アラクネ(28)~再投稿~
あのミキちゃんをレンタルさせれば些かの儲けが、この前アシスタントに行ったあの人なら一万、いや、七千、いや一回四千円で、いける。
そう考えながら上を向いて歩くニコニコの男、たかられからの帰り道。
早速メールを打つ、「三ヶ月無使用ドール(殺菌済み)一回三千円でどうですか!?プラス五千円でオプション可」
俺は何をやってんだ。
不意に微笑み交じりのむなしさが去来し、男は打ち立てのメールを送信前にすぐ消去した。
やることがある。今日も、明日にも、やることがある。明後日にもやることがある。何だ、俺は生きているじゃないか。死にたい死にたいと妖怪人間みたく叫んでばかりで、本当は心の底から生きていたいだけじゃないか。妖怪人間も本当は妖怪であることを誇りたいんだ。毎日楽しいじゃないか。日々はこんなに輝いているじゃないか。死が迫っている?何を馬鹿な。知るかそんなもん。あいつらにゃ悪いが魔が差しただけだろ。人間魔が差せば大抵のことはするからな。どこまでも俺は俺だ。どこまでもどこまでも俺は俺でいいんだ。宇宙へ出ると人間は骨密度が低くなると云う。それをどう受け止めるかの問題だ。体は怠けるように出来ていると受け止めるか、体は地球に生きているそれだけで頑張っているのだと受け止めるかの問題だ。それだけで奇跡。それだけでいいんだ。宇宙の誕生から百四十億年。積み上げられた奇跡。宇宙の歴史を遡ってもたった一人しかいない唯一の俺が今ここに生きている。現在進行形だぞこの野郎。現在進行形なんだぞばか野郎。止められるものか現在進行形なんだぞ。現在進行形なんだぞ。ingだぞばか野郎!あ、ingってin、gで重力の中
にいるってことじゃないか?じゃあ宇宙飛行士はどうなるんだ?って知るかばか野郎。生きてやるんだ俺は。生きているだけで幸せじゃないか。止められるものか。この生命、止められるもんかよ。宇宙の歴史に、幾重も積み重ねられた情報に、反逆なんて出来るものか。たとえ、この世界の創造主でも、神でも。知ってるか?困ったから強制リセットするなんてガキの所業だぜ。わはははは。
夕暮れ迫る街角、バスに揺られる人々。いつもは無機質に見えるその顔々が男には、どこを見るではないその表情に何か意味があるのではないかと思えた。
あの人達が死んだら、あの人達が生きていた情報はどこへ行くのだろう。彼らの煙は空からこぼれ落ちて、誰かに受け継がれるのかな?
カズタカは自宅の扉を開けた。部屋は真っ黄色だった。やけに黄色い夕陽が部屋を照らしていたからだった。
カーテンは閉めていたはずなのに。
そうは思ったものの、「残念、金になるものはあるだけ売ったよ」と、すぐに机へ向かった。黄色く輝くミキちゃんがカズタカの後頭部を見つめている。
観音開きの作画の続きをしようとGペンを握る。
「うわ」
驚いたカズタカ。
M字のアップ。開かれた脚、真ん中にぐじゅぐじゅ。後ろにたわわな胸、原稿に映るその姿が牙を剥き出しにした大蜘蛛の姿に見えた。
カズタカはふぅっと息を吐くと、描きかけの、普通の、原稿用紙をぐしゃぐしゃに握りつぶし、後ろに放り投げた。原稿玉はミキちゃんの顔に当たり、ぽとりと床に落ちた。夕陽の日溜まりに捨てられた原稿からもやっと煙が上がり、ミキちゃんの股へと吸い込まれて行ったことをカズタカは知らない。
「そういや寝てないからな」
その現象の理由をみつけ、そう呟いたカズタカの脳裏に、
「最近寂しいわ」
浮かび上がる言葉。
サッカーで裏をとられたディフェンダーのように後ろを振り返るカズタカ。ミキちゃんはいつも通り生きている人間そっくりの表情で佇んでいて、カズタカはいつも通りどきっとした。ベッドの下に誰かいるかもしれない、恐怖からふとそうも思ったが、部屋にベッドは無い。
「ま、俺にはやることがある。疲れは別問題だ」
自身の独り言に、別人物の言葉がオーバーラップする。
「憑かれているよの」
カズタカは脳みそを振り払うかのように頭を回し、「別問題ってわけにはいかないか」と呟いた。
電気を点けっぱなしにして万年床に横たわる。徹夜明けの体は、普段ならなかなか寝付けないのだが、疲れた体にやる気をはらんだ時、意思と裏腹に眠気は静かにやってくる。最近使われることの無いミキちゃんの股に、ジグモの巣が張っていることに気付く暇無く。
「認めよ、さすれば与えん」
脳みそにストローをぶっさし、それを通して語りかけられたかのような声が聴こえ、かぷりと瞼を開けたカズタカ。気がつくと華奢な四つ脚の椅子に座っていた。
「随分久しぶりね」
目の前に現れた女が言った。しかし、声はハゲタカを擬人化したようなえもいわれぬしわがれ声であった。
「あ、ミキちゃん」
女はミキちゃんだった。
「ご無沙汰じゃない?私のぬくもりに飽きたの?」
「ああ、いや、そういうわけではないのだが、その、なんて言うか」
人形相手でもしどろもどろに応じる男の悲しさ。
「あんなに愛してくれたじゃない」
人形は愛くるしい仕草で不気味にふふふと笑った。
「ああ、ま、なんつうか。ていうかミキちゃんそんな声なの?俺の中のイメージでは」
「赤ずきんに毛が生えた、だろう。ふふふ」
心の声を聴かれたと思い、カズタカは一瞬ぎょっと驚いたが、すぐさま、
「さすが、長い間一緒に生活してると分かり合えるもんだねぇ」
と、苦笑いを浮かべた。
「お前の中のイメージにあるその理想の声は、母親の若き日の声だとしてもかい?」
「うわぁ、やめてくれ。君の口からそういうこと言わないでくれる?だけどそうなの?本当に?」
「感じるのよ。武者カズタカ君。帰るのよ。胎の中に。暗く寄せられた世界の中に」
「はぁ、ま、俺が君のレンタルを思いついてしまったことに怒っているなら、それで夢枕に立っているなら謝るしかないけど。ごめんなさい。あれ?夢枕ってこれ夢か?」
ぽかんと間抜けた表情で、カズタカはきょろきょろと辺りを見回した。暗い、しかし黒く輝く部屋だった。
「夢の中ではいけない?してはいけない?あなたのお仕事じゃない」
「なるほど、夢魔、か。それだと俺、からっからになるまで精力吸いつくされて死んじゃうだろ。そのこと知らなかったからひとつ夢の中でしか出来ないようなこともしてるだろうけど、またそのからからになってもやめられない悦楽を味わってみたくもあるけども、人形が肉体を伴い主人に尽くすなんてまさしく俺の仕事だけれども、申し訳ない。却下で。君とはまた現実で逢おうぜ。それじゃ駄目かい?」
「どうせあなたはすぐに死ぬのだからいいじゃない。最後ぐらい」
そう言われ、ぞっとしたカズタカのすね毛が逆立つ。
「死ぬだと?俺が?」
「そうよ。すぐに死ぬわ。悲しい?キャハハ」
ミキちゃんは手を叩いて笑うと、
「仕方ないの。決まっているの」
と、言った。
「決まっている、だ?俺もあいつらみたく腹を裂いて死ぬっていうのか?」
「そう。アラクネ様のお墨付き」
「アラクネ様?」
「蜘蛛の女王アラクネ様お墨付き。お墨付き。お墨付き。お墨付きだぞこの野郎!キャハハ」
けたけたとから笑うミキちゃんにカズタカは初めて恐怖を抱いた。
「お墨付きだと?決まっているだと?そんなことお前だかお前らだかが決めるなよ!俺の問題だ!俺が決めんだよんなこたぁ!」
精一杯の強がりも、リアルな表情の中にツクリモノの冷たい表情を浮かべ笑うミキちゃんの、どしゃぐしゃの声にかき消されていった。
続
そう考えながら上を向いて歩くニコニコの男、たかられからの帰り道。
早速メールを打つ、「三ヶ月無使用ドール(殺菌済み)一回三千円でどうですか!?プラス五千円でオプション可」
俺は何をやってんだ。
不意に微笑み交じりのむなしさが去来し、男は打ち立てのメールを送信前にすぐ消去した。
やることがある。今日も、明日にも、やることがある。明後日にもやることがある。何だ、俺は生きているじゃないか。死にたい死にたいと妖怪人間みたく叫んでばかりで、本当は心の底から生きていたいだけじゃないか。妖怪人間も本当は妖怪であることを誇りたいんだ。毎日楽しいじゃないか。日々はこんなに輝いているじゃないか。死が迫っている?何を馬鹿な。知るかそんなもん。あいつらにゃ悪いが魔が差しただけだろ。人間魔が差せば大抵のことはするからな。どこまでも俺は俺だ。どこまでもどこまでも俺は俺でいいんだ。宇宙へ出ると人間は骨密度が低くなると云う。それをどう受け止めるかの問題だ。体は怠けるように出来ていると受け止めるか、体は地球に生きているそれだけで頑張っているのだと受け止めるかの問題だ。それだけで奇跡。それだけでいいんだ。宇宙の誕生から百四十億年。積み上げられた奇跡。宇宙の歴史を遡ってもたった一人しかいない唯一の俺が今ここに生きている。現在進行形だぞこの野郎。現在進行形なんだぞばか野郎。止められるものか現在進行形なんだぞ。現在進行形なんだぞ。ingだぞばか野郎!あ、ingってin、gで重力の中
にいるってことじゃないか?じゃあ宇宙飛行士はどうなるんだ?って知るかばか野郎。生きてやるんだ俺は。生きているだけで幸せじゃないか。止められるものか。この生命、止められるもんかよ。宇宙の歴史に、幾重も積み重ねられた情報に、反逆なんて出来るものか。たとえ、この世界の創造主でも、神でも。知ってるか?困ったから強制リセットするなんてガキの所業だぜ。わはははは。
夕暮れ迫る街角、バスに揺られる人々。いつもは無機質に見えるその顔々が男には、どこを見るではないその表情に何か意味があるのではないかと思えた。
あの人達が死んだら、あの人達が生きていた情報はどこへ行くのだろう。彼らの煙は空からこぼれ落ちて、誰かに受け継がれるのかな?
