『神曲』煉獄登山56.シチリア派詩人と清新体派詩人 | この世は舞台、人生は登場

この世は舞台、人生は登場

ブログの説明を入力します。

貪食者のカタログ

   煉獄の第6環道には、生前に過度の飽食のために、断食の苦行を課せられて激痩せした霊魂たちがいました。ダンテの親友で悪友でもあったったフォレーゼ・ドナーティが、そこで罪を浄化している霊魂たちを紹介しました。まず、最初に彼が紹介したのはボナジュンタ(Bonagiunta)でした。その名前はフィレンツェではありふれていたので「ルッカの(da Lucca)」を付け加えて「ルッカのボナジュンタ」と呼ばれていました。そして次に紹介したのは、そこの霊魂の中でもとくに目立って痩せていた教皇マルティーノ4世でした。彼はフランスの旧州トゥレーヌ(Touraine)で1210年または1220年に生まれて、1285年3月28日に亡くなりました。マルティーノ4世は、カルロ1世ダンジョのイタリアでの隆盛と共に、聖職者として頭角を現しました。そして、1280年8月22日教皇ニコラウス3世の没後、次の教皇が決まらないのに乗じて、カルロ・ダンジョの無理押しで、1281年2月22日に189代ローマ教皇に就任しました。その教皇は、ボルセナ湖で取れたウナギ(anguilla、英:eel)を辛口白葡萄酒ヴェルナッチャ(vernaccia)に浸けて焼いたものが大好物でした。

 

 

貪食家たちの関連地図

 

   次にダンテの目に入ったのは、ウバルディーン・ダルラ・ピーラ(Ubaldino degli Ubaldini dalla Pila)でした。ウバルディーノは、フィレンツェの北方でアルノ川の支流シエヴェが流れる渓谷の国ムジェルロ(Mugello)を支配していた有力な皇帝派領主でした。彼は、異常な美食家で、いつも料理長に豪華で新しい晩餐を作らせていました。ついに、料理長も新しい料理を作ることができなくなってしまった、という理由でこの環道にいます。

  その次に目に入ったのは、生前はラヴェンナの大司教であったボニファチオ(ラテン名ボニファティウスで教皇ボニファティウス8世とは別人)です。彼は、ジェーノヴァ共和国のラヴァーニャ地方を治めていたフエスキ伯爵家の出身であるという説もありますが、そうだとするならば、180代教皇インノケンティウス4世の甥ということになります。さらにまた、186代教皇ハドリアヌス5世と兄弟か従兄弟ということになりますが、確証はないようです。また、アラゴン王アルフォンソ3世とフィリップ4世との対立の時には仲裁役として派遣されたり、ナポリ王カルロ2世がアラゴン海軍と戦って敗れて捕虜となった時に、カルロの釈放のために使節になったなどのエピソードがありますが、確証はないようです。しかし、彼は1295年2月1日に死去しましたが、その時には巨万の富を貯え、金属食器の巨大な収蔵品があったと言われています。そのことから、このボニファチオは美食家であったと推測されます。

  そして最後に、メッセーレ・マルケーゼ(messere Marchese)という霊魂が目に入りました。この人物に関しては存在が曖昧です。「メッセール」は英語の「卿(Sir)」と同じく「敬称」なので、本名は「マルケーゼ・デリ・アルゴリオージ(Marchese degli Argogliosi)」だと言われています。イタリア版ウィキペディアでは、彼は1316年に死去していると書かれています。しかし『神曲』では、この場面すなわち1300年4月の時点で巡礼者ダンテが煉獄で出会っていることになります。それゆえに、それ以前には死んでいることになるので、そのウィキペディアの記事は誤りであることになります。マルケーゼの情報は少ないので、煉獄篇の原文を参照しておきましょう。

 

   またマルケーゼも見えた。この男は昔フォルリで、いまほど渇きは覚えなかったが、それでも飲みに飲んで、飽くことを知らなかった。(『煉獄篇』第24歌31~33、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   私はメッセル・マルケーゼを見た。彼は、かつてフォルリでは、ほとんど喉が渇かないうちから飲む時間を持ち、満足することはなかったほどであった。

 

   平川祐弘版『神曲』では、「訳注」として歴史家ベンヴェヌート(Benvenuto da Imola, 1320?~1388)と同じような説明文が添えられています。その個所を要約すると次のようになります。

