からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -54ページ目

アラクネ(19)~再投稿~

「汝、唯足るを知れ」

「あの、帰っていいっすか」

こんな状況だというのにマユミは、っすか、という語尾を用いて、またやってしまった、という気持ちになった。マユミはその喋り方が大嫌いであったが気を抜くとついつい使ってしまう。

「アラクネ様は優しいお方さ。決してお前を殺しやしない」

ミシモは黒い天井を仰ぎ見て言った。

「なら、帰してください」

「お前は認めるだけさ。アラクネ様は認めることを与えて下さるお優しいお方。慈愛に満ちたお方さ。悲しみに満ちたお方さ。お前が死ぬんだ。お前が死ぬんだ。腹を裂いて自分で自分を殺すんだ」

「結局殺すんじゃない。なに、アラクネ様だか荒くれ様だか知らないけど、私はお断り。私は、みんな死なない」

みんな死なない。それはマユミ達六人の合言葉。

「お前らはジグモを殺したろう?」

「やっぱりそこついてくるのね、蜘蛛遊び」

消え去っていた記憶が、まるで今までそれをずっと考えていたかのように蘇った。

「アラクネ様は大層お怒りになられている。我が子を殺される痛みを、我が子を戯れに殺される痛みを、御身が引き裂かれる痛みを、お前らは知らんだろう。おお、おいたわしや」

仰々しく指を絡み合わせミシモの姿をした男はひざまずいた。

ジグモという蜘蛛は長い牙を持った小指の先程の小さな蜘蛛である。民家の柱や樹、大きな石などの壁に沿うよう地下に穴を掘り、細長い袋状の巣を紡ぐ。そこら中にいるありふれた蜘蛛である。マユミ達が言う蜘蛛遊びとは、この蜘蛛を殺すだけの遊びなのだが、この蜘蛛はとても難儀な身体構造をしている。地表に出ている巣をちゅるっと引っ張り出し驚いて中から出てきたこの蜘蛛を手のひらに乗せひっくり返す。そして、えいやっと叩き潰すふりをすると蜘蛛は身を硬直させ、その自身の長い牙で自身の腹を引き裂いて死んでしまうのである。それを観察するように愉しむ。田舎育ちの佐藤ヒロフミがマユミ達に伝え八人の間で一時的に流行したこの遊び、これが蜘蛛遊びである。

「そんなのみんなやってることなんじゃないの?昼間の蜘蛛は殺すなってか?はん、なんで私達なのよ。なんで私達がそんなことで死ななきゃならないのよ。って、ま、これは夢、ただの悪夢。明晰夢。夢で殺されてたまるかっての」

自分に言い聞かせるようにマユミは言った。

「そう、これは夢。儚いまほろば。しかし脳内に巣くう蜘蛛。事実は小説より奇なり。佐藤ヒロフミと菱山カナコも腹を裂いて死んだろう?そんなことありえないとお前は思っているだろう?お前も死ぬ。認めて死ぬ。安らかに死ぬ。大丈夫苦しませやしないさ。アラクネ様はお優しいお方。その優しさに包まれて幸福のうちに死ぬのさ」

「死ぬ死ぬうるさい。死なない。みんな死なない」

マユミはぶんぶんと頭を横に何度か振った。

「菱山カナコの場合、菱山カナコは認めたのさ。ただ認めた。そして安らかに召され、新しいアラクネ様の、新しい脚となった」

「カナコが何を認めたっていうのよ」

声を荒げる力も無くしたマユミが弱々しくそう口にすると、ミシモの姿をした男の頭が急に真ん中から潰れ、ハンマーヘッドシャークのような扁平になった。マユミは、この形嫌いだな、と思った。

「菱山カナコは認めた。この先長く続く平凡な人生、過ぎ行く時間、時計の針が刻む一秒一秒に我慢出来ないことを認めた。だから死んだ。それを認め、そしてアラクネ様のお優しい配慮のうちに、幸福のうちに、叶わぬ望みを叶え、死んだ。新しいアラクネ様の新しい脚になったのさ」

理解不能ながら、マユミは愕然とした。不思議なことに扁平頭になったこのミシモの姿をした男の言葉の端々に急に妙な説得力が生まれた。

「お前もただ認めよ」

「幸福のうちにってなによ。あんな死に方ごめんよ。苦しむのはイヤ」

そう言ったマユミははっとした。苦しまなければ死んでも良いという意味合いが含まれていたからである。こいつにのまれている。マユミは、今度は否定の意思表示ではなく、幾度か頭を振ったが精神的にも状況的にも変わるものはなかった。

「苦しみやしないさ。痛みは幸福である。快楽である。想像せよ。お前は想像せよ。手の甲に開けられた穴に男根のように太く紡がれた荒縄を通して、行ったり来たり、ぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅ」