カズタカは自宅の扉を開けた。部屋は真っ黄色だった。やけに黄色い夕陽が部屋を照らしていたからだった。
カーテンは閉めていたはずなのに。
そうは思ったものの、「残念、金になるものはあるだけ売ったよ」と、すぐに机へ向かった。黄色く輝くミキちゃんがカズタカの後頭部を見つめている。
観音開きの作画の続きをしようとGペンを握る。
「うわ」
驚いたカズタカ。
M字のアップ。開かれた脚、真ん中にぐじゅぐじゅ。後ろにたわわな胸、原稿に映るその姿が牙を剥き出しにした大蜘蛛の姿に見えた。
カズタカはふぅっと息を吐くと、描きかけの、普通の、原稿用紙をぐしゃぐしゃに握りつぶし、後ろに放り投げた。原稿玉はミキちゃんの顔に当たり、ぽとりと床に落ちた。夕陽の日溜まりに捨てられた原稿からもやっと煙が上がり、ミキちゃんの股へと吸い込まれて行ったことをカズタカは知らない。
「そういや寝てないからな」
その現象の理由をみつけ、そう呟いたカズタカの脳裏に、
「最近寂しいわ」
浮かび上がる言葉。
サッカーで裏をとられたディフェンダーのように後ろを振り返るカズタカ。ミキちゃんはいつも通り生きている人間そっくりの表情で佇んでいて、カズタカはいつも通りどきっとした。ベッドの下に誰かいるかもしれない、恐怖からふとそうも思ったが、部屋にベッドは無い。
「ま、俺にはやることがある。疲れは別問題だ」
自身の独り言に、別人物の言葉がオーバーラップする。
「憑かれているよの」
カズタカは脳みそを振り払うかのように頭を回し、「別問題ってわけにはいかないか」と呟いた。
電気を点けっぱなしにして万年床に横たわる。徹夜明けの体は、普段ならなかなか寝付けないのだが、疲れた体にやる気をはらんだ時、意思と裏腹に眠気は静かにやってくる。最近使われることの無いミキちゃんの股に、ジグモの巣が張っていることに気付く暇無く。
「認めよ、さすれば与えん」
脳みそにストローをぶっさし、それを通して語りかけられたかのような声が聴こえ、かぷりと瞼を開けたカズタカ。気がつくと華奢な四つ脚の椅子に座っていた。
「随分久しぶりね」
目の前に現れた女が言った。しかし、声はハゲタカを擬人化したようなえもいわれぬしわがれ声であった。
「あ、ミキちゃん」
女はミキちゃんだった。
「ご無沙汰じゃない?私のぬくもりに飽きたの?」
「ああ、いや、そういうわけではないのだが、その、なんて言うか」
人形相手でもしどろもどろに応じる男の悲しさ。
「あんなに愛してくれたじゃない」
人形は愛くるしい仕草で不気味にふふふと笑った。
「ああ、ま、なんつうか。ていうかミキちゃんそんな声なの?俺の中のイメージでは」
「赤ずきんに毛が生えた、だろう。ふふふ」
心の声を聴かれたと思い、カズタカは一瞬ぎょっと驚いたが、すぐさま、
「さすが、長い間一緒に生活してると分かり合えるもんだねぇ」
と、苦笑いを浮かべた。
「お前の中のイメージにあるその理想の声は、母親の若き日の声だとしてもかい?」
「うわぁ、やめてくれ。君の口からそういうこと言わないでくれる?だけどそうなの?本当に?」
「感じるのよ。武者カズタカ君。帰るのよ。胎の中に。暗く寄せられた世界の中に」
「はぁ、ま、俺が君のレンタルを思いついてしまったことに怒っているなら、それで夢枕に立っているなら謝るしかないけど。ごめんなさい。あれ?夢枕ってこれ夢か?」
ぽかんと間抜けた表情で、カズタカはきょろきょろと辺りを見回した。暗い、しかし黒く輝く部屋だった。
「夢の中ではいけない?してはいけない?あなたのお仕事じゃない」
「なるほど、夢魔、か。それだと俺、からっからになるまで精力吸いつくされて死んじゃうだろ。そのこと知らなかったからひとつ夢の中でしか出来ないようなこともしてるだろうけど、またそのからからになってもやめられない悦楽を味わってみたくもあるけども、人形が肉体を伴い主人に尽くすなんてまさしく俺の仕事だけれども、申し訳ない。却下で。君とはまた現実で逢おうぜ。それじゃ駄目かい?」
「どうせあなたはすぐに死ぬのだからいいじゃない。最後ぐらい」
そう言われ、ぞっとしたカズタカのすね毛が逆立つ。
「死ぬだと?俺が?」
「そうよ。すぐに死ぬわ。悲しい?キャハハ」
ミキちゃんは手を叩いて笑うと、
「仕方ないの。決まっているの」
と、言った。
「決まっている、だ?俺もあいつらみたく腹を裂いて死ぬっていうのか?」
「そう。アラクネ様のお墨付き」
「アラクネ様?」
「蜘蛛の女王アラクネ様お墨付き。お墨付き。お墨付き。お墨付きだぞこの野郎!キャハハ」
けたけたとから笑うミキちゃんにカズタカは初めて恐怖を抱いた。
「お墨付きだと?決まっているだと?そんなことお前だかお前らだかが決めるなよ!俺の問題だ!俺が決めんだよんなこたぁ!」
精一杯の強がりも、リアルな表情の中にツクリモノの冷たい表情を浮かべ笑うミキちゃんの、どしゃぐしゃの声にかき消されていった。
続
アラクネ(27)~再投稿~
ここではなんだと店を出た残りものの二人。
「どこ行く?俺はろくな人生を過ごしてねえからこんな時に行くぴったりの場所なんて知らない。選択肢が俺んちしかねえ」
「死んでも嫌だ」
「そうだろうな」
「あそこに行くぞ」
「…ってどこだよ。歩くの早いなお前」
「君が社会のリズムから取り残されてるだけ」
「痛いです非常に痛いです心が」
「落ち着け。心を痛めて死んだ奴はたくさんいる」
「いるから駄目なんだろ!」
「ところでいくら金持ってるの?ちょっとジャンプしてみ」
「かつあげかよ。いやそこはすっかり慣れちまってるが、この歳になって小銭を対象としたかつあげされるのかよ」
「いいからジャンプして何か風船的なものを捕まえてそのまま空へと上がって上がって上がって上がって行き…」
「行き、なんだよ。カラスにでも」
「つつかれずに?」
「え?カラスにつつかれずに?じゃあ、東京タワーのてっぺんに」
「刺さることもなく?」
「ヘリコプターのプロペラで」
「切り刻まれることもなく?」
「クレージーで評判の飛行機野郎が捨てた火のついた葉巻が」
「煙を出しながら隣を通過して?」
「月光に導かれて飛んで行く蛾の群れに」
「突っ込むこともなく?」
「ハイジャックされたジャンボジェットの」
「乗客に手を振り?」
「降り注ぐスペースデブリの矢を」
「きれいなもんだなと眺めて?」
「衛星軌道上に漂うライカ犬の魂がって俺どこまで空の旅を続けてんだよ!早く撃墜してくれ。風船おじさんか俺は」
「ああ、そうですね、あなた変態おじさんですものね」
「変態はいいとしておじさん踏襲しちゃったよ。せめてお兄さんにしてくれ。若いぜ、俺。ここだけの話なんと、お前と同い年だ」
「なるほど、合わせると風船変態おじさんおじさんですね」
「なんで合わせた!?おじさんおじさんってなんだよ。お兄さん抜けてるし」
「グリーン担当だものね」
「は!?色分けされるってことは風船変態おじさんおじさんって戦隊ヒーローなの!?おじさんの二人組にしか見えてこないけども」
「グリーンと赤色2号の二人」
「一人着色料で染められてるんですけど!体に悪いな!なんつうか自然に染めたげて!」
「あ」
「なんですか!?」
「ちょっと、ピザって10回言ってみ」
「………………ピザピザピザピザピザピザピザピザピザピザ」
「…で?」
「で?ってなんだよ!知らねえよ!お前が言ってみろっつったんだろ!普通、じゃあここは?、って話に繋がるだろその流れだと!」
「じゃあここは?」
「どこ指してんだよ!よく見えねえけど下ネタか!?それ逆セクハラだぞ!」
「あなたは何を勘違いなさっているのか」
「あ、ここに来て引っかかったのか俺?」
「正解はパンツ」
「あ、ああ、ああ」
「じゃなくてまんこ」
「じゃなくてってなんだよ!せっかく俺引っかかってたのに!台無しだよ!」
「そんで、残金は?」
「あ、ああ、金な。残り二万とちょっとだな」
「お、なかなか持ってるじゃない」
「使い切ると公共料金どころか生活費も払えなくなるけどな」
「じゃあ、そういうことで」
「どういうことだよ!」