   マルケーゼが食料保管係に「市中ではわしのことを何と呼んでいるか」と尋ねると『飲むほかはなにもしない方と申しております』と答えました。するとマルケーゼは「わしがいつも渇きを覚えている、となぜ言わぬ」と微笑して答えた。

 

清新体派の詩人ダンテ

 

   今さら言うまでもなく、ダンテは『神曲』を書きました。そして、その『神曲』が余りにも突出して優れた叙事詩なので、ホメロスとウェルギリウスに比肩する叙事詩人と評価されています。しかし、ダンテは極めて多くの抒情詩も書き残しています。しかも彼は、長く淀んでいた中世時代の文学をルネサンスに向けて改革した「清新体運動」の中心人物でもありました。その運動については、私のブログ「地獄巡り.14」でも述べてありますが、再度、見ておきましょう。

 

   ローマ帝国がほとんど全ヨーロッパを統一したことは周知の事実です。そして占領されたヨーロッパの国々は、ローマ帝国の国語であったラテン語を共通語と公用語にさせられました。しかし、ローマ帝国の衰退に伴い、ラテン語は乱れて、それぞれの国々や地方で独自の変化をとげました。それらの方言化されたラテン語を、標準語のラテン語に対して「俗語」と呼び、現代の私たちは「ロマンス語」と呼んでいます。ダンテは、この俗語の重要性を主張したラテン語の論文『俗語詩論(De Vulgari Eloquentia)』を、『神曲』創作よりも前に書いています。

 

シチリア派詩人

 中世からルネサンスに向かった出発地点は、イタリア半島の最南部、とくにシチリアだと言っても過言ではありません。その地方は紀元前700年ごろからギリシアからの植民が盛んで、「マグナ・グラエキア(大ギリシア)」と呼ばれて、古典ギリシア文明の恩恵を受けやすいという優位性を持っていました。またその後も、地理的にも歴史的にも、イスラムの影響を受けやすく、アラビア科学と呼ばれる当時は最先端の医学、数学、天文学、光学、化学などの実学精神も根付いていました。すなわち、シチリアには、オリエントとヨーロッパの混淆文化が栄えていました。神聖ローマ皇帝ハインリッヒ2世を父に、ナポリ・シチリア両王国の娘コンスタンツァを母にして生まれたフリードリヒ2世(イタリア名フェデリーコ、1194年~1250年)は、両王国の都パレルモの宮殿で育ちました。さらに、神聖ローマ皇帝の座に就ついていた35年間でもドイツにいたのは8年だけで、ほとんどの時間をシチリアのパレルモ宮殿で過ごしました。

   フリードリヒ2世は、シチリアにオリエントとヨーロッパの混淆文化を栄えさせた豊かな国際感覚を持った皇帝でした。それゆえに、時の教皇グレゴリウス9世とは対立して、破門宣告も受けましたが、いっさい動じませんでした。ダンテの『神曲』の中では目立ちませんが、実は地獄の第6圏谷の火炎の墓で刑罰を受けています。しかも、その皇帝の実写はされていません。フィレンツェの豪傑ファリナータの「ここで我が輩は千人以上の者と共に横たわっていて、フェデリーコ2世もここの奥の方にいる(原文は下に添付)」という言葉からフリードリッヒ2世の存在を推測するだけです。

〔原文解析〕

 

  ダンテ学者は、フリードリヒ2世がエピクロスの信奉者で無神論者であったので地獄の第6圏谷に落とされている、と判断しています。菊池良生氏の『神聖ローマ帝国』によれば、教皇がフリードリヒを破門にした口実は、彼が「モーゼ、キリスト、マホメットは世界三大詐欺師だ」と発言したことでした。何人もの教皇がフリードリヒを意のままにすることができず、持て余したことは確かなようです。

また、皇帝フリードリヒ2世は、学問の振興に貢献しました。中世時代においては、古典ローマ文化の衰退は激しく、ギリシア語は消滅し、ラテン語さえ方言化によって乱れていました。フリードリヒ皇帝は、ウェルギリウス、オウィディウス、ホラティウスなどを学び、古典ローマ時代の格式高いラテン語の復活を推し進めました。それと同時に、詩や文章を書くための優れた俗語(イタリア語)の形成にも尽力しました。その皇帝のパレルモ宮殿に集ってイタリア詩の形成に尽力した詩人たちのことを「シチリア派」と呼んでいます。その時代の詩人の中でダンテに影響を与えた人物は、彼が「公証人(il Natato)」と呼んでいるヤコポ・ダ・レンティーニ(Iacopo da Lentini)です。その詩人の生年月日は不明ですが、シチリア王時代のフリードリヒ2世(在位:1198―1250)とその子マンフレーディ(在位:1258―1266)に仕えたということなので、13世紀中頃に活躍した人物でしょう。

