からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -51ページ目

アラクネ(33)~再投稿~

ぽかんとして椅子に座っているミシモ。高橋の言っている言葉の意味はわかる。しかし、理解しろというのは酷である。

高橋はミシモの後ろに回った。

「こう言っちゃなんだが、野崎さんの次が武者君で本当に良かった。テストが出来たからな」

高橋はミシモのファンシー手錠に目を付け、跪いてそれを観察し始めた。

「外部アクセス不可能な完全に独立した場所だったらアウトだった。でもそうじゃなかった。この世界も不可知な力がその根元にあるのかもな。ま、助かったよ」

高橋は手錠を探った。ミシモは、こいつに触れられるのは嫌だな、と思った。

「賭けだったよ。次に死ぬのが武者君だと決めるのはね。多分に希望的観測に基づく危うい賭けだった」

何かを見つけたらしい高橋は立ち上がると、ぽんとミシモの両肩に両手をついた。生理的に自分の肉体が拒否反応を示すその手を振り払うには、ミシモの肩は硬過ぎる。

「武者君の夢に入り込めた俺は全てを聞いた。壁に耳ありってやつだな」

高橋はすたすたともと居た位置、すなわち、ミシモと扁平頭の男の間に立ち、両者をその視線に入れた。

「アラクネ様ねぇ。調べたが衣替えをするなんてどこにも書いてなかったぜ?」

「貴様がアラクネ様の何を知っているというのだ!アラクネ様の悲しみを!怒りを!嘆きを!愛を!貴様は」

「おっと、お前は俺の許可無しに喋らないでくれるかな。歯痒いのかい?お前が俺に触れることも出来ないことが。わかってるんだぜ?俺と違ってデータでしかないお前に、こういうのも変だが、物理的に俺をどうこうする力など無いことは」

ぴしゃりと言われぐむむと口を紡いだ扁平頭だったが、すぐにまた喚き始めた。言っても聞かないとわかった高橋はそれを無視することにした。

「どうしてあなたはここに入ってこれたの?」

扁平頭無視ゲームに参加しない尾形ミシモなど尾形ミシモではない。

「それだ、君の前ではあまり言いたくなかったのだが、どうせ君は忘れるだろうから言ってしまうか」

ガミガミとなにやらうるさく喚く扁平頭をよそに、少しうつむいた高橋は引き続きミシモと会話をする。

「夢とは繋がっている世界だと言ったよね?」

「ええ、思考やら出来事やらでなんちゃらかんちゃら」

「そう、要するに生活次第で行き着く場所が違う。すなわち」

「同じ生活を営むと」

二人の会話の後ろで引き続き扁平頭がなにやら喚いている。だが、二人は意に介さない。

「その通り。そしてその通りだったよ。大変だったけどね。生活をシンクロさせるのは。同じ時間に起き、同じ時間に同じ飯を食い、咀嚼の回数だって合わせた。同じだけ絵を描き、同じ本を読み、同じだけ歩き、同じ所へ行き、同じだけ同じだけ。息づかいまで同じだったろう。もちろん武者君の過去も知れるだけ知った上で。彼の漫画や彼の育った環境、日記も盗み見たし」

「ちょっと待ってよ。どうしてそんな、同じ時間にって、まさか」

「いやぁ、すまないね。盗聴とか、色々させてもらっていたよ。当然、君も」

「うわっ、最悪」

「だからあまり話したくなかったんだ。俺も必死だったということでひとつ」

「ま、いいわ、もう」

「出来うる限り同じにした。君の場合、同じだけゲームを進めたし、同じ音楽を聴いたし、同じテレビや映画を見たし、同じ運動をした筈。昨日はケーキだって同じものを食った。君の場合家にずっと居たからその点楽だったかな。ま、実際同じっていっても限度ってもんがあるが、君に一杯食わされた時なんか焦ったしね、なんというか分類上はそっくりな生活をしていた筈」

