いい加減小学生バージョンから変更しなければと思い、小窓用変更しました。
中学生組の通っている学校の歴史の本です。
どうも、
ようやく前回の記事で、ちょっとずつ進みだしたこちらのシリーズ。
もう少し進めておきたいと地道にやっております。
心配になってきましたよ(;´д`)。
夏休みも終わり、いよいよ二学期突入と思った矢先の台風襲来(´Д`;)。
昔中学校時代に「台風19号」というのが来て、その時連絡網が来ないからと徒歩で10分の学校に台風の最中に行ったのですが、誰もいない上に当直?の先生から「今日、休校に決まってるじゃん」みたいに言われて脱力したことがあったのを思い出していたのですが、それを子供たちに台風エピソードとして話していたのです。
そしたら、その台風と同レベルらしいということになっていて驚いていました(゚д゚)!。
かつての台風は通称「りんご台風」とも呼ばれ、収穫前のりんごがたくさん落ちたりして農作物にも被害があったりしました。その年はりんごの支援でいろいろあったなあと思い出しつつ、台風被害にも落なかったりんごは「落ちないリンゴ」として、受験生のお守りとして売り出していたのを見て、商魂たくましいなと感じたモノです。
ちょうど記事を書いているあたりは通過中の台風ですが、風が強いものの中心が大阪寄りのせいかあまりこのあたりはひどく感じないのです。
避難勧告とかもでてますが、今のところは大丈夫そうです。
記事更新あたりは過ぎていますので、静かな夜を迎えております。
関西を通過後、甲信越の方へ移動しておりますのでどうぞご注意ください。
このたび、春から受験生な子ども1
。
そして、中学入学した子ども2。
この年齢で、「やりたいこと」や「進路」を決めるのは、すごく難しいことだと思います。
でも、「高校受験」は人生の最初のハードルなのではないでしょうか?
今のところ、子ども1は実感がないようですが、できれば少しでも成績を上げて、自分のやりたいことを目指して、希望する学校に入ってもらいたい!!
成績が下よりは上のほうが、選ぶ選択の幅も広がると思いますし
。
「受験」という人生のハードルに少しでも役に立つのなら、一肌脱いでもいいんじゃね
?
ということで、昨年から少しずつ準備をしておりました。
もちろん、リアルで子供のため、というのもあるのですが
あわよくばこれでお絵かきの修行になれば・・・、と邪な思いも多少ww。
いや、むしろこれを口実に堂々と修行の場が作れる・・・。
などと考えておりました。
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ちなみに前回の記事がこちら。 → その1、その2、その3、その4、その5、その6、その7
イラストなしの番外編もあります。→番外編1、番外編2、番外編3、番外編4、番外編5、番外編6
自分の思い込みの激しい解説付きでお送りしますので、違うやろ!!とツッコまれそうな文章となっていると思いますが、あくまでワタクシ個人の解釈ということでヨロシクちゃんです。
歴史に興味のない方は華麗にスルー('ω' )))≡3ーッでお願いしまーす。
長文になりますので、お時間のある方は文章にお付き合いくださいませ。
お時間のない方は、写真と年代だけでOK牧場です。
今回は第8回目。
今回、ご紹介する人物は・・・・。
はい、この人です。はりきってどうぞ~。
まずは、こちらをご紹介。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
この和歌を詠んだ人物といえば、有名ですよね。
はい、このかたです。
平安時代、最も勢いのあった貴族の中でも「ベストオブ勝ち組」ではないでしょうか?
藤原道長、
通称「ミッチー」としておきましょうww。
某王子の画像、お借りしてきました。
こちらのかたちゃいますよwww。
(持っている雰囲気はまんまかもしれんww)
藤原道長という人物は、あんな和歌を詠うくらいだから、
イメージだと生まれながらの貴族で、苦労知らずで、なんでも望めば手に入るような印象ですよね。
なんか何でも持ってるボンボンって感じで、結構嫌味な奴って感じですねΨ(`∀´)Ψヶヶヶ。
(※あくまでイメージ上の想像ですww)
ただ、ここに至るまでにはそれなりの苦労もあったようです。
彼の父、藤原兼家は藤原四家(中臣鎌足の子、藤原不比等の子供である4兄弟が作った)
の中の藤原北家の当主で、その五男として生まれました。
当時父兼家が摂政になると、その手腕で頭角を現していったそうです。
さらに、長兄・道隆、次兄道兼などという優秀な兄達がおり、道長は幼い頃は兄弟の中でもどちらかといえば冷遇されていたようです。
大体そうでしょうが、跡継ぎである長男が一番優遇されていて、残りは下に行けば行くほど貧乏くじというか、普通ならたくさんの兄がいて、出世の見込みもなくただの一貴族のドラ息子の一人という扱いだったのでしょう。
そんな彼の人生を変える出来事がいくつか起こります。
その1、22歳で「左大臣の娘との結婚」
左大臣・源雅信の娘「倫子」との結婚で婿入りした道長。
当時は婿入り婚が当たり前ですが、「源」姓からも分かるように「源氏」の一族のムコ殿になった道長は、左大臣家の「地位と財産」を手に入れることに成功します。
まあ、当時の藤原氏もある程度の地位はあったと思いますが、五男ですし。
左大臣の娘もどうやら天皇への入内話もあったとかなかったとか。
そういうレベルの人との結婚は、いわゆる「格差婚」だったのでは?