   もう一人の優れたシチリア派詩人は、「裁判官(Giudice)」と呼ばれていたグイド・デッレ・コロンネ(Guido delle Colonne、1210頃~1287頃)です。イタリア文学者フランチェスコ・デ・サンクティス(Francesco de Sanctis:1817―1883)が、裁判官グイドとシチリア派の詩の特徴を的確に述べています。

 

  彼の学識と長年の文筆の経験はただ前例を見ない、技巧的に高い水準に達するため以外には、役立たなかった。見事にできあがった文章、連関や運びのたくみなテクニック、調和と荘重の味わいがそこにはあるが、だが純粋に文学的な、冷厳な技法でしかない。感情が見当たらない。頭の良さ鋭さと学識とが感情にとって代わっている。おそらく、このように荘重な技巧的な形式の中にはめこまれていなかったとしたら、滑稽きわまりない印象を与えたであろう、凝りすぎたイメージや着想の奇抜さで効果をあげようと努めている。  ( デ・サンクティス(池田・米山訳)『イタリア文学史・中世』(現代思潮社)22頁。)

 

   すなわち、グイド・コロンネの恋愛詩は難しい理屈を捏ねて愛を告白しているのです。デ・サンクティスは、その実例としてグイドの次の詩を上げています。

 

  火が水により、/あの偉大な冷たさを捨てたとしても、/ひとつの容器にへだてられているかぎり、/その性質に変わりはあるまい。/でなければ、火が消えるか、/水が乾くか、/一瞬の間に、いずれかになるだろう。/だが、中間にある物のおかげで、/両者はそのまま存続する。/それと同じように、あのやさしい君が、/わたしに愛を、知らせてくれた。/愛の燃える力の働きを。/愛を知らねば、冷たい水であり氷であったものを。/だが愛は、その火でわたしを燃えたたせ、/わたしを強く抱きしめるので、/ああ高貴な女(ひと)よ、/もしお前が愛神とわたしとの間の / 媒体になってくれなければ、/雪が火にかわるほどに、わたしは燃えつきてしまう。

 

   一説によれば、グイド・デッレ・コロンネは、第8回十字軍に参加していたイングランド王子エドワード1世(1239―1307)が父王ヘンリィ3世の死去のために帰国したとき、彼に従って英国にやって来たと言われています。そのために、英国の有名な詩人シェイクスピア(William Shakespeare、1564―1616)やチョーサー(Geoffrey Chaucer、1340?―1400)やリドゲイト(John Lydgate、1370?―?1451)などからも、彼の名は知られていたと言われています。コロンネの影響かどうかは分かりませんが、17世紀のイギリスにも「形而上詩人(metaphysical poets)」と呼ばれた、小難しい科学的理屈をこねて恋愛詩を書いた詩人たちがいました。その代表的な詩人は、ジョン・ダン(John Donne、1572-1631)で、次のような恋愛詩を書いています。

 

   つまらぬうき世の恋人たちの愛は/(その本質は官能なので)わかれに/耐えることができないのだ。彼らにとって、/わかれは愛の諸要素をとりのぞくことだから。

   だが僕たちは愛によってこんなにも精錬され、/自分たちにも知りえぬものに変化した。/僕たちはおたがいの心にたよりあい、/眼や唇や手をうしなっても気にはしない。

   僕たちのふたつの魂はひとつになった。/だから、たとえ僕が旅にたっても、この魂は/ひき裂かれるのではなく、金のように、/透明な箔にひきのばされるだけなのだ。

   この魂がもしふたつだとしても、頑丈な/コンパスがふたつに分かれているのと同じこと。/おまえの魂は固定した脚、動くともみえないが/他の脚が動くときはいっしょに動いている。

