アラクネ(17)~再投稿~
その日マユミは一人公園のベンチに座って、自分の影を見つめていた。菱山カナコの葬儀からおよそ一ヶ月が経とうとしている日の仕事帰り。家の近所の公園。街灯が白々しく透き通りマユミのつむじと舞い落ちる桜の花を照らす。自転車は横倒しにして停めた。そういう気分だった。仕事にも慣れ、私生活の動乱も落ち着きを見せ始めた時期、もうタケハル達やミシモ、カナコと空メールのやりとりをしていない。マユミの心に去来したものは空虚感、厭世感。心に出入りするモヤモヤ。上がったり下がったりのジグザグ。マユミは厭世感を感じると、この日のように夜風に吹かれることにしていた。未だ寒さの残る空気を生暖かい南風が切り裂く不気味な夜だった。
マユミは何も考えていない。ぼーっとして、ただ影を見つめている。こんな時に何かを考えてしまえば、それはネガティブな思考パターンに結びつくこと間違いないからである。ぼんやりと、薄く目を閉じる。何も考えずに。そのマユミの姿は結跏趺坐して瞑想する修行者に見えなくもない。
目を閉じてすぐにマユミは目を見開いた。停止した筈の思考に割り込んできたものがあったからである。
「なんだって言うのよ」
マユミは影に向かって呟いた。
くも、クモ、蜘蛛、目を閉じると浮かぶイメージ。映像と文字のダブルパンチ。まばたきごとに替わる脳裏に浮かび上がるイメージ。蜘蛛、タランチュラ、ゴケグモ、オニグモ、ジョロウグモ、アシダカグモ、八つ脚、カニグモ。
「疲れてる、か」
そう呟いたのち、瞼の裏に浮かんだ言葉は、憑かれているのだ、だった。
マユミはまばたきを意識した。呼吸がそうであるように普段不随意的に動かしている所為を意識してしまうと厄介なことになる。マユミは一回一回のまばたきをカメラのシャッターを切るように随意的に行わなければならなくなった。
次々と現れては消えるイメージ。赤い目、黒い目、ビーズをちりばめたよう、尖った堅そうな脚に生えている堅そうな毛、交尾のあとメスに食われるオス蜘蛛、卵から孵ったばかりの子供に食われる母蜘蛛、網を紡ぐクモ、規則正しい幾何学模様の網、一瞬にして糸にくるまれる虫、投げ縄、ふわふわと風に乗り空を行く蜘蛛、牙、ぷっくりと膨らんだ腹、まがまがしい模様。そして細長い袋状の巣に籠もる蜘蛛。長い牙の蜘蛛。地蜘蛛。ジグモ。あの蜘蛛。
怖くなってマユミが立ち上がった時、びょう、と生暖かい風が吹き、マユミは、はっとして、また、目を見開いた。確かに立ち上がった筈であったが、マユミは街灯の細かく細かく明滅する光の匂いが染み付いたベンチに腕を組んで座っていた。慌てて携帯電話を取り出し、時刻を確認する。時刻を確認する、というのは行動の副産物で、現代の利器である携帯電話を見ることで自分を安心させようとした。携帯電話のデジタル時計は公園に来た時より一時間が経過していることを示していた。
「なんだよ、夢オチかよ、何が怖いって性犯罪の方が怖いよ、ふふ」
怪奇現象、超常現象など全く信じていないマユミであったが怖いものは怖い。引きつった苦笑いを浮かべると急いで横倒しにした自転車を立て直し、足早に家へと帰った。マユミは気付かなかった。自分が座っていたベンチの脚には雪国の民家の軒樋に連なる氷柱のよう、いくつもの白く細長い紐のようなもの、すなわち、ジグモの巣により埋め尽くされていたことを。
家に帰ればいつも通りの光景が待っていた。マユミは安心して母が用意した夕飯を食い、風呂に入り、上がると少し背伸びした美容液を顔から首筋にかけて塗りたくる。ひび割れ対策と、かかとにも塗る。マユミがベッドに入る頃、リビングのフローリング部はマユミの足跡でオイリーな輝きを放ち、マユミの母はそれをいつどのように叱るか考え倦ねていた。
ベッドに入ったマユミ。先程起こったことをミシモ達に伝えるかどうか少し迷ったが、あのことは疲弊した精神がV字回復する為のきっかけに見た他愛の無い悪夢であったと解釈し、こんなことで一々連絡を入れていたら痛い子になってしまうと判断した。