マユミがイメージした刹那、ミシモの手の甲に荒縄が通されていた。行ったり来たりする荒縄、滴り落ちる血、こそぎ落ちる肉、白く赤い骨。

「ああ、おお、ああ、ああ」

男が発する声は悲鳴ではない。恍惚とした快楽の喘ぎである。行ったり来たりする荒縄に、マユミは嫌悪感を抱かなかった。ぐじゅぐじゅと音を立てるミシモの姿をした扁平頭の男の手の甲を羨ましくさえ思った。

その瞬間、マユミの手の甲に、ミシモと同じく荒縄が貫き通され、行ったり来たりし始めた。ぐじゅぐじゅ、ぐじゅ、ぐじゅ。痛い、痛い、痛い、とてつもない痛みがマユミを襲った、のだが…。

「認めよ、認めよ、認めよ、ぐじゅぐじゅ、認めよぉ」

その声が聞こえると、マユミの手から荒縄が消え、忘我からかえった。

「わ、私が何を認めるってのよ」それを訊いてはいけないと知りつつも、止めることが出来なかった。それを聞いた扁平頭が、一瞬ニヤリとしたような気がした。

「認めよ、認めよ、ぐじゅぐじゅ、おお、おお、与えん、さすれば与えん、菱山カナコは認めた、そして与えられた、快楽を、喜びを、そして自身が生きる予定だった人生を早送りで見て満ち足りて死んだぁ。それがアラクネ様に認めるということだぁ」

「ヒロフミは…」

マユミの声に、もはや力は無かった。

「認めた、認めた、佐藤ヒロフミは認めた。妹の死が、自身のせいであると認めた、そして救われたぁ、犯人は消えたぁ、与えられたぁ、お前らに迫る危機を伝える機会を与えられたぁ、だけどお前らみんな忘れたぁ忘れたぁ忘れたぁ忘れたぁぎゃははははは」

「そんなの」

「ひどい?騙し?違うね。与えられるものはあくまで与えられた人間の中の幸福さ。アラクネ様は確かに佐藤ヒロフミに与えたもうたのさ。佐藤ヒロフミは確かに危機を、知らせた、のさ。あとのことは知らないよ。みんなみんな知らないよ」

ミシモは普通の姿に戻った。

「アラクネ…様……アラクネ様はなぜ私達を」

「時期が来て繋がりに選ばれただけさ。百と二十年に一度アラクネ様は生まれ変わるのさ」

「アラクネ様が生まれ変わったら何が起こるっていうの」

「何も起こりやしないさ。形が代わっていくだけさ。ただの脱皮だからさ。世界の破滅?しないさ。不条理?そりゃそうさ。お前らは選ばれただけさ。繋がりに選ばれただけさ」

「そう」

マユミはぽつりと言い、

「私に何を認めろって言うの」

と、消え入りそうな声で呟いた。

「もうわかっているのじゃないかね?」

ミシモはかわいらしく小首を傾げた。

「クリエイティブな才能が無いこと、とかかな」
自分を卑下するように呟いた。

「そんなものは既に自ずから認めているではないか」

この一言でマユミは全てを受け入れようと決めた。

「お前が認めることはそう、これから生きる時間全てをかけても絶対に手に入れられぬものがあることを認めることさ」

「ああ」

「そうさ、お前は自分のことを調べたろう。自信が無いからさ。土師という名前の由来、古代、埴輪を作っていた人々、喪葬にも関わっていた。自分が何者か知りたかった。そしてお前は自身が依存性人格障害であると知った」

「ミシモと…」

「そう、その通りさ。認めるかい?」

マユミはこくんと頷いた。

「ぎゃはははきゃははは認めた、認めた、アラクネ様、アラクネ様ぁ、新しい脚だぁ、三本目の脚だぁぎゃははは」

ミシモの頭が再度ぐにゃりと歪んで扁平頭になった。背中を丸め手を叩くミシモの姿をした人外の笑い声が黒い部屋にこだました。笑い終えるとそれはすっくと身を正し、

「お前は知っているな。夢というものは途中で目覚めなければその内容を記憶出来ぬことをさ。今は目覚めぬ。いつもの朝を向かえるまで起きぬ。従ってこの夢は記憶に残ること叶わぬ。儚い夢さ。儚い夢さ。だから佐藤ヒロフミは伝える機会を望んだのさ。自身も俺とアラクネ様のことなど覚えちゃいないから。お前はただその時を待てば良い。では、ぐっすりおやすみよ」