   たとえ中心に静止しているようにみえようと、/もうひとつの脚が遠くをさまようとき、/それはからだをさしのべて耳傾けている、/そして帰ってくるとまたからだを立てる。

   おまえは僕にとってそういうものだ。/僕はコンパスの片脚のように円をかき、/おまえの確かさが僕の軌道を正しくする、/そして出発点に僕を帰らせる。 (篠田一士訳 世界名詩集1、平凡社)

〔原文〕

 

   先出のグイド・コロンネに与えられた「凝りすぎたイメージや着想の奇抜さで効果をあげようと努めている」という批判が、ジョン・ダンにも当てはまります。

 

学問の中心ボローニア大学

  シチリアのパレルモ宮殿において、フリードリッヒ2世によって、古典時代の格式の高いラテン語が復活を遂げると同時に、詩や文章を書くための優れた俗語(とくにイタリア語)も形成されました。そして、フリードリヒの死後、新しい文学運動の中心は北上して、すでに学問・研究の環境を備えていたボローニア大学(設立は1088年)に移りました。その大学では、古くから、ウェルギリウスやオウィディウスを使って古典教育が行われ、聖トマスやアリストテレスやユスティニアヌス法典が教材で使われ、天文学や自然科学に驚異を知る教養人が教育されました。ダンテもペトラルカも、時代は違いますがガリレオもコペルニクスもボローニア大学で学んでいました。パレルモで志向された優れた文章を書くためのイタリア語の形成は、ボローニアにおいて一応の完成をみました。ダンテと『神曲』を理解するためには最も重要で貴重な資料を提供してくれる前述のベンヴェヌートは、ボローニアを賛歌して「哲学者たちの巣、法律の母、すべての者たちと善良なる者たちの実り豊かな場所、人文学の愛情深き乳母(原文解析は下に添付)」と詠んでいます。

〔原文解析〕

 

   ボローニア大学において、最も偉大な文学者であり、またダンテに最も大きな影響を与えた詩人は、グイド・グイニチェルリ(Guido Guinizelli、1235―1276年)でした。ダンテはそのボローニア大学の師のことを「私の父であり、また愛の詩を甘く優美に書くことにおいて私よりも優れている他の詩人たちの父でもある(原文は下に添付)」と讃えています。

 

〔原文解析〕

   ダンテが理想としていた「高貴な俗語(illustris vulgaris)」で「基本的な俗語(cardinalis vulgaris)」で、「宮廷的な俗語(aulicus vulgaris)」で「法廷的な俗語(curialis vulgaris)」であるイタリア語は、ボローニア大学において一応の完成を見ていました。その大学で文学を教えていたグイド・グイニチェルリは、成熟した俗語(イタリア語)で詩を作りました。このグイドについては、先出のイタリア文学者フランチェスコ・デ・サンクティスの意見を借用させてもらいます。

  グイド・グイニチェルリの代表作は『雅の心に愛はつねに隠れるAl cor gentil rempaira sempre amore )』で始まる抒情詩だと言われています。その作品は、10行からなるスタンザ(詩の連)が6スタンザで構成されています。それゆえに、全部で60行から成りたっているので、抒情詩としては比較的長い作品です。デ・サンクティスもその詩の特徴を提示するために、グイドの詩の特徴が顕著な部分だけを、下に紹介しておきましょう。

 

  みやび心に愛はつねに隠れている。/森の小鳥が葉かげに身を隠すごとく。/自然は、愛をみやび心よりも先には先には創らなかった。/またみやび心を愛よりも先に創らなかった。/あたかも太陽が創られると同時に、光り輝く/陽光があらわれたように。そして陽光も/太陽以前に現れなかった。/愛はみやび心の中に、やどる。/あたかも熱が、/燃える焔の中やどるごとく。(1-10)

  愛の火は、みやび心の中に捕らえられる。/あたかも奇蹟の力が宝石に住むごとく。/たとえば太陽が星を気高い存在にしなかったならば、/石の奇蹟の力を星から授かることはなかったであろう。(11-14) 焔がろうそくのほさきにあって、/光り輝くように、愛はみやび心にとまっている。(21-22) 愛はみやび心に住みつく。/あたかも金剛石が鉄の鉱床に住むごとく。(28-30)