マユミはベッドに横たわるといつも同じことを思い、望み、考え、寝る。悪い癖だ。この日も同じようにしていた。
「ただ認めよ、さすれば与えん」
突然誰かに話しかけられてマユミは飛び起きた。嫌な声だった。その声は形容可能な種の音ではない。強いていうなればハゲタカを喋らせたらこんな声になるであろう。
上半身をベッドから起こしたマユミは気がつくと華奢な四つ脚の椅子に座っていた。周りは黒い空間が広がっている。どうやら立方体の中にいるらしい、とマユミは直感した。明かりは見て取れないが決して暗い空間ではない。その証拠に、目の前に居るミシモの姿は暗闇の中でスポットライトを浴びているよう、とても鮮明だ。
「あー、なんだ夢か」
「そう。これは夢さ。儚い一夜の夢さ。刹那に見る夢さ。土師マユミ、お前の夢さ」
ミシモの口から発せられる声色はミシモのものでなくあの嫌な声だ。
「はあ、私眠りたいんだけどってこりゃおかしいか。あんた何?ミシモの格好してさ。やめてよね」
「俺が俺を見ているのではない、お前が俺を見ているのだよ」
「あー、そりゃそうだ。あ、ていうことは変えられるかな?これ明晰夢っていうやつよね確か。でも私、夢で思い通りにいったこと無いのよねぇ。みんなが空飛んでる夢の中で飛ぼうとしても飛べないし。飛んだら飛んだでもの凄くノロノロでやっとこさ浮いてるって低空飛行。わかってるの。こんな夢を見る奴ってのは」
「大地と空の距離は現在の自分と理想の自分との距離さ」
「お前が言わなくてもわかってるっつうの」
「俺は夢、しがない夢さ。昔は人間だったがね」
「は?」
目の前にいるミシモは喋り続ける。
「お前の脳みそを借りる儚い夢さ。だから、俺の姿も喋る言葉も、お前のボキャブラリーに左右されるのさ。ぶーらぶらぶらぶーらゆあゆよーん左右に左右にぶーらぶら」
「はあ、なるほど」
「ブログペットのようなものね、だろう?」ミシモはマユミが口に出す前に、それを言い当てた。
「ま、私だからね。私の考えぐらいわかるか」マユミは驚きはしない。だってこれは夢だから。
「そこは違うのさ。きゃはははは。俺は俺さ。お前が見ている俺は俺さ。お前の脳みそを借りているだけなのさ。めじねえきめじねえき」
続
マユミは何も考えていない。ぼーっとして、ただ影を見つめている。こんな時に何かを考えてしまえば、それはネガティブな思考パターンに結びつくこと間違いないからである。ぼんやりと、薄く目を閉じる。何も考えずに。そのマユミの姿は結跏趺坐して瞑想する修行者に見えなくもない。
目を閉じてすぐにマユミは目を見開いた。停止した筈の思考に割り込んできたものがあったからである。
「なんだって言うのよ」
マユミは影に向かって呟いた。
くも、クモ、蜘蛛、目を閉じると浮かぶイメージ。映像と文字のダブルパンチ。まばたきごとに替わる脳裏に浮かび上がるイメージ。蜘蛛、タランチュラ、ゴケグモ、オニグモ、ジョロウグモ、アシダカグモ、八つ脚、カニグモ。
「疲れてる、か」
そう呟いたのち、瞼の裏に浮かんだ言葉は、憑かれているのだ、だった。
マユミはまばたきを意識した。呼吸がそうであるように普段不随意的に動かしている所為を意識してしまうと厄介なことになる。マユミは一回一回のまばたきをカメラのシャッターを切るように随意的に行わなければならなくなった。
次々と現れては消えるイメージ。赤い目、黒い目、ビーズをちりばめたよう、尖った堅そうな脚に生えている堅そうな毛、交尾のあとメスに食われるオス蜘蛛、卵から孵ったばかりの子供に食われる母蜘蛛、網を紡ぐクモ、規則正しい幾何学模様の網、一瞬にして糸にくるまれる虫、投げ縄、ふわふわと風に乗り空を行く蜘蛛、牙、ぷっくりと膨らんだ腹、まがまがしい模様。そして細長い袋状の巣に籠もる蜘蛛。長い牙の蜘蛛。地蜘蛛。ジグモ。あの蜘蛛。