扁平頭はぺこりとかしこまった礼をすると、消え去った。

目覚まし時計が鳴る。ぐっしょりと寝汗をかいた気持ちの悪い起床だった。台所から目玉焼きを焼くサラダ油の匂いがするいつもの朝。シャワーを浴びて出勤。マユミのフローリングの部屋の壁に一本のジグモの巣。

その日の午後土師マユミは誰もいない会議室で突然腹を裂いて死んだ。その死に顔は大蜘蛛がはりついたかのように何本もの深いシワが走っていた。

「大丈夫?」

鈴木ホノカに声をかけられて喪服を着た尾形ミシモは涙をぬぐった。マユミの煙が空へと昇って行ったあとのこと。

「ああ、あたしも案外駄目なもんね。なんか体から力抜けちゃって」

真っ赤な目をしたミシモ。

「しょうがないでしょ。ミシモにとってマユミは」

ホノカが言い終わる前にミシモが、

「そう、幼稚園の頃からずっと一緒でさ。初めて出来た友達だった。親友だった」

と、言って、とにかく上を見た。



アラクネ(18)~再投稿~

「めじねえき?」

マユミはわけのわからぬ言葉をつい阿呆みたく繰り返し口に出してしまった。

「お前の言葉さ。めじねえき。知らん。俺は知らん。めじねえきめじねえき」

「ああ、そうですか」

他愛のないことこの上ない会話。どこまで続くのかと思いきや、ミシモは舵をきった。

「お前ら八人は死ぬ。あと六人さ。みんな腹を裂いて死ぬのさ。前回俺が殺したのは七人さ。俺も含めて八人さ。お前ら死んで俺みたくなるのさ。アラクネ様の脚になるのさ」

「八人が死ぬ?アラクネ様?なにそれ、嫌な夢、起きれないのかな」

あまりに突然の宣告であった、というよりも、事態を理解しきれぬ女はおもむろに自らの頬を殴ってみたが疼通が残るばかりであった。その様子を見ていたミシモが、一段としわがれた声で、

「目覚めることも叶わぬ夢さ」

と、言った。

マユミはあくまでも、

「なんでよ。私の見ている夢でしょうに」

そう主張した。

「お前の見ている夢。そう。これはお前の夢。しかし借りているのは俺さ。この夢は俺の部屋さ。暗い黒い明るい部屋さ。ああ、カスパー・ハウザーは死ぬ前に何を思い出していたのだろうか。そしてこの部屋から出た俺はどうなるのだろうか。アラクネ様アラクネ様。麗しきアラクネ様よ。おお、土師マユミよ、お前はこれから死ぬ。腹を裂いて死ぬ」

「あの、なにやら恍惚として喋っているところ悪いのですが、私もう寝たいんですけど。最近疲れてるんで」

夢の出来事であると断じながらも、マユミは怖くなった。早く現実に戻りたかった。

「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬヴァ」

ミシモの姿をしたものはくるくると回りながら大きい声と小さい声を足してルート記号をつけたような、割り切れぬ声を部屋に響かせた。

「ああもう、うるさい!黙れ!死なない!私は死なない!」

ぶん殴って野郎とマユミがミシモに近付くと、

「夢では思った通りに動けないのだろう?」

とても冷たい口調でそう言うと、ミシモはすっと消え、代わりに見たことも無い男が現れた。中肉中背のボロを纏った背虫男だった。その顔は芋虫を石で潰したかの如く、ひどくただれていて、それでいて捉えようの無い顔をしていた。

「よおぉ。久しぶりだぁなぁ」

「なんなの!?あなたなんか知りませんけど」

後ずさって椅子に躓き、結果腰掛ける格好となったマユミ。男は尚もマユミに話しかける。

「知らない?知らないのか?そういや俺もお前を知らないな。おおう。おおう」

「なに」

「これは困ったぞ。おおう。おおう。これは困った。困ったぞ。困ったし困ったことにも困ったぞ。ああ、おおう。駄目だ。俺は駄目なんだ」

「はあ!?どっか行ってよ!」

「俺は困ると背中が開くんだ。卵を抱えているからね。おおう。駄目だ。駄目だぁ。開く開くらくらくらくらくらくらく。おおう。おおう」

身悶えたかと思うと、男は急に纏っていたボロを捨てて裸になった。異様な姿だった。中でも異様なのは、見たこともない細長い性器が床を這い、マユミの足下まで伸びていたことだった。

「おおう。踏んでくれ踏んでくれ踏んでくれ。それを踏んでくれえぇ。この苦しみを解き放ってくれえぇえらえらえらえらえら」

男が哀願する。

うわあぁ、恐怖のあまりまさしく無我夢中になってマユミは男の言うとおり、この世ならざるその先っぽを踏みつけた。

「ぎしゃくわかぁ」

言葉にならぬ叫びを挙げ、背虫男は一切の動きを止めた。すると、ぼとぼとと音がして、背虫男の足下にアルビノ生物の肌のように黄色い握り拳大の玉がいくつもいくつも溜まっていった。