画像お借りしてきました。
(菅井さんの「ムコ殿!!」は絶妙でした、先日お亡くなりになって残念です。合掌)
きっと「ムコ殿!!」って呼ばれてたんだ、そうに違いないww。
一貴族の子供にすぎなかった道長にとっては、ある意味では逆玉ですよね。
これが功を奏したのか、道長はこのあと、中納言から大納言への昇進とともに公卿の一員として政治の中枢へ入っていくことになります。国政を司る公卿は約20人。
ここから、権力争いのゲームの中に身を投じでいくのであります。
その2、29歳で長兄・次兄が相次いで亡くなる。甥との確執後、左大臣へ。
父兼家の死後、藤原家の跡を継いだのは長兄・道隆。
摂関職も引き継いだものの長兄は不摂生のために病気になり摂関職を辞し、その後そのまま病没。
さらに次兄であった道兼がそのまま関白職を引き継いだのですが、当時蔓延していた伝染病によりすぐに病没してしまいます。
宮中の公卿のなかでも伝染病によって亡くなるものが多く、主要ポストの中で生き残ったのは三人しかいなかったそうです。
その三人のうちの一人が当時大納言であった道長。
もうひとりは長兄道隆の子供・伊周(これちか)だったのです。
そんな中で宮廷内の新人事が発表され、No,1の左大臣は空席だったものの、道長は公卿No,2である「右大臣」へ昇進、伊周はNo,3「内大臣」の留任となり、長兄の子供を抜いて道長が役職上、格上になりました。
運の強さとタイミングもあったのか、30歳にして当時の政権のトップなるのです。
こうなると面白くないのは長兄の子、伊周。
藤原家長男の子供として、次期後継者とも言われていた伊周にとっては分家の叔父に立場を逆転されたのは面子とかプライドが許しませんよね。
一族同士でなるべく争いごとは避けたいところですが、藤原の跡継ぎである伊周はまだ若く
、一族の長として手腕を発揮するには難しいと感じた道長と、当然とばかりに次期関白を狙っていた伊周の対立が起こります。
(ほかにも道長には兄がいたようですが、長となりうる人材ではなかったのか触れられていません)
この2人の対立は、周りをも巻き込んでいき従者同士の乱闘騒ぎにまで発展。
本人同士もいさかいがあったようですが、冷静に時期を見極めていた道長と、若輩故にいろいろと後先考えずに突き進んでいく伊周では、勝負は決まっていたのかもしれません。
こんな時に伊周側はポカをやらかしますww。
伊周には弟・隆家がいたのですが、この兄弟、このお家の存続という大事な局面の時にある女性のもとへ通っていたようです。
こういうところが若さゆえですかねえ(´ε`;)ウーン…。
そしてこの同じ頃、同じようなことをしている人がもうひとりいました。
その人物は「花山法皇」といいます。
「法皇」というくらいですから、元は「天皇」で、花山天皇として17歳で即位後、約2年で退位して出家、「花山(上皇)法皇」となりました。(このあたりはいろいろと政治が絡んでいたようです)
ただ、この「花山上皇」。
かなりの女好きだったようです。
天皇として在位している時も、女性とのスキャンダルが多かったと言われています。
出家して仏門にいるので本来であれば、そういう女性関係のことはご法度なのですが、年若い元天皇。
ま、遊ぶよねww。
今だとスポーツとか遊ぶ方法もさまざまありますけれど、年取ったおっさんならともかく、10代で天皇・法皇になり政治のコマとして動かされたんですから仕方ないとは言え、普通の人と違い気軽に遊ぶこともできずに出家してしまった若者のストレスのはけ口→「女のところへ通う」だったんでしょうねえ(^_^;)。
とにかく、伊周兄弟と花山上皇。
色恋沙汰の事件を起こします。(「長徳の変」)という事件になってます(;^ω^))
この二組、実は同じ女性の屋敷に通っていたのです。
伊周が「俺の女に何すねん!!」と、(#`皿´)ムキーと嫉妬して、ちょっとした威嚇として相手に矢を射ってしまうのです!(実際には従者に命令させたようですが)
当時の家の中は、夜はロウソクとかお忍びであれば真っ暗な中だったでしょうし、相手が誰かということを調べる前に血気盛んな伊周は嫉妬心からの行動だったのでしょうが、ただの某貴族なら、ちょっとした恋愛トラブルで済んだのでしょうけれど。
なにせ相手が悪かった(^_^;)。
しかも伊周の勘違いで花山法皇が狙っていたのは、同じ屋敷に住む妹のほうでした。
(紛らわしいわっ!)