  かりに太陽が日がな一日、陽射しで泥を射たとしても、/泥はやはりつまらぬ泥でしかなろう。/また太陽が気高い熱を失うこともない。/ある高慢な男の言い草は/――わしは高貴な出の人間だ――と。/わたしにはこの男が泥のように見える。本当の気高さを太陽に喩えてみる、/なぜなら、みやび心は、心の外にあると考えられないから。/美徳によって気高い心をもつのでなく、ただ王公の威光にあるなどと考えてはならないから。/あたかも水のごとく、陽光を通してしまう。/だが天(太陽)は星やその光を保ちつづける。(31―40)

 

 

  上の引用した詩の個所に対して、デ・サンクティスは次のような論評を加えています。

 

  ここには時折、難解なところ、いわば思い悩んでいる思考のような、なにか無理なところがある。それでいて、長年の思索の習慣で、常識を軽蔑した深い精神の所在が暗示されるまばゆい光の乱射がある。まだその内容はこなれていない。詩になっていない。つまり生命と現実になっていない。だがそこには、すでに、科学の問題にうちこむ人間のもつ真面目さと深さをもって、知識に飢えた魂が調査し、分析する科学的事実がある。しかし烈しい感情からではんく深い思索から生まれる想像力によって、照らしだされた科学的事実がある。グィドは恋愛の感情を感ずるのではない。愛のいろいろな印象をうけいれたり、表現したりはしない。哲学者の眼で、愛や美を考察するのである。彼の前にあるのは、理想視された人間ではなく、純粋な観念(イデア)である。

 

初めてイタリア語という俗語で詩を書いたヤコポ・ダ・レンティーニなどのシチリア派詩人ほどではないのですが、グイド・グイニチェルリもまだ無味乾燥な科学的表現から脱却してはいませんでした。彼らの詩は、民衆から生まれたのではなく、ボローニア大学というトマス・アクィナスやアリストテレスやプラトンやウェルギリウスやオウィディウスなどを学ぶ研究機関から生まれたのです。ダンテによれば、彼らは、「優雅で緻密に俗語で詩を作っていた(『俗語詩論』1:10-2)原文は下に添付」詩人だったのです。

 

 

   ボローニア大学で教育を受けたダンテとチィーノ・ダ・ピストイア(Cino da Pistoia:1270頃-1336頃)とグィッド・カヴァルカンティを中心に、またフィレンツェにおいてラポ・ジャンニ(Lapo Gianni:1250頃-1328)などの詩人も参加して、新しい詩の運動が起こりました。それが、「清新体運動」と呼ばれるものでした。

 

   清新体運動の中心人物グィッド・カヴァルカンティGuido Cavalcanti)について少し見ておきましょう。生誕日は不明で、1255年以後1259年以前の何れかの年だといわれていますが、死んだのは1300年8月29日でした。ダンテが実際に『神曲』を執筆している時には、グイドはこの世を去っていました。しかし、『地獄篇』の作品中でダンテがグイドの父親カヴァルカンテ(Cavalcamte Cavalcanti)に出会っている時、すなわち、1300年4月9日の時点ではまだ生存していました。

  ボッカッチオの証言によれば、カヴァルカンティ親子は、ともに姿形が優雅で富裕な騎士階層でした。しかしエピクロスの信奉者でしたので、無神論で快楽主義の思想を持ち、魂は肉体の死滅と同時に消滅すると信じていました。それゆえに、この異端者の地獄に押し込められているのです。ダンテが煉獄巡礼をしている時点では息子のグイドは生存中でしたが、もし死亡していたならば父と同じく「異端者の地獄」に入れていたかもしれません。しかし、グイドは、詩人ダンテにとっては清新体運動の最も親しい同志であり重要な戦友でもありました。それゆえに、ダンテは、ボローニア大学の師グイド・カヴァルカンティよりも友グイド・グイニッチェルリィの方を高く評価して、次のように言っているのです。

 

   そのように、一方のグイド(カヴァルカンティ)は、もう一方のグイド(グイニッチェルリィ)から(イタリア語による)詩の栄光を奪い去ったが、おそらく一方のグイドともう一方のグイド(の両方)を巣から追い払うことになる者が、すでに生まれている。(『煉獄篇』第11歌97~99、筆者訳)