「産まれたよぉ、これは産まれたよぉ。アラクネ様の好物が産まれたよぉ。みんな食われる食われるれるれる。吸われる焼かれる焙煎されるぅ。俺に産みつけられた奴らの卵だよぉ」

「な、なんなの!?」

「俺はガキの頃よぉ。アカトンボを殺したんだよぉ。何匹も何匹も何匹も何匹も何匹も。飽きもせずに毎年よぉ。あいつら馬鹿だからよぉ。何匹だって捕まるんだ。道路一面トンボで埋め尽くしてよぉ。爆竹抱かせて飛ばしたりよぉ。蜘蛛の巣に投げ入れたりよぉ。殺したぁ。俺は殺したぁ。お前知ってるか?オニヤンマに頭からアカトンボ食わすと、あいつら尻から卵産むんだぜえ。へっこんだ目玉で卵産むんだぜえ。頭の無い体で卵産むんだぜえ。爆竹が破裂すると首ちょんぱになるんだぜえ。でも俺の一番お気に入りの殺し方はこうさ」

「やめてよ!聞きたくない。どっか行きなさいよ!」

マユミの懇願は、

「俺には選べないぃ。俺には選べないぃ」

と、にべもなく断られた。さらにもはや背虫ではない男は続ける。

「俺は殺したんだよぉ。羽を持ってよぉ。二枚ずつずつずつつつ持ってよぉ。引き裂くんだ。引き裂いて。真っ二つだぁ。簡単に引き裂けるんだあいつら馬鹿だからよぉ。裂けやすい体なんだあいつら馬鹿だからよぉ。肉が見えてるのによぉ。それでも生きてるんだあいつら馬鹿だからよぉ。飛ぶよ飛ぶ飛ぶ。なはは。生きてるんだあいつらよぉ。俺みたいによぉ馬鹿みたいによぉ。お前は腹を裂くんだろお前らが殺した蜘蛛みたいによぉ」

不意に男は後ろを向いた。背虫は破れ、真っ二つに開いた背中。少し黄土色をした肉がびくびくと踊っていた。

「イヤ」

マユミは可憐な乙女のように手のひらで目を覆った。とても先程男性器を踏みつけた女だとは思えない。

「見てくれよぉ。俺のみてくれ見てくれよぉ。アカトンボの奴らの肉はシーチキンみたいでよぉ。薄茶色のシーチキンみたいでよぉ。うまそうでよぉ。なあ、俺の背中もシーチキンみたいかあ?わからないんだよぉ。どんなに首を回しても自分の背中が見えなくてよぉ。シーチキンみたいかあ?なあ、シーチキンみたいかあ?確かめてくれえぇえらえらえらえらえら」

そう言いながら、ふっと背虫男は姿を消した。

「わかったかい?」

するとすぐに、入れ代わりで現れたミシモが問い掛けた。声は変わらず嫌な声の、である。

「いや、そんなこと言われても、何も」

わけがわからないながらも、マユミは変に冷静に答えた。



アラクネ(17)~再投稿~

その日マユミは一人公園のベンチに座って、自分の影を見つめていた。菱山カナコの葬儀からおよそ一ヶ月が経とうとしている日の仕事帰り。家の近所の公園。街灯が白々しく透き通りマユミのつむじと舞い落ちる桜の花を照らす。自転車は横倒しにして停めた。そういう気分だった。仕事にも慣れ、私生活の動乱も落ち着きを見せ始めた時期、もうタケハル達やミシモ、カナコと空メールのやりとりをしていない。マユミの心に去来したものは空虚感、厭世感。心に出入りするモヤモヤ。上がったり下がったりのジグザグ。マユミは厭世感を感じると、この日のように夜風に吹かれることにしていた。未だ寒さの残る空気を生暖かい南風が切り裂く不気味な夜だった。

マユミは何も考えていない。ぼーっとして、ただ影を見つめている。こんな時に何かを考えてしまえば、それはネガティブな思考パターンに結びつくこと間違いないからである。ぼんやりと、薄く目を閉じる。何も考えずに。そのマユミの姿は結跏趺坐して瞑想する修行者に見えなくもない。

目を閉じてすぐにマユミは目を見開いた。停止した筈の思考に割り込んできたものがあったからである。

「なんだって言うのよ」

マユミは影に向かって呟いた。

くも、クモ、蜘蛛、目を閉じると浮かぶイメージ。映像と文字のダブルパンチ。まばたきごとに替わる脳裏に浮かび上がるイメージ。蜘蛛、タランチュラ、ゴケグモ、オニグモ、ジョロウグモ、アシダカグモ、八つ脚、カニグモ。