「ううん、やっぱり気持ち悪い」

「気持ち悪い、か。そうだろうなぁ。しかし君がその、なんというか、男には絶対に出来ない秘め事というか」

「え、それって、まさか、自分で!?危ねぇ」

「あ、いや、生理の時は困ったということなんだけど」

「はあ!?じゃあそうはっきり言え!なんだよ!」

「ま、それをしないでくれたのは助かったけどね。いや、武者君の時は助かったと言うべきか」

「うるせえ」

「ごめんごめん。ま、それで俺はここに来ることが出来た。といっても普段は出来ない。君達と同じ夢を見ることは出来なかった。どうやらあいつらが夢の世界をいじる時にこの世界の秩序と言うべきものに隙間が出来るらしい。詳しくはわからんが。とにもかくにもだ、武者君の時にこの世界のコツを掴めたことは大きかった。俺もある程度あいつらと同じようにこの世界を泳ぐことが出来るようになったからね」

「ところで、忘れるってどういうこと?」

「君も気づいているだろう。異常があればすぐに連絡を回したはずだと。誰もあいつらを覚えちゃいない。そう、皆、この夢のことなんて忘れてしまった。というのも夢というものは途中で起きないと記憶に残らないものなんだ。そしてこの夢を見た君達は朝まで目覚めることはない。だから君も、朝が来れば今起こっているこのことは、きれいさっぱり忘れてしまうのさ」

「あー、じゃあ今盗聴器の位置を教えてもらっても、教えてもらってもってのはおかしいな、白状させても意味ないってこと?うわあ。でもなんであんたは記憶があるのよ」

「ふむ。前回俺は途中で目覚めることが出来た。えいやとばかりにね。気合いだよね結局。ははは。ま、おそらく、なんというか、管轄外、だったのだろう。今回ここまで入り込んだ俺がどのように目を覚ますかはわからない。しかし、どのみち今日で最後だ。盗聴のことは悪いと思うが、君を助ける為だったんだ」

「助けるだと?」

その扁平頭の言葉が二人の耳に届いた。それはあげつづけた喚き声ではなく、一段も二段も落ち着いた、嘲りの声だったからである。

「ああ、そうさ。俺は彼女を助ける為にここにいる」

高橋は嘲りに対し毅然と返す。

「アラクネ様の脱皮は止められぬ、それは貴様も知っていることだろう?」

「もちろん知ってるさ。よく聞いてなかったのかな?俺は、助ける、と言ったんだ。止める、とは言っていない」

「ふふん、同じことだろう?」

「いや、違うね」

そう言うと高橋はグーにしていた左拳を開いた。

「それは、馬鹿な!?」

「馬鹿な?ふーん。これがそんなに珍しいか?」

高橋は左手にあるそれを右手で、本に挟んだしおりを抜くようにつまみ上げた。

「繋がり、彼女達八人には繋がりがあるとお前は言う。それは友情であり、初恋であり、ノスタルジーであり、しかし、お前の言う繋がりとは八人の環のことではない。そもそも彼女達八人は環ではなかったからな。お前の言う繋がりとは、突き詰まるところ彼女達とアラクネ様との繋がり」

「…ジグモ」

高橋の手にあるそれを見たミシモが小さく呟いた。

高橋は試験管のようなジグモの巣を逆さにして振った。手のひらにぽとりと小さな蜘蛛が落ちた。逃げぬよう、また優しく指をグーにする。

「俺にだって八人の環に入る資格ぐらいあってもいいと思うんだけどなぁ。土師マユミを想う気持ちなら、誰にも負けていない」

「それは、アラクネ様の、決める、ことだ」

扁平頭の男が力無く言った。

「だろうな。ところで、蜘蛛の女王であらせられるアラクネ様にとって、今俺の手の中でじっとしている、この発端とでも言うべきこいつは…」

「子だ。貴様何をする気だ、やめろ!」

「やめない」

なりふり構わず飛びかかってきた男。しかし如何せん動作が鈍い。高橋は闘牛師のようにひらりと男の突進をかわして、男の脚を掬うように引っ掛けた。男はどてと肩から転げた。高橋は手を広げ、ぱん、と勢いよくやまなりに両手を打った。蓋を開けると、高橋の手の上で自身のその長い牙により腹を裂いていた。