〔原文解析〕

  上の詩行の「一方のグイド( l’uno Guido)」とは、ダンテの年上の親友で、新しい文学をめざした清新体運動の同志でもあったグイド・カヴァルカンティ(Guido Cavalcanti)のことです。「もう一方のグイド( l’altro Guido)」とは、ボローニア大学におけるダンテの師グイド・グイニチェルリ(Guido Guinizelli)のことです。シチリアで生まれた俗語(イタリア語)の詩は、ボローニアにおいて成長し、フィレンツェで清新体詩として開花しました。その発展に貢献したのが「二人のグイド」なのです。しかし、さらにその二人のグイドを凌駕する詩人が間もなく現れるのです。その詩人こそダンテ自身だ、とダンテ自身が言っているのです。

 

清新体詩の名付け親ボナジュンタ

 

   大勢の激痩せ霊魂たちの中で最初にフォレーゼから紹介されていたルッカのボナジュンタという霊魂が、ダンテに強い関心を示して近づいてきました。彼は、ルッカのオルビッチャーニ家の出身で、正式名はボナジュンタ・オルビッチャーニ(Bonagiunta Orbicciani)と呼ばれていました。彼は、公証人であると同時に、13世紀後半に活躍した詩人でもありました。前出の歴史家ベンヴェヌートは、ボナジュンタのことを、かなり多くの詩を書いたが、詩作よりも酒の方が好きであった人物だと指摘しています。その説に基づいて、ダンテはボナジュンタを煉獄第6環道に入れているのです。

 

 

   ボナジュンタは、ダンテに近づいて来て、次のように尋ねました。

 

 

   だが言ってくれ、僕がいま見ている君は、あの「女らよ、愛のすべ知る君がたは」に始まるあの新しい詩歌を作り出したあの人か?」(『煉獄篇』第24歌 49~51、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

 

〔直訳〕

   しかし、言ってくれ、私はあの新しい詩形を作り出した人を凝視しているかどうかを。その詩形は、「愛について知識をもつ婦人たちよ」で始まる。

 

   ボナジュンタの問いに対して、ダンテは次のように答えました。

 

   僕は愛から霊感を受けた時、筆を取る。心の内で愛が口授(くじゅ)するままに僕は文字を書き記(しる)してゆく。(『煉獄篇』第24歌 52~54、平川祐弘訳)

〔原文解析〕  

〔直訳〕

   私は、愛が私に霊感を与えたときに、詩を歌う。そして、愛が心の中で口述するところのあの表現法によって、私は表現し続ける。

 

   上の言葉は、清新体派の詩作法の真髄を述べています。文学は、美術や音楽ほどには表現形式の違いが顕著に表れることはありません。清新体派を公言しても、それ以前のシチリア派詩人やボローニア学派の詩人たちの詩風とまったく異なる訳ではありません。清新体派の詩人も、それ以前の詩人の科学的比喩を使った表現をまったく拒絶したわけではありません。ダンテが目指した清新体詩の原形は、グイド・コロンネやヤコポ・レンティーノなどのシチリア詩人から始まっていたと言えます。ただし、ダンテは、哲学者や科学者であろうとした先人たちとは異なって、芸術家であろうとしました。ダンテは、人を教化する目的では詩を書きません。彼は、愛から霊感を受けたときに詩作したのです。ダンテのその創作姿勢に感銘したボナジュンタは、自分たちの詩が劣っていることを認めて、次のように述べました。

 

   「ああ君、なるほど」と彼がいった、「なるほど、君の清新体の説を聞くと、なぜあの公証人やグイットーネや僕が君らに劣(ひけ)を取るのか訳がわかる。なるほど君らの筆は口授されるままに、ぴったりと後からついてゆく。だが僕らの筆はどうもそうは進まなかった。(『煉獄篇』第24歌 55~60、平川祐弘訳)

〔原文解析〕

〔直訳〕

   彼が言った「おお、巡礼者よ、私がいま聴いているあの「甘く新しい詩風」を越えられずにこちら側に留めて、公証人(ヤコポ・ダ・レンティーニ)やグイットーネや私を制止させている言語障害を、私はいまはっきりと見ている。あなたたちの筆が口述者(詩人)の後から、しっかりとして、どれほど優れて着いて行っているかを、私は見届けている。私たちの筆は正確には行われなかった。(=筆は着いて行けなかった)。

 

   上の詩句の中で、ボナジュンタがダンテの詩の優越を認めた言葉「甘く新しい詩形dolce stil novo)」は、日本語では「清新体詩」と訳されています。言うまでもなく、その用語はボナジュンタが造ったものではなく、ダンテが『神曲』の中でボナジュンタに言わせているのですから、ダンテの造語です。またかりに、ダンテが造った言葉ではないとしても、『煉獄篇』第24歌の57行目に初めて使われたことは、現時点では確かなようです。もし、ダンテ以前に使われている資料でも発見されれば、その説は代わります。