「疲れてる、か」

そう呟いたのち、瞼の裏に浮かんだ言葉は、憑かれているのだ、だった。

マユミはまばたきを意識した。呼吸がそうであるように普段不随意的に動かしている所為を意識してしまうと厄介なことになる。マユミは一回一回のまばたきをカメラのシャッターを切るように随意的に行わなければならなくなった。

次々と現れては消えるイメージ。赤い目、黒い目、ビーズをちりばめたよう、尖った堅そうな脚に生えている堅そうな毛、交尾のあとメスに食われるオス蜘蛛、卵から孵ったばかりの子供に食われる母蜘蛛、網を紡ぐクモ、規則正しい幾何学模様の網、一瞬にして糸にくるまれる虫、投げ縄、ふわふわと風に乗り空を行く蜘蛛、牙、ぷっくりと膨らんだ腹、まがまがしい模様。そして細長い袋状の巣に籠もる蜘蛛。長い牙の蜘蛛。地蜘蛛。ジグモ。あの蜘蛛。

怖くなってマユミが立ち上がった時、びょう、と生暖かい風が吹き、マユミは、はっとして、また、目を見開いた。確かに立ち上がった筈であったが、マユミは街灯の細かく細かく明滅する光の匂いが染み付いたベンチに腕を組んで座っていた。慌てて携帯電話を取り出し、時刻を確認する。時刻を確認する、というのは行動の副産物で、現代の利器である携帯電話を見ることで自分を安心させようとした。携帯電話のデジタル時計は公園に来た時より一時間が経過していることを示していた。

「なんだよ、夢オチかよ、何が怖いって性犯罪の方が怖いよ、ふふ」

怪奇現象、超常現象など全く信じていないマユミであったが怖いものは怖い。引きつった苦笑いを浮かべると急いで横倒しにした自転車を立て直し、足早に家へと帰った。マユミは気付かなかった。自分が座っていたベンチの脚には雪国の民家の軒樋に連なる氷柱のよう、いくつもの白く細長い紐のようなもの、すなわち、ジグモの巣により埋め尽くされていたことを。

家に帰ればいつも通りの光景が待っていた。マユミは安心して母が用意した夕飯を食い、風呂に入り、上がると少し背伸びした美容液を顔から首筋にかけて塗りたくる。ひび割れ対策と、かかとにも塗る。マユミがベッドに入る頃、リビングのフローリング部はマユミの足跡でオイリーな輝きを放ち、マユミの母はそれをいつどのように叱るか考え倦ねていた。

ベッドに入ったマユミ。先程起こったことをミシモ達に伝えるかどうか少し迷ったが、あのことは疲弊した精神がV字回復する為のきっかけに見た他愛の無い悪夢であったと解釈し、こんなことで一々連絡を入れていたら痛い子になってしまうと判断した。

マユミはベッドに横たわるといつも同じことを思い、望み、考え、寝る。悪い癖だ。この日も同じようにしていた。

「ただ認めよ、さすれば与えん」

突然誰かに話しかけられてマユミは飛び起きた。嫌な声だった。その声は形容可能な種の音ではない。強いていうなればハゲタカを喋らせたらこんな声になるであろう。

上半身をベッドから起こしたマユミは気がつくと華奢な四つ脚の椅子に座っていた。周りは黒い空間が広がっている。どうやら立方体の中にいるらしい、とマユミは直感した。明かりは見て取れないが決して暗い空間ではない。その証拠に、目の前に居るミシモの姿は暗闇の中でスポットライトを浴びているよう、とても鮮明だ。

「あー、なんだ夢か」

「そう。これは夢さ。儚い一夜の夢さ。刹那に見る夢さ。土師マユミ、お前の夢さ」

ミシモの口から発せられる声色はミシモのものでなくあの嫌な声だ。

「はあ、私眠りたいんだけどってこりゃおかしいか。あんた何?ミシモの格好してさ。やめてよね」

「俺が俺を見ているのではない、お前が俺を見ているのだよ」

「あー、そりゃそうだ。あ、ていうことは変えられるかな?これ明晰夢っていうやつよね確か。でも私、夢で思い通りにいったこと無いのよねぇ。みんなが空飛んでる夢の中で飛ぼうとしても飛べないし。飛んだら飛んだでもの凄くノロノロでやっとこさ浮いてるって低空飛行。わかってるの。こんな夢を見る奴ってのは」