「いいじゃない別に使い切ったってさ。構わないよ私は」
「そりゃそうだろうな!」
「あんたもそのつもりなんじゃないの?どうせ自棄になって暴走したいんでしょ。すぐに死ぬからなんてさ」
彼女は今どんな顔をしているのだろう?カズタカは店を出てからずっとミシモの、自分と比べれば遥かに小さい背中を見ている。足早に歩くミシモはさっきからその顔を見せない。顔を見せたくないからわざと足早に歩いて前を行くのだろうか?そう思ってカズタカはひどくセンチメンタルな気持ちになった。
「…急に真面目か。いや、まあ、そんなとこも無きにしも非ず。いや、違う。今日は違うんだ俺は。違うんだ」
「なに?」
まさしく、自棄を起こしている。いや、自棄を起こしたい。カズタカは身も心も一度ボロボロになりたかった。精神に嵐を求めていた。わけのわからぬこの状況、精神状態を号泣の嵐で一度ぶっ壊して、その先に何かを見つけたかった。おそらくは、希望。
「今日は、俺は、俺はさ、俺は本音を吐露したいんだよ。白状したいんだ。その為に呼び出したんだ」
「声震わせて喋るな、気持ち悪い」
非常にすっきりとした声で、ミシモは言った。
「…すまん」顔を上げ、後頭部越しにミシモと同じ空を見る。
本音。それを常にひた隠しにして生きてきた。本音を言えばそれだけ無意味な闘争に巻き込まれると、誤解を生んで誰かを傷つけると、底の抜けた中味の無い缶カラであるカズタカは本音もどこ吹く風の如く素通りさせてやり過ごしてきた。成長するにつれいつしか本音の風も吹かなくなり、いつも曖昧に、微妙に生きてきた。本当の自分をさらけ出したくなかった。
そんな男が漫画家を目指しているなんて変な話だが、作品に鬱屈している本音を仮託させたかったのだろう。しかし、どんな漫画を描いても、仮託させるべき本音の風は渺々たる大海原の遥か彼方へ行ってしまって、ついぞ吹くことはなかった。表現したいもの無き表現者など善良で私利私欲の無い政治家のようなもので、糞の役にも立たない。しかし、それが今吹いている。幼き日に吹いた懐かしき風、母にわがままを言った時、キャッチボールで兄に泣かされた時、行きたくなかった外食先でふてくされて父に怒られた時、いつでも思うままに吹いていた風が今、心の中にびゅうと吹き荒れている。こんなの初めて。どうにかなっちゃいそう、であった。
「怖いんだよ、死にたくねえんだ」
アイドンワナダイ。強がりも排除した正真正銘、本音。カズタカの、いや、二人の精神は死刑執行を待つ日々を送る受刑者に似るといって過言ではない。しかしどうしたら罪無き罰を、悔い無き悔いを、受け入れ、改めることが出来るというのか。やりきれぬ。ただやりきれぬ。この気持ちを何にぶつけろというのか。どう昇華させろというのか。わからない。
「……」
何か応えることもなく、無言で歩き続けるミシモ。カズタカは無言で後をついていく。
突然、
「走れ」
小さく号令を発し、ミシモは走り出した。言われるがまま走り、後を追うカズタカ。五十メートル程直進したろうか、ミシモは交差点の角を曲がると、壁際に立ち止まった。唇に伸ばした人差し指を当てている。
静かに。
カズタカは荒れる呼吸に苦しみながらもジェスチャーの意味する通り、出来うる限り静かにした。そのミシモの顔はいたずら好きの妖精みたくにやついていた。
少しして、ミシモは来た道に戻り出る。
金魚の糞のようにふわふわと後を追ったカズタカの目の前を、向こうの生け垣辺りを一心に見つめる作業着姿の男が通り過ぎた。一瞬の出来事であったが、確かに見たことある顔。
その向こうで、ミシモは腹を抱えて笑っていた。
「あー、この歳になってやる鬼ごっこはもはや痛快ね」
「あいつ、あれだろ。ウデムシの時の」
「そう、ファミレスに居た奴、あいつなかなか可愛い奴でさ。気づかれてることに気づいているのかいないのか、最近律儀に朝から晩まで私んちの前に居るのよ」
「毎日?」
「そう、ホノカから鞍替え」
「ああ、ストーカーな。しっかし、どこかの記者には見えないおっさんだがなぁ。第一、記者ならさ、何か訊きたいことあるなら直接俺達に訊けばいいじゃないか。何度かあったろお前も、なんつうの、突撃されたっつうの?」
「さあね、どうでもいいじゃないそんなこと。あいつが何者かもどうでもいいわ。警戒心の強い野良猫にエサやってる感じ。今のだって尾行を警戒したわけじゃなくて、あいつの驚いた顔が見たかっただけ私は。そして傑作だったなぁ。人間焦ると歩くリズム変わるのね。タタンってなってさタタンって。なはは」
「しっかしよぉ、そういうことは初めに言っといてくれよ」
先程までカズタカに宿っていた沈鬱な雰囲気は吹き飛んでしまった。
「大丈夫、もしか乱闘騒ぎになっても、お前は初めから戦力に数えてないから」
「なるほど。男として多少腹立たしくもあるが、正しい計算だ」
ミシモは再びカズタカの前を歩き始めた。
「そして、もしかお前が凶刃に倒れても」
「私は構わない、か」
「誰も構わない、よ」
「それは、ひでえな」
「あー、そうか」
「なんだよ?」
「さっきからなんかめんどくさいなぁって思ってたら、そうか、あんたと喋っているからか」
「おい、気を抜けば今にも泣き崩れてしまいそうな今の俺に言うセリフか」
カズタカは笑った。
「めんどくさいからさ。お前はさっきみたく塞ぎ込んでてくれる?ほれ、泣け泣け。泣き崩れてもアスファルトだけはあんたを支えてくれるよきっと」
「きっとって、そこに憶測の入る余地無いだろ。アスファルトに。しかも置いていく気満々だな。いや、財布だけは抜き取っていく勢いだ」
「……」
「何か言え!……」
「……」
しばらく無言で歩き続けた二人。本来なら立場は逆じゃなけりゃ、カズタカはそう思うと同時に、どうしてミシモはこうも強くあり続けることが出来るのだろうと思った。本当はお前も弱いところがあるのだろう?当たり前の安っぽいセリフが浮かんだが、人間として、もはや最低限ではあるが男として、口には出さなかった。言ったとしても、「だから何?」とミシモは自然に言いそうだし、そして猛烈に怒られそうだし、そう言われたら二の句が告げない。「俺の腕の中」で泣きたいのはカズタカである。
「着いた」
立ち止まったミシモは指を差した。そのぴんとした指の指し示す先とは、
「尾形、お前、お前は…どこまでもか!」
「どこまでもよ」
ミシモは大型電器店で、暇なのよね、と、ゲームソフトを何本かと、こんな機会でも無けりゃ買わないとばかりに、高めのドライヤーを買って、お疲れ、と言ってさっさと帰っていった。もちろん、カズタカ払い、ポイントカードはミシモ持ち。
懐はざんないことになったが、カズタカは元気になった気がした。生きる指針というものを得た気がした。どこまでもか?どこまでもよ。それだけのやりとりでカズタカはミシモに救われたのである。
続
「どこ行く?俺はろくな人生を過ごしてねえからこんな時に行くぴったりの場所なんて知らない。選択肢が俺んちしかねえ」
「死んでも嫌だ」
「そうだろうな」
「あそこに行くぞ」
「…ってどこだよ。歩くの早いなお前」
「君が社会のリズムから取り残されてるだけ」
「痛いです非常に痛いです心が」
「落ち着け。心を痛めて死んだ奴はたくさんいる」
「いるから駄目なんだろ!」
「ところでいくら金持ってるの?ちょっとジャンプしてみ」
「かつあげかよ。いやそこはすっかり慣れちまってるが、この歳になって小銭を対象としたかつあげされるのかよ」
「いいからジャンプして何か風船的なものを捕まえてそのまま空へと上がって上がって上がって上がって行き…」
「行き、なんだよ。カラスにでも」
「つつかれずに?」
「え?カラスにつつかれずに?じゃあ、東京タワーのてっぺんに」
「刺さることもなく?」
「ヘリコプターのプロペラで」
「切り刻まれることもなく?」
「クレージーで評判の飛行機野郎が捨てた火のついた葉巻が」
「煙を出しながら隣を通過して?」
「月光に導かれて飛んで行く蛾の群れに」
「突っ込むこともなく?」
「ハイジャックされたジャンボジェットの」
「乗客に手を振り?」
