本来であれば、普通の歴史記事にするところですが、
本日は番外編としてお送りさせていただきます。
ということで、昨年から少しずつ準備をしておりました。
もちろん、リアルで子供のため、というのもあるのですが
あわよくばこれでお絵かきの修行になれば・・・、と邪な思いも多少ww。
いや、むしろこれを口実に堂々と修行の場が作れる・・・。
などと考えておりました。
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ちなみに前回の記事がこちら。 → その1、その2、その3、その4、その5
イラストなしの番外編もあります。→番外編1、番外編2、番外編3、番外編4
自分の思い込みの激しい解説付きでお送りしますので、違うやろ!!とツッコまれそうな文章となっていると思いますが、あくまでワタクシ個人の解釈ということでヨロシクちゃんです。歴史に興味のない方は華麗にスルー('ω' )))≡3ーッでお願いします。
長文になりますので、お時間のある方は文章にお付き合いくださいませ。
お時間のない方は、写真と年代だけでOK牧場です。
民間人、数万人が原子爆弾の犠牲になりました。
原子爆弾を投下されたその時間。
1945年8月9日、13歳だった私は、爆心地から3・2キロ離れた自宅の2階で被爆しました。気を失った直後、爆風で飛んできた大きなガラス戸の下敷きになりました。幸いに奇跡的に無傷で助かりました。
3日後のちょうど今ごろ、私は、家屋が跡形もなく消滅し、黒焦げの死体が散乱するこの丘の上を歩き回っていました。探し当てた父方の伯母の家屋跡には、黒焦げになった伯母たち家族の遺体が転がっていました。原爆により身内5人の命が一挙に奪われました。この日一日、私が目撃した浦上地帯の地獄の惨状を、私は私の脳裏から消し去ることはできません。
原爆は全く無差別に、短時日に、大量の人々の命を奪い、傷つけました。そして、生き延びた被爆者を死ぬまで苦しめ続けています。人間が人間に加える行為として絶対に許されない行為です。
(中略)
ビキニ環礁での、1954年3月1日のアメリカの水爆による「死の灰」の被害に端を発し、1956年8月、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)
が結成されました。
日本被団協に結集した被爆者たちは、「同じ苦しみを世界の誰にも味わわせてはならない」と原爆被害の残虐な真相を、国の内外に伝え、広げ、核兵器の速やかな廃絶を世界に訴え続けて参りました。
(中略)
2017年7月、「核兵器禁止条約」が国連で採択されました。被爆者が目の黒いうちに見届けたいと願った核兵器廃絶への道筋が見えてきました。これほどうれしいことはありません。
ところが、被爆者の苦しみと核兵器の非人道性を最もよく知っているはずの日本政府は、同盟国アメリカの意に従って「核兵器禁止条約」に署名も批准もしないと、昨年の原爆の日に総理自ら公言されました。極めて残念でなりません。
核兵器国とその同盟国は、信頼関係が醸成されない国が存在する限り、核抑止力が必要であると弁明します。核抑止力は核兵器を使用することが前提です。国家間の信頼関係は徹底した話し合いで築くべきです。
紛争解決のための戦力は持たないと定めた日本国憲法第9条の精神は、核時代の世界に呼びかける誇るべき規範です。
私は、多くの先人たちの働きをしのびつつ、「ヒバクシャ国際署名運動」をさらに大きく発展させて、速やかに「核兵器禁止条約」を発効させ、核兵器もない戦争もない世界の実現に力を尽くすことを心に刻み、私の平和への誓いといたします。
一部、中略いたしました。
2018年(平成30年)8月9日 被爆者代表 田中熙巳
新聞から全文の引用(一部中略)しました。
1945年8月9日 長崎は当初、攻撃目標としては2番目の順位だったそうです。
当初は北九州の小倉が目標だったそうです。
当時の小倉は長崎よりも人口が多く、平野部も広がっていて爆風の遮断物がなく原爆を投下する場所として適していたそうです。
実際に、小倉に戦闘機が原爆を落とすために飛来しました。
しかし、天候の悪さのためにこちらも小倉から次の候補であった長崎に原爆投下地点を変更したのです。
歴史に「もしも~」は存在しないのですが、もしも当日の天気が違っていたら。
8月9日でなく、別な日だったら。
起こらずに済んだものだったのかもしれません。
また、長崎は古くからの宗教的な意味合いもあって選ばれたとも言われていて、真相は未だ謎のようです。
ただ、さまざまな思惑もあり事実は起こってしまいました。
世界でただ一つの被爆国となり、2発目の原爆投下の被爆地となりました。
今日の追悼式典のスピーチでもあったのですが、
「一人たりとも新たな被爆者を出してはならない。長崎を核兵器による惨害で苦しんだ地球最後の場所にするよう決意しましょう」とありました。
その通りだと思います。
式典の中で、小学生と高校生が歌を披露していました。
その中でも、高校生の合唱が良かったと思います。
純心女子高等学校1・2年生による「千羽鶴」
の合唱が行われました。
作詞 横山 鼎、作曲 大島 ミチル
2015年の分ですが、同じような感じで行われていました。
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平和への誓い新たに
緋の色の鶴を折る
清らかな心のままに
白い鶴折りたたみ
わきあがる熱き思いを
赤色の鶴に折る - 平和への祈りは深く
紫の鶴を折る
野の果てに埋もれし人に
黄色い鶴折りたたみ
水底に沈みし人に
青色の鶴を折る - 平和への願いをこめて
緑なる鶴を折る
地球より重い生命よ
藍の鶴折りたたみ
未来への希望と夢を
未来への希望と夢を
虹色の鶴に折る
歌詞のように考えると、今までただ折っていた折り鶴も色によって違ったりするのかな?と感じます。
そう考えると、折り鶴への込める想いも深くなりそうです。
今、家でこうして平和に過ごせている自分たちは、この日の惨劇を体験してはいませんが、忘れないようにすることは出来ると思うのです。
来年は元号が変わり昭和・平成と2つの時代を過ぎることになります。
でもどんな時代になっても、この日を忘れずに「平和を願う」思いだけは変わらずに続いて欲しいと願います。
様々な思いの中で73回目の追悼行事を見ながら、老若男女・少年・少女たちが一瞬で、たくさんの失われた命があったという事実を忘れないように追悼の意味も込めまして、こちらの記事を書かせてもらいました。
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長文にお付き合いいただきまして、ありがとうございました。
本日は、番外編5「長崎 原爆投下の日」を取り上げさせていただきました。
暗く、真面目な話になってしまいましたが、個人的に取り上げておきたい出来事でしたので今回は番外編ということで記事にしました。
このように時々、歴史的に大事な出来事については
時代に関係なく記事として書いていけたらと思っています。
では、今回はここまで。
また次回があるのかわかりませんが、ありましたらお付き合いくださいませ。