怖くなってマユミが立ち上がった時、びょう、と生暖かい風が吹き、マユミは、はっとして、また、目を見開いた。確かに立ち上がった筈であったが、マユミは街灯の細かく細かく明滅する光の匂いが染み付いたベンチに腕を組んで座っていた。慌てて携帯電話を取り出し、時刻を確認する。時刻を確認する、というのは行動の副産物で、現代の利器である携帯電話を見ることで自分を安心させようとした。携帯電話のデジタル時計は公園に来た時より一時間が経過していることを示していた。
「なんだよ、夢オチかよ、何が怖いって性犯罪の方が怖いよ、ふふ」
怪奇現象、超常現象など全く信じていないマユミであったが怖いものは怖い。引きつった苦笑いを浮かべると急いで横倒しにした自転車を立て直し、足早に家へと帰った。マユミは気付かなかった。自分が座っていたベンチの脚には雪国の民家の軒樋に連なる氷柱のよう、いくつもの白く細長い紐のようなもの、すなわち、ジグモの巣により埋め尽くされていたことを。
家に帰ればいつも通りの光景が待っていた。マユミは安心して母が用意した夕飯を食い、風呂に入り、上がると少し背伸びした美容液を顔から首筋にかけて塗りたくる。ひび割れ対策と、かかとにも塗る。マユミがベッドに入る頃、リビングのフローリング部はマユミの足跡でオイリーな輝きを放ち、マユミの母はそれをいつどのように叱るか考え倦ねていた。
ベッドに入ったマユミ。先程起こったことをミシモ達に伝えるかどうか少し迷ったが、あのことは疲弊した精神がV字回復する為のきっかけに見た他愛の無い悪夢であったと解釈し、こんなことで一々連絡を入れていたら痛い子になってしまうと判断した。
マユミはベッドに横たわるといつも同じことを思い、望み、考え、寝る。悪い癖だ。この日も同じようにしていた。
「ただ認めよ、さすれば与えん」
突然誰かに話しかけられてマユミは飛び起きた。嫌な声だった。その声は形容可能な種の音ではない。強いていうなればハゲタカを喋らせたらこんな声になるであろう。
上半身をベッドから起こしたマユミは気がつくと華奢な四つ脚の椅子に座っていた。周りは黒い空間が広がっている。どうやら立方体の中にいるらしい、とマユミは直感した。明かりは見て取れないが決して暗い空間ではない。その証拠に、目の前に居るミシモの姿は暗闇の中でスポットライトを浴びているよう、とても鮮明だ。
「あー、なんだ夢か」
「そう。これは夢さ。儚い一夜の夢さ。刹那に見る夢さ。土師マユミ、お前の夢さ」
ミシモの口から発せられる声色はミシモのものでなくあの嫌な声だ。
「はあ、私眠りたいんだけどってこりゃおかしいか。あんた何?ミシモの格好してさ。やめてよね」
「俺が俺を見ているのではない、お前が俺を見ているのだよ」
「あー、そりゃそうだ。あ、ていうことは変えられるかな?これ明晰夢っていうやつよね確か。でも私、夢で思い通りにいったこと無いのよねぇ。みんなが空飛んでる夢の中で飛ぼうとしても飛べないし。飛んだら飛んだでもの凄くノロノロでやっとこさ浮いてるって低空飛行。わかってるの。こんな夢を見る奴ってのは」
「大地と空の距離は現在の自分と理想の自分との距離さ」
「お前が言わなくてもわかってるっつうの」
「俺は夢、しがない夢さ。昔は人間だったがね」
「は?」
目の前にいるミシモは喋り続ける。
「お前の脳みそを借りる儚い夢さ。だから、俺の姿も喋る言葉も、お前のボキャブラリーに左右されるのさ。ぶーらぶらぶらぶーらゆあゆよーん左右に左右にぶーらぶら」
「はあ、なるほど」
「ブログペットのようなものね、だろう?」ミシモはマユミが口に出す前に、それを言い当てた。
「ま、私だからね。私の考えぐらいわかるか」マユミは驚きはしない。だってこれは夢だから。
「そこは違うのさ。きゃはははは。俺は俺さ。お前が見ている俺は俺さ。お前の脳みそを借りているだけなのさ。めじねえきめじねえき」
続