「降り注ぐスペースデブリの矢を」
「きれいなもんだなと眺めて?」
「衛星軌道上に漂うライカ犬の魂がって俺どこまで空の旅を続けてんだよ!早く撃墜してくれ。風船おじさんか俺は」
「ああ、そうですね、あなた変態おじさんですものね」
「変態はいいとしておじさん踏襲しちゃったよ。せめてお兄さんにしてくれ。若いぜ、俺。ここだけの話なんと、お前と同い年だ」
「なるほど、合わせると風船変態おじさんおじさんですね」
「なんで合わせた!?おじさんおじさんってなんだよ。お兄さん抜けてるし」
「グリーン担当だものね」
「は!?色分けされるってことは風船変態おじさんおじさんって戦隊ヒーローなの!?おじさんの二人組にしか見えてこないけども」
「グリーンと赤色2号の二人」
「一人着色料で染められてるんですけど!体に悪いな!なんつうか自然に染めたげて!」
「あ」
「なんですか!?」
「ちょっと、ピザって10回言ってみ」
「………………ピザピザピザピザピザピザピザピザピザピザ」
「…で?」
「で?ってなんだよ!知らねえよ!お前が言ってみろっつったんだろ!普通、じゃあここは?、って話に繋がるだろその流れだと!」
「じゃあここは?」
「どこ指してんだよ!よく見えねえけど下ネタか!?それ逆セクハラだぞ!」
「あなたは何を勘違いなさっているのか」
「あ、ここに来て引っかかったのか俺?」
「正解はパンツ」
「あ、ああ、ああ」
「じゃなくてまんこ」
「じゃなくてってなんだよ!せっかく俺引っかかってたのに!台無しだよ!」
「そんで、残金は?」
「あ、ああ、金な。残り二万とちょっとだな」
「お、なかなか持ってるじゃない」
「使い切ると公共料金どころか生活費も払えなくなるけどな」
「じゃあ、そういうことで」
「どういうことだよ!」
「いいじゃない別に使い切ったってさ。構わないよ私は」
「そりゃそうだろうな!」
「あんたもそのつもりなんじゃないの?どうせ自棄になって暴走したいんでしょ。すぐに死ぬからなんてさ」
彼女は今どんな顔をしているのだろう?カズタカは店を出てからずっとミシモの、自分と比べれば遥かに小さい背中を見ている。足早に歩くミシモはさっきからその顔を見せない。顔を見せたくないからわざと足早に歩いて前を行くのだろうか?そう思ってカズタカはひどくセンチメンタルな気持ちになった。
「…急に真面目か。いや、まあ、そんなとこも無きにしも非ず。いや、違う。今日は違うんだ俺は。違うんだ」
「なに?」
まさしく、自棄を起こしている。いや、自棄を起こしたい。カズタカは身も心も一度ボロボロになりたかった。精神に嵐を求めていた。わけのわからぬこの状況、精神状態を号泣の嵐で一度ぶっ壊して、その先に何かを見つけたかった。おそらくは、希望。
「今日は、俺は、俺はさ、俺は本音を吐露したいんだよ。白状したいんだ。その為に呼び出したんだ」
「声震わせて喋るな、気持ち悪い」
非常にすっきりとした声で、ミシモは言った。
「…すまん」顔を上げ、後頭部越しにミシモと同じ空を見る。
本音。それを常にひた隠しにして生きてきた。本音を言えばそれだけ無意味な闘争に巻き込まれると、誤解を生んで誰かを傷つけると、底の抜けた中味の無い缶カラであるカズタカは本音もどこ吹く風の如く素通りさせてやり過ごしてきた。成長するにつれいつしか本音の風も吹かなくなり、いつも曖昧に、微妙に生きてきた。本当の自分をさらけ出したくなかった。
そんな男が漫画家を目指しているなんて変な話だが、作品に鬱屈している本音を仮託させたかったのだろう。しかし、どんな漫画を描いても、仮託させるべき本音の風は渺々たる大海原の遥か彼方へ行ってしまって、ついぞ吹くことはなかった。表現したいもの無き表現者など善良で私利私欲の無い政治家のようなもので、糞の役にも立たない。しかし、それが今吹いている。幼き日に吹いた懐かしき風、母にわがままを言った時、キャッチボールで兄に泣かされた時、行きたくなかった外食先でふてくされて父に怒られた時、いつでも思うままに吹いていた風が今、心の中にびゅうと吹き荒れている。こんなの初めて。どうにかなっちゃいそう、であった。
「怖いんだよ、死にたくねえんだ」
アイドンワナダイ。強がりも排除した正真正銘、本音。カズタカの、いや、二人の精神は死刑執行を待つ日々を送る受刑者に似るといって過言ではない。しかしどうしたら罪無き罰を、悔い無き悔いを、受け入れ、改めることが出来るというのか。やりきれぬ。ただやりきれぬ。この気持ちを何にぶつけろというのか。どう昇華させろというのか。わからない。
「……」
何か応えることもなく、無言で歩き続けるミシモ。カズタカは無言で後をついていく。
突然、
「走れ」
小さく号令を発し、ミシモは走り出した。言われるがまま走り、後を追うカズタカ。五十メートル程直進したろうか、ミシモは交差点の角を曲がると、壁際に立ち止まった。唇に伸ばした人差し指を当てている。
静かに。
カズタカは荒れる呼吸に苦しみながらもジェスチャーの意味する通り、出来うる限り静かにした。そのミシモの顔はいたずら好きの妖精みたくにやついていた。
少しして、ミシモは来た道に戻り出る。
金魚の糞のようにふわふわと後を追ったカズタカの目の前を、向こうの生け垣辺りを一心に見つめる作業着姿の男が通り過ぎた。一瞬の出来事であったが、確かに見たことある顔。
その向こうで、ミシモは腹を抱えて笑っていた。
「あー、この歳になってやる鬼ごっこはもはや痛快ね」
「あいつ、あれだろ。ウデムシの時の」
「そう、ファミレスに居た奴、あいつなかなか可愛い奴でさ。気づかれてることに気づいているのかいないのか、最近律儀に朝から晩まで私んちの前に居るのよ」
「毎日?」
「そう、ホノカから鞍替え」
「ああ、ストーカーな。しっかし、どこかの記者には見えないおっさんだがなぁ。第一、記者ならさ、何か訊きたいことあるなら直接俺達に訊けばいいじゃないか。何度かあったろお前も、なんつうの、突撃されたっつうの?」
「さあね、どうでもいいじゃないそんなこと。あいつが何者かもどうでもいいわ。警戒心の強い野良猫にエサやってる感じ。今のだって尾行を警戒したわけじゃなくて、あいつの驚いた顔が見たかっただけ私は。そして傑作だったなぁ。人間焦ると歩くリズム変わるのね。タタンってなってさタタンって。なはは」
「しっかしよぉ、そういうことは初めに言っといてくれよ」
先程までカズタカに宿っていた沈鬱な雰囲気は吹き飛んでしまった。
「大丈夫、もしか乱闘騒ぎになっても、お前は初めから戦力に数えてないから」
「なるほど。男として多少腹立たしくもあるが、正しい計算だ」
ミシモは再びカズタカの前を歩き始めた。
「そして、もしかお前が凶刃に倒れても」
「私は構わない、か」
「誰も構わない、よ」
「それは、ひでえな」
「あー、そうか」
「なんだよ?」
「さっきからなんかめんどくさいなぁって思ってたら、そうか、あんたと喋っているからか」
「おい、気を抜けば今にも泣き崩れてしまいそうな今の俺に言うセリフか」
カズタカは笑った。
「めんどくさいからさ。お前はさっきみたく塞ぎ込んでてくれる?ほれ、泣け泣け。泣き崩れてもアスファルトだけはあんたを支えてくれるよきっと」
「きっとって、そこに憶測の入る余地無いだろ。アスファルトに。しかも置いていく気満々だな。いや、財布だけは抜き取っていく勢いだ」
「……」
「何か言え!……」
「……」
しばらく無言で歩き続けた二人。本来なら立場は逆じゃなけりゃ、カズタカはそう思うと同時に、どうしてミシモはこうも強くあり続けることが出来るのだろうと思った。本当はお前も弱いところがあるのだろう?当たり前の安っぽいセリフが浮かんだが、人間として、もはや最低限ではあるが男として、口には出さなかった。言ったとしても、「だから何?」とミシモは自然に言いそうだし、そして猛烈に怒られそうだし、そう言われたら二の句が告げない。「俺の腕の中」で泣きたいのはカズタカである。
「着いた」
立ち止まったミシモは指を差した。そのぴんとした指の指し示す先とは、