「大地と空の距離は現在の自分と理想の自分との距離さ」

「お前が言わなくてもわかってるっつうの」

「俺は夢、しがない夢さ。昔は人間だったがね」

「は?」

目の前にいるミシモは喋り続ける。

「お前の脳みそを借りる儚い夢さ。だから、俺の姿も喋る言葉も、お前のボキャブラリーに左右されるのさ。ぶーらぶらぶらぶーらゆあゆよーん左右に左右にぶーらぶら」

「はあ、なるほど」

「ブログペットのようなものね、だろう?」ミシモはマユミが口に出す前に、それを言い当てた。

「ま、私だからね。私の考えぐらいわかるか」マユミは驚きはしない。だってこれは夢だから。

「そこは違うのさ。きゃはははは。俺は俺さ。お前が見ている俺は俺さ。お前の脳みそを借りているだけなのさ。めじねえきめじねえき」



アラクネ(16)~再投稿~

マユミの面接を担当した高橋という男は、これまた大学の先輩且つ同じ学科出身者であり、就学時期こそ被らなかったが歳も先輩と言えるそれ相応のもので、マユミの相談相手役になるにはこれ一択という人物であった。高橋も同じく教授のコネで入社した口であり、マユミに親近感を覚え、先輩社会人としての役まわりにまんざらでもなかった。わりかし整った顔をしているマユミと、恋愛してもいいかわからない、と、高橋は考える程だった。というよりももはや高橋は完全に恋をしていた。

「俺の場合この会社に入社して良かったことは満員電車に乗らなくて良くなったことだ、都心に向かう人の群れとは上り下りが逆コースだからな。朝、向かいのホームで高校生バイトに押し込まれるおっさん達を見てると内心笑いが止まらないよ。もちろん帰りも。ま、それが如何に恵まれていることかを考えると嫌なことがあってもちゃんと働こうって気持ちにもなるさ。その分給料低いからとんとんかもしらんが」

マユミが社会人になって半年になろうとする頃、マユミと高橋は二人っきりで飲みに出かけた。

「そうですねぇ。私なんかやろうと思えば自転車で通えますからね。時間的に電車とバスを使った場合とあまり変わらないことに気がつきました」

それまでも月に一、二回二人っきりで飲みに出かけることがあった。もちろんマユミが酔って暴れ出すことはない。あれはミシモといる時専用と決めている。

「お前、だからといって交通費ちょろまかすなよな」

「交通費なんてあってないようなもんじゃないですか。駅から会社までのバス代出てないじゃないですか。かといって駐車場は一杯だし。むしろ自転車通勤を奨励してますよ。ということはちょろちょろとまかすしかないでしょう。一応冗談ですけど」

「うむ、経理にバレずにうまいこと月の半分ちょろまかしたとして、大体いくらになる?」

「…三千円弱ですか」

「行き帰りにコンビニに寄って水分補給やらなんやらしようものなら赤字、か。なんかむなしくなってくるな」

「…ですね。ところで今やってる新商品開発ってどんなものになるんですかね?」

マユミは開発室に異動する為、開発に興味があることを高橋に小出しにアピールする作戦をとっていた。自分に素直になれないマユミらしい、まどろっこしい作戦である。当然、この人私に興味持っているに違いない、と確信した上での作戦だ。そのことは決して誇大妄想の賜物ではない。高橋はそのことを態度や言動に、お首にも出していないつもりであったが、素人童貞である高橋のこと。高橋の心の機微を探り当てることなどマユミにとって赤子の手を痛めつけないように捻るが如く容易い。

高橋はマユミの面接を担当したが、開発室所属の人間である。うまいこと事が運べば、うまいこと私の提案をこいつが拾ってくれれば、うまいことこいつをダシにすれば。高橋と二人きりで飲む時に、マユミはラジオに投稿しているリスナーの気持ちになった(ちなみにマユミは男として見た場合の高橋に全く興味が無い。告白された場合には、そんなつもりで飲んできたわけではない、と無碍にあしらえば良いと既に判断が下されている。哀れ高橋。下の名前さえつけてもらえず。目的意識の違いが生む悲しき人間模様の贄よ。頑張れ高橋。負けるな高橋。お前にはきっといい未来を用意すると筆者が約束しようではないか。お前が恋したマユミは死んだが。)。

「うーん、行き詰まりだ。パスタなんだけど、何かいい案ある?」

高橋とて馬鹿ではない。マユミが開発に興味があることはこれまでのマユミの態度からわかっている。来て欲しいとさえ思っていた。自分に人事権があるならば。きっかけが必要だった。マユミが開発室に見初められるきっかけ、すなわち、実績。