 

清新体詩の鑑賞

   前で見たように、霊魂ボナジュンタが「新しい詩形(le nove rime)」で「愛について知識を持つ御婦人たちよ(Donne ch’ avete intelletto d’ amore)」で書き始められている作品とは、ダンテの『新生(Vita Nuova)』第19章に収められている抒情詩です。たしかにダンテは、『神曲』が余りにも突出して優れた作品なので、叙事詩人だといわれています。しかし、彼は『神曲』を書く前には、極めて多くの抒情詩も書いています。その数多いダンテ自身の作品の中からその題名を出しているということは、ダンテ自身がその抒情詩を評価している、ということでしょう。その詩は70行から成る ―― ダンテ自身がそう呼んでいるのですが ――「カンツォーネ(canzone)」です。このブログの最後に、その詩の最初の部分を鑑賞してみましょう。前でみたグイド・コロンネやグイド・グイニチェルリの詩とは異なっていることが、翻訳と通してでも分かります。

 

〔平川祐弘訳〕

   愛の智恵知るみなさま、/わが君についてわたしと一緒にお話しさせてください。/わが君の讃歌を言い尽くせるとは思えませんが、/ただ口に出して語りさえすればそれでわたしの気持は晴れるのです。/わが君の徳の力を思うと、/かぎりない優しさの〈愛〉がわたしの身に沁みます。/だからそのとき気が挫けずにしっかりしてさえいれば、/わたしは口に出して語るだけの力がわたしにはありません、/舌足らずのわたしにはとてもそんな気力はない、/わが君のお人柄について深いことなどとても言えないわたしですが、/愛を知るご婦人方やお嬢さま、みなさま方とでしたら/あえかな君の優しさを是非ともご一緒にお話ししたい、/このことはゆめはかの人々に言うべき筋ではないのですから。

 

〔野上素一訳〕

   『愛』の智恵を備えた婦人たちよ/私は汝らと私の淑女について語ろう。/私は彼女の称賛を尽くそうとは思わない/ただ心の憂さを晴らしたいだけである。/彼女の善徳を思うときには/『愛』はいとも甘美に感じられ、/もし私が心強さを失わないなら/語りつつ人をば『愛』へ誘うだろう。/だが彼女のことをあまり高尚に語って/そのため臆して力を落としてはならぬ、/ただ彼女に向かい、いとも謙遜な態度で/その高貴なありさまを語るだけである。/愛らしい婦人たちよ、汝らと共に/よそ人にはいうべきことでないから。

 

〔原文解析〕

〔直訳〕

  愛について知識を持つご婦人方よ。私は私の女性(ベアトリーチェ)についてあなた方と一緒に語りたいのです。それも、私が彼女の讃美を言い尽くそうと思っているのではなくて、心の内を吐露するために話すのです。ベアトリーチェの価値を考えるとき、愛の神は、私に神自身を余りにも甘美に感じさせるので、もしその時に私が心の強さを失わなかったならば、私は人々にそれを語って恋心を持たせることでしょう。そして、私は声高に話したくないので、畏敬のために臆病になっていたのでしょう。しかし、私は彼女(ベアトリーチェ)の優雅な有様を、彼女に敬意を払いつつも、気楽に語りましょう。恋する御婦人がたやお嬢様がたよ、(あなたたちとなら気楽に語れましょう)、他人にそのことについて話すことではないゆえに。

 

このブログの主な参考文献:

チャールズ・シングルトン編注の『神曲:煉獄篇』のテキストおよび注釈書(プリンストン大学出版)です。

原文: C.S. Singleton(ed.) “Purgatorio”2: Commentary, Vol.1.Pt.2 of Dante Alighieri, The Divine Comedy, 3 vols., Princeton U.P.

 

パゲット・トインビー著(シングルトン改訂)『ダンテ百科事典』(オックスフォード)。

原文:Paget Toynbee (revised by C.S. Singleton)  A Dictionary of Proper Names and Notable Matters in the Works of DANTE,  Oxford.

 

フランチェスコ・デ・サンクティス(Francesco de Sanctis):池田廉・米山喜晟訳『イタリア文学史・中世』(現代思潮社)