「尾形、お前、お前は…どこまでもか!」
「どこまでもよ」
ミシモは大型電器店で、暇なのよね、と、ゲームソフトを何本かと、こんな機会でも無けりゃ買わないとばかりに、高めのドライヤーを買って、お疲れ、と言ってさっさと帰っていった。もちろん、カズタカ払い、ポイントカードはミシモ持ち。
懐はざんないことになったが、カズタカは元気になった気がした。生きる指針というものを得た気がした。どこまでもか?どこまでもよ。それだけのやりとりでカズタカはミシモに救われたのである。
続
アラクネ(25)~再投稿~
四つん這いのまま許しを、救いを求むる女に男は、
「無駄だよ。そんなの」
と、鼻で嘲った。
「夢、これは夢、夢よ、夢だわ」
うずくまること時永く、アヤはそれに思い至った。
「そう、これは夢さ、儚いまほろば、一夜の夢さ」
アヤが顔を上げると、男の頭がぐにゅりぐにゅりとハンマーヘッド・シャークのように扁平になった。その様は妙に輝いて見えた。
「お前はただ認めよ。そしてアラクネ様の脚になるのだ。これは光栄なことなのだぞ」
「アラクネ様?」
男の言葉がすんなりと頭に入ってくる。もはや男の言葉を疑うこともかなわず、アヤは幼子のように扁平頭をただ見つめている。まるで蜘蛛の糸に絡めとられ身動き一つとれぬ蜆蝶のよう、仕留めの毒牙を待つばかり。
男は佐藤ヒロフミ、菱山カナコ、土師マユミらの死の顛末を語った。アヤは使い方のわからぬ古道具を渡された子供のように不思議そうな顔をして聞いていた。逃れる術はなかった。
「蜘蛛の女王が四つ脚、己タケハル、あいつはいい奴さ。その想いにアラクネ様も大層その御心に波を打たれなさったものさ」
「タケハル、あいつは何を認めたの?」
「シンプルさ。至ってシンプル、男の心など単純なのさ。己タケハル、初恋の君を助ける為なら命を捨てる覚悟がある、と奴はそれを認めたのさ」
「初恋の君?」
「己タケハル、あいつはいい奴だ。君は人の為に死ねるか?、即答だったさ。リインカネーションがあるというならあいつの前世はきっとポリスマンかガードマン。そして与えられた。与えられた。アラクネ様はいたく感動し、その麗しい御髪で一本の縄をお紡ぎになられた。あいつが望んだものはそう、初恋の君、鈴木ホノカを蜘蛛の糸から解き放つこと、そしてその願いは遂げられたのさ」
鈴木ホノカという音を聞いて、アヤに混濁した意識が流れ込んだ。
「ホノカ?ちょっと待ってよ!ホノカも死んだじゃん!腹を手で、自分の手で引き裂いて死んだ!私の目の前で!それは呪いだからでしょ!」
瞳を閉じればまぶたにありありと浮かぶ旧友の狂態。数時間前、アヤはみんなを救いたい一心から皆を説き伏せることを諦めず、まずはとっつき易いホノカを入信させようとした。そして遊歩道がある川沿いの親水公園に呼び出したのだった。夕陽が射す寂しい川の彩り。辺りに人影もなく、アヤは浮かんでは消えるミドリガメに石を投げつけたりしながら精一杯のフレンドリーさを惜しげもなく披露し、和やかに話をしていた。そして突然、何の前触れもなく、ホノカは腹を裂き始めたのであった。音も無く服を破る尖った指。ぷつりと皮が裂け、雪崩式に飛び出るはらわた。ぼとりと落ちゆく繋がるホルモン。おもらしみたくズボンを伝い滴る血汁。その狂態が不思議に醸し出すエロ、沸き立つリビドー。しかし、思い出しただけで死ねる光景。そして、
「願いは遂げられたのさ。お前の手によって」
「私の手!?そんな、違う違う違う違う違う違う違う違うちが私じゃない!私は殺してない!私がホノカを殺すわけないじゃない!ないじゃない!断じて!私」
「止めようとしただけなのに、だろう?」
ホノカを止めよう、動きまわる腕を止めなくちゃ、アヤはベラブル様の縫い込まれたお守りを握りしめ、胴タックルをするようにホノカの両腕の間に割って入った。ささやかな衝撃が顔や肩や手からホノカの肉体に伝わった刹那、ホノカは浮いて、遊歩道の柵を越え用水路にぼちゃんと落ち、呼吸を終えたミドリガメみたく川の中へと消えていった。あとには尾を引くよう流れる赤い水が夕陽を水面に反射させる川をゆるやかにゆるやかに。それ程の、人を浮かす程の衝撃をアヤは感じなかった。どうして、どうして、とアヤは狂ったように泣き喚いた。アヤは気がつかなかったがどこかに人の目があったらしく、またそれは不完全な目らしく、数分後、殺人容疑の現行犯として血まみれのアヤは身柄を拘束されていた。女を引き裂いて川に落とした奴がいる、と、通報されていた。
「だって」
「そうじゃない、か。それは正しい。しかし、お前が殺したこともまた真なり」
「そんなのおかしいじゃない!おかしいよ!」
「己タケハルの望みは本来ならば叶えられぬものなのさ。アラクネ様の転生を止めることなどアラクネ様にも出来やしないのさ。転生を紡ぐ蜘蛛の糸は断ち切れないのさ。鈴木ホノカは死ぬ以外に道はなかったのさ。それがお前らの繋がりさ」
「そんな、タケハルが、タケハルは無駄死にじゃない!」
「己タケハルもそれは承知さ。それでも、それでもなお、一縷の望みをかけたか己タケハルはそれ以外を望むことはなかった。そういう奴なのさ。己タケハルが自殺をしようと崖から身を投じることがあったとしたら、おそらく華麗に月面宙返りでも決めながらだろう」
「そんな」
アヤは心臓が渇いていく感覚を覚え、視界を砂嵐が覆い、奪う。血の気が引くとは言いえて妙なる慣用句である。
「アラクネ様の紡いだ縄はあの時、鈴木ホノカの首にかけられていたのさ。おお、我らが慈母アラクネ様。美しきアラクネ様。絶大なる絶対神にさえ刃向かいしアラクネ様。その強さを、その優しさを、その愛を、お前は知るのだ。知って知って知って知って、脚となるのだ」
ふくらはぎにぎゅむと力を込め、アヤは立ち上がった。脚は驚く程かくかくとし、ふらついた。そして今度こそまさしく立ち眩み。すぐにへたりと座り込んだ。見開いている筈の目がなにも外界の情報を読み取らない。
「縄に力はないのさ。あるのは矢印、ベクトル。お前が鈴木ホノカに与えた衝撃全てを斜め後方に変えたのさ。引っ張られたのさ。だから鈴木ホノカは浮き上がり、川に落ちることが出来たのさ」
「なんでそんなことを、二重の苦しみを」
「そんなことはないのさ。痛みは快楽さ。ぐじゅぐじゅぐじゅ。マグロのお前は知らぬだろう、なぜセックスが気持ちよくないのか、お前は知らぬ。快楽とは与えられるものではない、男に与えられるものではない。自ずから導くものであるのだ。お前はそれを勘違いしていた。しかし、お前も直にわかるだろう。ぐじゅぐじゅになればわかる。そしてお前は知ることになるだろう。アラクネ様の優しき御心を、己タケハルの強き願いを」
「勘違い」
苦痛しか残らない盛り上がらぬ夜ばかり過ごしてきた女はそっとつぶやいた。
「快楽のうちに“溺れ死んだ”鈴木ホノカのその死に顔には、先の脚達の死に顔と違い、深く刻み込まれる蜘蛛の刻印は無いであろう。生前と相変わらぬ顔のまま、底無しの笑顔のまま、鈴木ホノカは死んだのさ。おお、アラクネ様。悲しき定めを抱えるアラクネ様。アラクネ様の精一杯の優しさを知れ知れ知れ知れぇ窺い知れぇそして認めろぉ」
「ホノカは…アラクネ様に何を認め、何を与えられの?」
アヤの心は浮き立っていた。その目は父親を恋う娘のようにきらきらと輝いている。アラクネ様と呼ばれる神の優しさが身にしみてわかった気がした。神はいた。ここに。ベラブル様?あんなのインチキ。
「鈴木ホノカはあらゆる物事を続けることが出来なかった。予定を消化することが苦痛でしかたなかった。周りの人々が仕事や学校や趣味を続けられることをいつも不思議に思っていたのさ。なんであたしはこうなんだろう?どうしてあたしはこうなんだろう?いつも思っては土曜日が来る日までの日数を指折り数えて絶望していた。次の土曜日は、次の休みの日は、その次の休みの日は、その次の次の次の次の次の次の次の次の、カレンダーをめくっては絶望していた。そんな娘さ。だから我慢出来ぬ娘である菱山カナコと馬が合ったのさ。義務教育という理念の刷り込みから解き放たれた鈴木ホノカは、学校を辞めてもいいことに気がつき、お前と違いそれはそれは楽しさに縁取られた学校生活であったが一年も経たぬうちに高校を辞めた。楽しかったのに、幸せだったのに、それでも続けることの苦痛はどうしようもなく鈴木ホノカにのしかかった。先の予定が決まっているというつまらなさが鈴木ホノカを追い詰めた。仕方無く始めたバイトも長続きすることは無く、かといって生き馬の目を射る社会をさまよい歩く為の何か飛び抜けた才能があるわけでもなく、自ら掴みとった空虚