威嚇のつもりで放った矢が花山上皇の袖を射抜いていたそうです。
姉さん!事件です!!
(○OTEL風にww)
伊周、はい、\(∵)/オワター(笑)。
まあ、花山上皇側も出家をしているのに女の下へ通っていたという後ろめたさもあり、公になっては困るということで、本来であれば内密に済ませたい話だったのでしょうが。
世間からしてみれば、格好のネタだったでしょうし。
「藤原家の跡継ぎが恋愛沙汰で上皇を殺しかけたww」
みたいな尾ひれが付いたのでは?(笑)。
人の口に戸は立てられないもので、結局主上や宮中の人間の耳にも入ったのでしょう。
そして、それを伊周追い落としの材料として見逃さなかった道長。
もしかしたら、影で道長の暗躍があったのかもしれません。
「上皇襲撃」という大事件を起こした伊周と弟・隆家は結局流刑となり、藤原家の全ては道長の掌中におさめることに成功し、左大臣への昇進も決まった道長にはもう怖いものはなかったのでしょう。
自分の娘である長女彰子を今上天皇であった一条天皇へ入内させ、中宮になった彰子が子供を産みます。(道長にとって孫にあたる、後一条天皇)。
そして、その後天皇となった三条天皇には次女の研子を、そして、三女・威子は後一条天皇へ嫁がせ、それぞれ中宮となったことで「一家立三后」となり、誰も成し得なかった偉業をなし得るのです。
娘が中宮になり子を産み、その子供が天皇になるということは、道長は
「天皇の后の父であり、天皇の祖父」
というこれ以上ない最強のカードを手にすることが可能になったのです。
そら、怖いもんなしですよねww。
「我が天下」ですよ。
冒頭で書いた「和歌」ですが、
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば
この和歌は「望月の歌」として有名ですが、この歌は三女・威子が立后の祝いの席で披露したと言われています。
簡単な訳として
「この世は俺のモノ、望月(満月)のように欠けることなく足りないものなどありはしない!」
といったところでしょうか?
しょうがないだろ?
娘は后だし、娘婿は天皇だし?
娘が生んだ子供(孫)は天皇なんだし。
俺、天皇の義父にして祖父でもあるしな~。
俺も、左大臣から太政大臣もやったしな~。
(孫・後一条天皇が元服の際に太政大臣が天皇に加冠するのが通例であったため)
イヤミなやつですね~(^_^;)。
そりゃこんなんじゃ誰も、意見を言えないですよね。
自分のさじ加減ひとつで、天皇をも動かせる力を手に入れた道長は藤原家の全盛期を迎え、その存在を揺るぎないものにしたのです。
後一条天皇が即位後、道長は摂関職と家督の全てを嫡男・頼通に譲り、自分は後見という形を取りながらも影響力は多大であったようです。
晩年は、子供に先立たれ、病に苦しんでいたため出家し仏閣の建立に力を注いでいったようです。最後は病没・62歳の生涯でした。
当時の貴族としては長生きした人だと思います。
もう一つ、道長の功績は「国風文化」への功績が挙げられます。
「国風文化」とは、遣唐使廃止後に独自に発展を遂げた文化のひとつで、
「平仮名・カタカナのかな文字の発明」
により、いろいろな書物がこの時代に書かれるようになったこと。
道長の娘を入内させる際に、魅力的な女人として天皇の寵愛を得ることが出来るように、教養として様々なことを学ばせる機会があればと考え、様々な才能を持った女性を集めることにしました。
紫式部や和泉式部など歌や書物の才能があった女性に援助したのです。
その結果、清少納言の「枕草子」
紫式部の「源氏物語」
和泉式部の「和泉式部日記」
菅原孝標娘(藤原道真の子孫)の「更科物語」
などもこの時代に書かれたものです。
それから、「平等院鳳凰堂」の建立。
や「蒔絵」「刀剣」などもこの時代に発展したと言われています。
日本語の基礎・現代文化への基礎は、この「国風文化」があってこそだと言っても良いのではないでしょうか?
藤原道長のお話はこれにて終了。
なかなかドラマチックな人生を送った道長の一面を垣間見ることができました。
長かったーww。書いてるこちらも疲れましたww。
今回も、かなりの長文となりましたが、お付き合いいただきましたみなさま、
お読みいただいてありがとうございました。
次回予告は 「平安、二大作家」のおはなし。
ではまた(*^-^*)ノ~~マタネー。