マユミは基本的に馬鹿である。目標があってもそれに近付く努力、それを放り投げている。それをしないであーしたいこーしたいあーなりたいこーなりたいとほざくタチである。オセロや将棋を何度やってもうまくならない。小学生の頃、水泳の昇級試験を、教師から義務付けられた最低辺の級をやっつけでパスするとそれ以降受けなかった。英検三級を中学一年で取ると取得時に行った面接が怖くなってそれ以降受けなかった。ミシモが受験しなければ大学に進む気はなかった。運動をやらせれば、所謂運動神経というものにそこそこ恵まれていたのだろう、変に飲み込みが早く、割合何でも器用にこなし、始めて半年程は有望株と呼ばれる程であるが、それ以降はぱたりと成長を止める。そして辞める。物事の初期に出会う“コツ”を掴むとそれで満足し、周りがそれで通用しなくなるレベルに入ると、逃げる。向上心というものがまるでないのである。あるにはあるのだが向上心よりも自分が弱い現実に立ち向かうことの苦痛が先に立つ。やったことが無い人よりはうまい、強い、わかる、それでガラスの自尊心、虚飾に縁取られた自尊心を満ち足らせようとした。自分に向上心が欠如
していること、目標に向かって努力行動をしないことをマユミは自覚している。何といっても自分の大っ嫌いな部分である。しかし、それさえも、努力出来る人間になりたい、と思うだけで、克服する努力を、それが必要であるとわかっていながらしない、からこその馬鹿である。本気を出せば私だって、と、この期に及んで本気で思っている節がある。この時も、開発室に行きたい、と思ってはいたが、では現実的ないい案を用意しているかと問われればそんなものは、明日考えよう、という次第であった。

「パスタですか、何か決定事項はあるんですか?」

マユミは発想のかけらを拾い集めようとした。マユミが恐れていることは才能が無いことを認めること、悟られることである。奇をてらう性格もそれの現れであると云えよう。何かアイデアは無いかと問われたら無いとは言えない、言いたくない。ましてやこの機会だ。が、

「いやぁ、それがパッケージがパスタである以外なんもかんも決まらなくて」

かけらはパスタだけであった。せめてキーとなる食材や風味さえ決まっていればまだなんとか発想の余地はあったのだが。

「そうですか」

「そうなんだよ」

「…」マユミのアルコールを摂取していながらもちっとも酔っていない頭のなかでぐるぐると原価や旬の食材、最近の流行り、自分の好きな食べ物、食べたことがあるパスタ、どこかで見たことがあるパスタやらが目まぐるしく交錯した。食材に関係するものだけではおさまりつかず、交錯する思考の中に、好きな作家の言葉であるとか最近気になった洋服であるとかいつか見た映画のワンシーンなども参加して、めちゃくちゃになっていた。

「…ま、そんな簡単に」
タイムリミットを宣言されようとした刹那、マユミはとりあえず目の前にあった言葉を掴んで投げつけた。

「トイ・プードル、的な」

「えっ?」

苦し紛れに言った自分でも何が何やらわからぬイメージが、商品として現実にコンビニの陳列棚に並んだのはその日からおよそ1ヶ月半後のことである。「パスタDEヘルシー・プードル味!?」は世間を賑わす大ヒット商品に、とまではいかなかったがそこそこのスマッシュヒットを記録した。発売三日で「パスタDEヘルシー・目印はプードル!」に名前が変わったことはご愛嬌。



アラクネ(15)~再投稿~

土師マユミは、嫌い、と言うことでしか自己主張の出来ない子だった。何かを好きになったらそのものと同じジャンルの異なるものにケチをつけることでしか愛し方を知らない人がよくいるが、それとは違う。マユミにとって、好き、という言葉は自分をさらけ出してしまっているようで、とても怖かった。好きな食べ物、服装、タレント、音楽、作家、テレビ番組、ラジオ番組、人間性、その全てを周りにはぐらかしたり冗談であるということを前提として伝えた。自分の知識、個性にバックボーンがあることを知られることが怖かった。影響を受けたものを知られ、それを自分から引いた時の薄っぺらい自分がたまらなくイヤだった。私あれ嫌いだな。あれは嫌いではない。あれは嫌いではないけど好きでもない。お母さん、私があれ嫌いって知ってるでしょ。彼のあの部分は嫌い。好き、という言葉は覆すことの出来ない決定の言葉である。一度何かを好きと周りに言ってしまえば、それはもう覆せない。マユミあれ好きなんだ。マユミあの頃あれ好きだったよね。じゃあこれも好きなんじゃないの。しかし、嫌い、という言葉はとりかえしのつく言葉である。今は嫌いじゃない。そこ
まで嫌いじゃないよ。もうそんなことどうでもよくなったよ。