なる日々を、開け放たれた予定の無い白紙の日々を、後悔だけで埋めつくしては、続けられる人々のことを羨ましがっては泣いて過ごしていた。ただ楽しくその日その日を、刹那を生きていたかった。そして、認めた。だから、認めた。どうやら人生も続けられそうにないことを。そして、与えられた。だから、与えられた。続けられなかったことで生まれた後悔の数々を無くして脚になるまでの日々をただ楽しく。それはとても重く純粋なものだった。パンドラの箱の中に最後に残ったものは自らを希望と名乗った。しかし、あらゆる邪悪の中にあって最後まで残った重いそれは一番純粋な邪悪ではないのかね?、未来に希望を持ち、人間は何をした?、人間は希望を持つことで邪なる欲望を正当化しただけだろう?、差別をするのだろう?、未来に希望があるから何でもするし続けられるのだろう?、鈴木ホノカは気がついていたのさ、希望の正体に」
「私は何を」
まるで神に祈りを捧げる修道女のように、アヤは手を組んだ。
「お前は認めよ。自身が愚かな女であることを。そして与えられるであろう、お前を虐めた男に地獄を」
扁平頭の男はそう言うと、にやりと笑った。
次の日、昨夜の夢の何もかもを覚えていないアヤは、
「綺麗、生きているみたい」
鈴木ホノカの死に顔を写真で見せられそうつぶやいた後、二人の刑事の制止をものともせず腹を裂いて死んだ。
アヤを虐めていた男はこの日から昨日までと変わらぬはっきりとした自意識を保ちながらにして単純作業も困難な程著しく知能が低下した。その日までと変わらぬはっきりとした自意識を保ちながらである。これほどの地獄があるだろうか。白い夢を見るならば、白い精神が必要なはずなのに。男は周囲からバカにされ続け、数年後に自殺した。
続
「無駄だよ。そんなの」
と、鼻で嘲った。
「夢、これは夢、夢よ、夢だわ」
うずくまること時永く、アヤはそれに思い至った。
「そう、これは夢さ、儚いまほろば、一夜の夢さ」
アヤが顔を上げると、男の頭がぐにゅりぐにゅりとハンマーヘッド・シャークのように扁平になった。その様は妙に輝いて見えた。
「お前はただ認めよ。そしてアラクネ様の脚になるのだ。これは光栄なことなのだぞ」
「アラクネ様?」
男の言葉がすんなりと頭に入ってくる。もはや男の言葉を疑うこともかなわず、アヤは幼子のように扁平頭をただ見つめている。まるで蜘蛛の糸に絡めとられ身動き一つとれぬ蜆蝶のよう、仕留めの毒牙を待つばかり。
男は佐藤ヒロフミ、菱山カナコ、土師マユミらの死の顛末を語った。アヤは使い方のわからぬ古道具を渡された子供のように不思議そうな顔をして聞いていた。逃れる術はなかった。
「蜘蛛の女王が四つ脚、己タケハル、あいつはいい奴さ。その想いにアラクネ様も大層その御心に波を打たれなさったものさ」
「タケハル、あいつは何を認めたの?」
「シンプルさ。至ってシンプル、男の心など単純なのさ。己タケハル、初恋の君を助ける為なら命を捨てる覚悟がある、と奴はそれを認めたのさ」
「初恋の君?」
「己タケハル、あいつはいい奴だ。君は人の為に死ねるか?、即答だったさ。リインカネーションがあるというならあいつの前世はきっとポリスマンかガードマン。そして与えられた。与えられた。アラクネ様はいたく感動し、その麗しい御髪で一本の縄をお紡ぎになられた。あいつが望んだものはそう、初恋の君、鈴木ホノカを蜘蛛の糸から解き放つこと、そしてその願いは遂げられたのさ」
鈴木ホノカという音を聞いて、アヤに混濁した意識が流れ込んだ。
「ホノカ?ちょっと待ってよ!ホノカも死んだじゃん!腹を手で、自分の手で引き裂いて死んだ!私の目の前で!それは呪いだからでしょ!」
瞳を閉じればまぶたにありありと浮かぶ旧友の狂態。数時間前、アヤはみんなを救いたい一心から皆を説き伏せることを諦めず、まずはとっつき易いホノカを入信させようとした。そして遊歩道がある川沿いの親水公園に呼び出したのだった。夕陽が射す寂しい川の彩り。辺りに人影もなく、アヤは浮かんでは消えるミドリガメに石を投げつけたりしながら精一杯のフレンドリーさを惜しげもなく披露し、和やかに話をしていた。そして突然、何の前触れもなく、ホノカは腹を裂き始めたのであった。音も無く服を破る尖った指。ぷつりと皮が裂け、雪崩式に飛び出るはらわた。ぼとりと落ちゆく繋がるホルモン。おもらしみたくズボンを伝い滴る血汁。その狂態が不思議に醸し出すエロ、沸き立つリビドー。しかし、思い出しただけで死ねる光景。そして、
「願いは遂げられたのさ。お前の手によって」
「私の手!?そんな、違う違う違う違う違う違う違う違うちが私じゃない!私は殺してない!私がホノカを殺すわけないじゃない!ないじゃない!断じて!私」
「止めようとしただけなのに、だろう?」
ホノカを止めよう、動きまわる腕を止めなくちゃ、アヤはベラブル様の縫い込まれたお守りを握りしめ、胴タックルをするようにホノカの両腕の間に割って入った。ささやかな衝撃が顔や肩や手からホノカの肉体に伝わった刹那、ホノカは浮いて、遊歩道の柵を越え用水路にぼちゃんと落ち、呼吸を終えたミドリガメみたく川の中へと消えていった。あとには尾を引くよう流れる赤い水が夕陽を水面に反射させる川をゆるやかにゆるやかに。それ程の、人を浮かす程の衝撃をアヤは感じなかった。どうして、どうして、とアヤは狂ったように泣き喚いた。アヤは気がつかなかったがどこかに人の目があったらしく、またそれは不完全な目らしく、数分後、殺人容疑の現行犯として血まみれのアヤは身柄を拘束されていた。女を引き裂いて川に落とした奴がいる、と、通報されていた。
「だって」
「そうじゃない、か。それは正しい。しかし、お前が殺したこともまた真なり」
「そんなのおかしいじゃない!おかしいよ!」
「己タケハルの望みは本来ならば叶えられぬものなのさ。アラクネ様の転生を止めることなどアラクネ様にも出来やしないのさ。転生を紡ぐ蜘蛛の糸は断ち切れないのさ。鈴木ホノカは死ぬ以外に道はなかったのさ。それがお前らの繋がりさ」
「そんな、タケハルが、タケハルは無駄死にじゃない!」
「己タケハルもそれは承知さ。それでも、それでもなお、一縷の望みをかけたか己タケハルはそれ以外を望むことはなかった。そういう奴なのさ。己タケハルが自殺をしようと崖から身を投じることがあったとしたら、おそらく華麗に月面宙返りでも決めながらだろう」
「そんな」
アヤは心臓が渇いていく感覚を覚え、視界を砂嵐が覆い、奪う。血の気が引くとは言いえて妙なる慣用句である。
「アラクネ様の紡いだ縄はあの時、鈴木ホノカの首にかけられていたのさ。おお、我らが慈母アラクネ様。美しきアラクネ様。絶大なる絶対神にさえ刃向かいしアラクネ様。その強さを、その優しさを、その愛を、お前は知るのだ。知って知って知って知って、脚となるのだ」
ふくらはぎにぎゅむと力を込め、アヤは立ち上がった。脚は驚く程かくかくとし、ふらついた。そして今度こそまさしく立ち眩み。すぐにへたりと座り込んだ。見開いている筈の目がなにも外界の情報を読み取らない。
「縄に力はないのさ。あるのは矢印、ベクトル。お前が鈴木ホノカに与えた衝撃全てを斜め後方に変えたのさ。引っ張られたのさ。だから鈴木ホノカは浮き上がり、川に落ちることが出来たのさ」
「なんでそんなことを、二重の苦しみを」
