文解析〕第16詩節から第17詩節

 

 

〔直訳〕

   もしあなたが生贄をお望みだったならば、私はいつでもお供えしていたことでしょう。(これからも)あなたは生贄を喜ばないでしょう。

   神への供え物は苦しみを受けた魂です。神よ、砕かれて卑しめられた心を忌み嫌わないでください。

 

 

〔詩篇第50篇の原文解析〕第18節から第19詩節

 

 

〔直訳〕

   主よ、あなたの慈悲深い御心によってシオンに好意を持ってください。願わくはエルサレムの城市が建造されますように。

   その時、あなたは法に従った生贄と奉納品と播祭を受け取ることになるでしょう。その時には、人々はあなたの祭壇の上に仔牛を供えるでしょう。