好きという言葉は嫌いという言葉よりも強い主張と意見、そして、自分が好きなものが嫌いな者、への敵愾心を煽り、ある種の責任すら伴う。マユミはそういう争いごとや強き意志決定が苦手だった。また自分が好きなものを周りの人間に否定されることが人一倍怖い。認知的不協和にとても弱い。マユミはとても打たれ弱い人間であった。そのくせインターネットの巨大掲示板「兄ちゃんねる」をまとめたブログのチェックが日課になっていて、奇をてらっている気取りであるマユミの好きなものは比較的掲示板内で肯定的に扱われる傾向があるとはいえ、そうだな、や、本当かよ…、と一喜一憂するスリルを味わっていた。

マユミは決して周囲の意見に迎合するマジョリティに則った、私嫌い、を使うわけではない。むしろ流行りものなどを目の敵の如く否定することが多かった。周囲から奇異の目で見られたいという、上記した自分自身の弱さを認めない為に成長過程で培った自己欺瞞もあったが、平気でそういうことが言えるようになったのは隣に自分のことを誰よりも理解してくれている尾形ミシモという存在が出来たからである。

マユミがミシモと出会ったのは幼稚園の頃だが、仲良くなったのは中学受験の為に小学三年の頃から通い出した地元の塾で鉢合わせした時からである。それまで互いの、否、ミシモと出会う前のマユミの性格上、互いに互いを敬遠していたものであったが、あまり大きな塾ではなかったことが幸いした。十人にも満たぬ程度の小さなクラス内で二人の「幼馴染み」、二人は仲良くならなければならなかった、と言ってしまえばそれまでだが、学校から離れた社会の中で二人が仲良くなることは必然だった。ミシモは強い人間である。小さい頃から自分というものをしっかり持っていた。不思議と、今まで敬遠していたのが馬鹿らしくなる程、二人はうまが合った。強いミシモと弱いマユミ。それは体毛の薄い男が体毛の濃い男に憧れを抱くよう、またその反対といった具合に、互いの表裏一体にある強さ弱さの凸凹ががっちり噛み合った故であろう。ミシモはマユミの素直にならない“弱さ”がとても新鮮で、魅力的で、強烈な個性、ある意味徹底した弱さをマユミの強さと感じた。だからマユミは安心して周りに奇をてらった攻撃をしかけたし、存分に弱い自分を守った。ミシモが隣にいて
くれればそれだけで他の人間とどうなろうがそんなことどうでも良かった。ただミシモが楽しくなればそれで幸せだった。そんなマユミの形成性格上、男に影響を受ける、なんてことは嘲笑の対象でしかなかった。周りの友人達の趣味趣向主義主張がつきあっている男によってころころと変化することに、やりきれぬ憤りすら感じた。見知らぬ人に道を訊くことすら嫌いなマユミなのだから。

偶然を装いながらも、結局大学までミシモにくっついて離れなかったマユミ。その間恋愛の一つや二つしたものであるが、それさえ一つの欺瞞で、燃えるような感情も確かにあったが、別れ話をミシモが笑ってくれればそれでよかったといった具合である。しかし、さすがに就職までは思うようにいかず、マユミはミシモと袂を分かつことになる。やりたい仕事はあった。しかし、マユミは変人教授の推薦でまるで興味のない食品企業の内定を取ることにした。自分のやりたいことなど誰にも言いたくなかった。自分にも言いたくなかったのかもしれない。いずれにせよ、の話である。

マユミがすんなり就職した埼玉県にある食品会社は社員六十人、パート百人程の中小企業といって差し支えない会社で、主にコンビニ弁当の開発、製造をしている。取引先は大手数社のコンビニ以外のコンビニ数社が主である。入社当初、せっかくなら商品開発の方に参加出来ないかと希望的観測を抱いていたが、現実はベルトコンベアーの管理という名のパートと変わらぬ単純作業と少しの事務がその仕事だった。当たり前といえば当たり前である。何より新人であるし、そもそも商品開発室には大学の先輩の大学院卒が占めているのであるから。また、ミシモ無き退屈な日々の環境に単純作業はよく合った。パートのおばちゃん達とも打ち解けた。しかし、やはり物足りない。マユミにだって少しは主体性というものがある。奇をてらう人間は得てして、口だけ番長、になりがちだが、マユミもそうだった。私ならこういう商品を作るのに。私ならこうして購買層を絞るのに。私ならこういうキャッチコピーをつけるのに。私なら、私なら。とはいえ、口だけ番長のアイディアとは得てして無知故の発想であることは否めない。マユミはそんな無知なる自分を知っていた。実際に商品を開
発する立場になったら毒にも薬にもならぬ、どこにでもありそうな、落ち着いた案を出すのだろう。そう考えると泣けた。だが、確かに開発室に行きたい自分もいる。何か出来るのではないかと考える自分もいる。入社して数ヶ月、マユミはジレンマに揺れていた。

そして、マユミは入社半年にしてひょんなことから商品開発室に潜りこむことが出来たのであった。