「そんなことはないのさ。痛みは快楽さ。ぐじゅぐじゅぐじゅ。マグロのお前は知らぬだろう、なぜセックスが気持ちよくないのか、お前は知らぬ。快楽とは与えられるものではない、男に与えられるものではない。自ずから導くものであるのだ。お前はそれを勘違いしていた。しかし、お前も直にわかるだろう。ぐじゅぐじゅになればわかる。そしてお前は知ることになるだろう。アラクネ様の優しき御心を、己タケハルの強き願いを」
「勘違い」
苦痛しか残らない盛り上がらぬ夜ばかり過ごしてきた女はそっとつぶやいた。
「快楽のうちに“溺れ死んだ”鈴木ホノカのその死に顔には、先の脚達の死に顔と違い、深く刻み込まれる蜘蛛の刻印は無いであろう。生前と相変わらぬ顔のまま、底無しの笑顔のまま、鈴木ホノカは死んだのさ。おお、アラクネ様。悲しき定めを抱えるアラクネ様。アラクネ様の精一杯の優しさを知れ知れ知れ知れぇ窺い知れぇそして認めろぉ」
「ホノカは…アラクネ様に何を認め、何を与えられの?」
アヤの心は浮き立っていた。その目は父親を恋う娘のようにきらきらと輝いている。アラクネ様と呼ばれる神の優しさが身にしみてわかった気がした。神はいた。ここに。ベラブル様?あんなのインチキ。
「鈴木ホノカはあらゆる物事を続けることが出来なかった。予定を消化することが苦痛でしかたなかった。周りの人々が仕事や学校や趣味を続けられることをいつも不思議に思っていたのさ。なんであたしはこうなんだろう?どうしてあたしはこうなんだろう?いつも思っては土曜日が来る日までの日数を指折り数えて絶望していた。次の土曜日は、次の休みの日は、その次の休みの日は、その次の次の次の次の次の次の次の次の、カレンダーをめくっては絶望していた。そんな娘さ。だから我慢出来ぬ娘である菱山カナコと馬が合ったのさ。義務教育という理念の刷り込みから解き放たれた鈴木ホノカは、学校を辞めてもいいことに気がつき、お前と違いそれはそれは楽しさに縁取られた学校生活であったが一年も経たぬうちに高校を辞めた。楽しかったのに、幸せだったのに、それでも続けることの苦痛はどうしようもなく鈴木ホノカにのしかかった。先の予定が決まっているというつまらなさが鈴木ホノカを追い詰めた。仕方無く始めたバイトも長続きすることは無く、かといって生き馬の目を射る社会をさまよい歩く為の何か飛び抜けた才能があるわけでもなく、自ら掴みとった空虚
なる日々を、開け放たれた予定の無い白紙の日々を、後悔だけで埋めつくしては、続けられる人々のことを羨ましがっては泣いて過ごしていた。ただ楽しくその日その日を、刹那を生きていたかった。そして、認めた。だから、認めた。どうやら人生も続けられそうにないことを。そして、与えられた。だから、与えられた。続けられなかったことで生まれた後悔の数々を無くして脚になるまでの日々をただ楽しく。それはとても重く純粋なものだった。パンドラの箱の中に最後に残ったものは自らを希望と名乗った。しかし、あらゆる邪悪の中にあって最後まで残った重いそれは一番純粋な邪悪ではないのかね?、未来に希望を持ち、人間は何をした?、人間は希望を持つことで邪なる欲望を正当化しただけだろう?、差別をするのだろう?、未来に希望があるから何でもするし続けられるのだろう?、鈴木ホノカは気がついていたのさ、希望の正体に」
「私は何を」
まるで神に祈りを捧げる修道女のように、アヤは手を組んだ。
「お前は認めよ。自身が愚かな女であることを。そして与えられるであろう、お前を虐めた男に地獄を」
扁平頭の男はそう言うと、にやりと笑った。
次の日、昨夜の夢の何もかもを覚えていないアヤは、
「綺麗、生きているみたい」
鈴木ホノカの死に顔を写真で見せられそうつぶやいた後、二人の刑事の制止をものともせず腹を裂いて死んだ。
アヤを虐めていた男はこの日から昨日までと変わらぬはっきりとした自意識を保ちながらにして単純作業も困難な程著しく知能が低下した。その日までと変わらぬはっきりとした自意識を保ちながらである。これほどの地獄があるだろうか。白い夢を見るならば、白い精神が必要なはずなのに。男は周囲からバカにされ続け、数年後に自殺した。
続
アラクネ(24)~再投稿~
「違う!私じゃない!そんなこともわからないのか出歯亀が!ピーピング野郎め!お前らは敵だ!ベラブル様の敵だ!針金虫めが!二度と私の前に顔を見せるな出歯亀!」
「亀だのトムだの敵だの虫だの亀だの、せわしないな」
「どっかいけええぇ!出ていけえぇ!」
「そういうわけにもいかん。ここは俺達の部屋といっても差し支えはない。出ていくなり行かないなりはあなた次第だ。ま、時間はたっぷりある。二十二日間もな。ゆっくりしていけ」
コンクリートの床を穿つジグモの巣が二本、三本。
「ま、明日から毎日毎日何時間も顔をつきあわすことになるんだ。時間を有意義に使うことを考えるんだ。はぁあ、こっちが疲れたよ」
渋みのある顔をどこか悲痛な表情にして、刑事はそう言い、野崎アヤの取り調べを切り上げた。昼にテレビで放送され録画している筈の映画「フライド・グリーン・トマト」を早く帰って観たかった。
相棒の若い刑事は、
「薬で捕まったわけじゃなし。かばう組織もあるじゃなし。早く吐いた方が楽だぞ」
と、言って、書類になにやら書き込んだ。
野崎アヤが留置されている部屋は独房である。容疑と精神状態を鑑みればそれは当然の処置であった。
やることというものがまるで無い簡素な部屋。ふて寝することも叶わずアヤは就寝時間までベラブル様に祈りを捧げた。
見廻りの看守は覗き窓から見るこの親不知を抜いた時のように頬の膨らんだ女を、こんな時にも目の輝きを失わぬか細い体躯の女を見て、「果たしてこの女が素手で人体を引き裂くことが出来るのか」と、一瞬思ってすぐに心を機械式に戻した。
「便水、ロングぅ」しんとした女性留置場に響く誰ともしれないハスキーボイス。
絶対に大便はしたくないとアヤはベラブル様にお願いしながら眠りについた。
「はいよ。ちょっくら失礼いたしますよ」
脳内ににじむような声と“耳元”に迫る足音を聴いてアヤはぱっちりと瞳を開けた。目の前に広がる世界、どこまでも広がる黒い闇、あるはずの天井をも突き抜けて。周りを見渡す。犯される、とべこ膨らみの女はまず思った。
予測に反して、周りに人影はなかった。見渡せばただただ黒い空間。気がつけば華奢な椅子に座っていた。自身の体やその椅子ははっきりとその色まで見てとれる。黒いのに暗くは無い。ただし、明かりは見当たらない。
「ただ認めよ。さすれば与えん」
「なに!?」
アヤの目の前に巨大なウデムシが現れた。その体に浮かぶ斑点がまがまがしい。
「ベラブル様!」
それはお守りに縫い込まれているベラブル様の姿だった。
「おー、おー、ウデムシウデムシ」
「ベラブル様!ああ、ああ」
まぶたの目頭側にみてとれるエロティシズム溢れる魅惑の小さな穴、そう、涙腺穴。そのエロティックな涙腺からゆるゆると涌き信者の瞳に溜まる液体、その名はそう、涙。
「違うね。おー、ウデムシ怖いウデムシ怖い」
「違う!?」
信者の瞳から鼻腔へと引いていき漏れ出す液体、その名はそう、鼻水である。
「こんなのもあったなぁ」
やけに澱む声で巨大ウデムシは言うと、その姿は巨大コオロギになった。コオロギというにかわいらしくなく、長い後肢は刺々しく、その姿見るからに凶悪。
「り、リオック」
眼球が飛び出るのではないかという程眼を見開いたアヤに、
「そうさ。バカ女にはお似合いの悪霊さ」
と、リオックと呼ばれた虫は言った。
アヤが入信したウデムシのベラブル様を本尊とする新興宗教「外骨格王研究会」は、ウデムシであるベラブル様と悪の根源である巨大コオロギリオック率いるコオロギやキリギリス達との戦いが、教典を彩るメインパートになっている。
「バカ女馬鹿女ばかバカ。死ね。お前は死ね。死ねよ死ね死ね。生きる価値なし。ははははは」
歪む声が轟く中、巨大コオロギはぐにょぐにょと、ドーナツがティーカップに変わるが如く、その姿を変えていく。
「これかなこれかなどれかなこれかな」
呆気に取られているアヤは信ずる道を弄ばれたことも忘れてその様子をただ見つめていた。
「これだなやっぱりこれだな。バカにはこれだ。バカにはこれさ」
ぐにょぐにょと蠢く塊はやがて見覚えのある、否、アヤに取って忘れることの出来ない姿形となって落ち着いた。
「お前はバカさお前はバカさ。認めろよ。土下座しろよ」
学生服を着た容姿端麗な男がそこにいた。
「お前えぇあぁぁ」
取り乱し、椅子から四つん這いに転げ落ちたアヤ。見紛うことなし、その男は高校時代にアヤをバカにし、コケにし続けた人物、すなわち、アヤを苛烈なまでに虐めていた張本人である。
「バカ女。また土下座しろよ。許しを請えよ。認めろよ。あたしはバカだと認めろよ」
その虐めは凄まじかった。アヤは肉体、精神、その両方に深くえぐい傷を負った。なまじ優等生だっただけに親の目を気にし不登校になることも出来ず、そしてなまじ秀才だった為に、学業の面に於いてさえこの男に勝てなかったことがどれほど重く、辛く、悔しく、情けなく、痛かったことか。アヤのレゾン・デートルを根こそぎなぎ倒したのがこの男なのである。
「まだ風船ほっぺは治ってねえみたいだなぁ。また割らせてくれよ。針でよぉ。土人の装飾みたいによぉ。また貫き通してやるよぉ。しぼませてやるよぉ。あの時みたくよぉバカ女ぁ。うざったい女ぁ。俺はお前みたいによぉ。いい子ぶってよぉ。自分がやっていることは常に正しい、この世の善事だ、って思ってるバカ女がよぉ大嫌いなんだよぉ。自分の知っていることを知らない奴を見下してせせら笑ってるくせして、親切によぉ、教えてあげようかだなんて先導者気取りでいい気になりやがってよぉ、ちゃんちゃらおかしいんだよお前如きバカ女がよお。肩腹どころか両肩腹が痛いんだよぉ。バカ女が大嫌いなんだよぉ。下手に出りゃ調子に乗ってちょっと噛みつかれたらヒスって逃げて、それで勝ったつもりで息巻いてよぉ。通俗なくせして何か人と違うだなんて思いあがりやがってよぉ。よお。土下座しろよあの時みたくよぉ。泣いて踊れよ裸になってよぉ」
四つん這いのまま、五体から力の失せたアヤはベラブル様にすがることしか出来なかった。今アヤに出来ることはそれしかなかった。その姿はあたかも男に土下座をしているようであった。
続
「亀だのトムだの敵だの虫だの亀だの、せわしないな」
「どっかいけええぇ!出ていけえぇ!」
「そういうわけにもいかん。ここは俺達の部屋といっても差し支えはない。出ていくなり行かないなりはあなた次第だ。ま、時間はたっぷりある。二十二日間もな。ゆっくりしていけ」
コンクリートの床を穿つジグモの巣が二本、三本。
「ま、明日から毎日毎日何時間も顔をつきあわすことになるんだ。時間を有意義に使うことを考えるんだ。はぁあ、こっちが疲れたよ」
渋みのある顔をどこか悲痛な表情にして、刑事はそう言い、野崎アヤの取り調べを切り上げた。昼にテレビで放送され録画している筈の映画「フライド・グリーン・トマト」を早く帰って観たかった。
相棒の若い刑事は、
「薬で捕まったわけじゃなし。かばう組織もあるじゃなし。早く吐いた方が楽だぞ」
と、言って、書類になにやら書き込んだ。
野崎アヤが留置されている部屋は独房である。容疑と精神状態を鑑みればそれは当然の処置であった。
やることというものがまるで無い簡素な部屋。ふて寝することも叶わずアヤは就寝時間までベラブル様に祈りを捧げた。
見廻りの看守は覗き窓から見るこの親不知を抜いた時のように頬の膨らんだ女を、こんな時にも目の輝きを失わぬか細い体躯の女を見て、「果たしてこの女が素手で人体を引き裂くことが出来るのか」と、一瞬思ってすぐに心を機械式に戻した。
「便水、ロングぅ」しんとした女性留置場に響く誰ともしれないハスキーボイス。
絶対に大便はしたくないとアヤはベラブル様にお願いしながら眠りについた。
「はいよ。ちょっくら失礼いたしますよ」
脳内ににじむような声と“耳元”に迫る足音を聴いてアヤはぱっちりと瞳を開けた。目の前に広がる世界、どこまでも広がる黒い闇、あるはずの天井をも突き抜けて。周りを見渡す。犯される、とべこ膨らみの女はまず思った。
予測に反して、周りに人影はなかった。見渡せばただただ黒い空間。気がつけば華奢な椅子に座っていた。自身の体やその椅子ははっきりとその色まで見てとれる。黒いのに暗くは無い。ただし、明かりは見当たらない。
「ただ認めよ。さすれば与えん」
「なに!?」
アヤの目の前に巨大なウデムシが現れた。その体に浮かぶ斑点がまがまがしい。
「ベラブル様!」
それはお守りに縫い込まれているベラブル様の姿だった。
「おー、おー、ウデムシウデムシ」
「ベラブル様!ああ、ああ」
まぶたの目頭側にみてとれるエロティシズム溢れる魅惑の小さな穴、そう、涙腺穴。そのエロティックな涙腺からゆるゆると涌き信者の瞳に溜まる液体、その名はそう、涙。
「違うね。おー、ウデムシ怖いウデムシ怖い」
「違う!?」
信者の瞳から鼻腔へと引いていき漏れ出す液体、その名はそう、鼻水である。
「こんなのもあったなぁ」
やけに澱む声で巨大ウデムシは言うと、その姿は巨大コオロギになった。コオロギというにかわいらしくなく、長い後肢は刺々しく、その姿見るからに凶悪。
「り、リオック」
眼球が飛び出るのではないかという程眼を見開いたアヤに、
「そうさ。バカ女にはお似合いの悪霊さ」
と、リオックと呼ばれた虫は言った。
アヤが入信したウデムシのベラブル様を本尊とする新興宗教「外骨格王研究会」は、ウデムシであるベラブル様と悪の根源である巨大コオロギリオック率いるコオロギやキリギリス達との戦いが、教典を彩るメインパートになっている。
「バカ女馬鹿女ばかバカ。死ね。お前は死ね。死ねよ死ね死ね。生きる価値なし。ははははは」
歪む声が轟く中、巨大コオロギはぐにょぐにょと、ドーナツがティーカップに変わるが如く、その姿を変えていく。
「これかなこれかなどれかなこれかな」
呆気に取られているアヤは信ずる道を弄ばれたことも忘れてその様子をただ見つめていた。
「これだなやっぱりこれだな。バカにはこれだ。バカにはこれさ」
ぐにょぐにょと蠢く塊はやがて見覚えのある、否、アヤに取って忘れることの出来ない姿形となって落ち着いた。
「お前はバカさお前はバカさ。認めろよ。土下座しろよ」
学生服を着た容姿端麗な男がそこにいた。
「お前えぇあぁぁ」
取り乱し、椅子から四つん這いに転げ落ちたアヤ。見紛うことなし、その男は高校時代にアヤをバカにし、コケにし続けた人物、すなわち、アヤを苛烈なまでに虐めていた張本人である。
「バカ女。また土下座しろよ。許しを請えよ。認めろよ。あたしはバカだと認めろよ」
その虐めは凄まじかった。アヤは肉体、精神、その両方に深くえぐい傷を負った。なまじ優等生だっただけに親の目を気にし不登校になることも出来ず、そしてなまじ秀才だった為に、学業の面に於いてさえこの男に勝てなかったことがどれほど重く、辛く、悔しく、情けなく、痛かったことか。アヤのレゾン・デートルを根こそぎなぎ倒したのがこの男なのである。
「まだ風船ほっぺは治ってねえみたいだなぁ。また割らせてくれよ。針でよぉ。土人の装飾みたいによぉ。また貫き通してやるよぉ。しぼませてやるよぉ。あの時みたくよぉバカ女ぁ。うざったい女ぁ。俺はお前みたいによぉ。いい子ぶってよぉ。自分がやっていることは常に正しい、この世の善事だ、って思ってるバカ女がよぉ大嫌いなんだよぉ。自分の知っていることを知らない奴を見下してせせら笑ってるくせして、親切によぉ、教えてあげようかだなんて先導者気取りでいい気になりやがってよぉ、ちゃんちゃらおかしいんだよお前如きバカ女がよお。肩腹どころか両肩腹が痛いんだよぉ。バカ女が大嫌いなんだよぉ。下手に出りゃ調子に乗ってちょっと噛みつかれたらヒスって逃げて、それで勝ったつもりで息巻いてよぉ。通俗なくせして何か人と違うだなんて思いあがりやがってよぉ。よお。土下座しろよあの時みたくよぉ。泣いて踊れよ裸になってよぉ」
四つん這いのまま、五体から力の失せたアヤはベラブル様にすがることしか出来なかった。今アヤに出来ることはそれしかなかった。その姿はあたかも男に土下座をしているようであった。
続