「おごおごおご」

男はぐにょぐにょと蠢き、やがて一本の大きな蜘蛛の脚になった。その反応は高橋に触れたからかジグモが殺されたからなのか、わからない。

「へえ。これは予想外の反応、これが脚か。ぐばあ」

扁平頭の男が変化したその脚は既に抜け殻であった。すなわち、脱皮済みである。

「ごごごごご」

奇声を発する高橋の体がぐにょぐにょぐにゃぐにゃと変化し始めた。

「ちょっとあんた!?」

「なんだと…これは…早過ぎる…そんな、俺は既に認め、与えられていたというのか、そんな、いつ…か…ら…何…を…記憶に…ない…」

ぐにょぐにょぐにゃぐにゃ。

「ああ、痛い。痛い。曲がる。うねる。くっつく。ああ、気持ちいい。ああ、ああ」

かろうじて頭だけ変化し終わっていない体で、高橋はうろんな目をして、恍惚を表した。

「おい!ついてけねえよ!」

ミシモが叫ぶ。しかし、この夢の部外者であるミシモに、それ以上何か出来る筈がなかった。

「感じるぞ。感じる。あああ、あああ、ろおおおお、ろおおおお」

「今までで一番わけわかんねえっつうの!なんだってのよおい!」

「感じるぞおおお、アラクネ様の愛を、痛みを、悲しみを、優しさを、ああ、アラクネ様のお陰だぁ、ああ、そうか、これは俺のおおぉぉぉ」

何か言いかけて、高橋は完全に脚へと変化した。真新しい脚はとても柔らかそうであった。

「なんなんだよ気持ち悪いなちくしょー!」

後ろ手に縛られた乙女の悲痛な叫びもむなしく、脚はうねうねと動き、乳白色の海へと落ちていった。

すると、ミシモの目の前に美しい黒髪の少女が現れた。少女は美しかったが、下半身は蜘蛛であった。

「あ、あなた…が、あなたがアラクネ、様?」

尾形ミシモの問いに少女は無言で、ただ微笑みをかえした。その笑みはどこか物憂げであった。







終わり

アラクネ(32)~再投稿~

「他の脚もお望みかな?」

ハゲタカに人語を喋らせたような声が優しくも無機質な背景に響いた。ミシモは首を横に振った。

「こんな夢、早く目覚めろっつうの」

そう思いはすれど、それが不可能であることに気づき始めている。

再び扁平頭の男が現れると、男は佐藤ヒロフミ、菱山カナコ、土師マユミ、己タケハル、鈴木ホノカ、野崎アヤ、武者カズタカの死に様を朗々と語った。

「佐藤ヒロフミは逃れられぬ過去を持つ男だった」

「菱山カナコは我慢出来ぬ女だった」

「土師マユミは不完全な完璧主義者だった」

「己タケハルはナルキッソスの子だった」

「鈴木ホノカは続けられぬ女だった」

「野崎アヤは痩せた豚のような女だった」

「武者カズタカ、あの男は痛みを恐れ、逃げることしか出来ぬどうしようもない男だった。あいつは駄目だ」

男はクラゲのようにかぷかぷと笑った。

「痛みこそが喜びの根だというのに。苦しみこそが天国へ通じる道だというのに。何も無いくせに自らを後生大事にして」

男は空を指差した。

「尾形ミシモ、この空を見よ。朝だ。朝が来たのだ。ミネルヴァの梟は夕暮れに飛び立つが、おお、見よ。朝だ。朝明けだ。朝靄たちこめることなく透き通る朝だ。アラクネ様の朝だ。お前は認めよ。この朝に認めよ。アラクネ様に認めよ」

清々しいのに重苦しい空を見上げるミシモ。生暖かい風が頬をなでる。その目は生気を放っていない。

「私は何を、認めるというの?」

尾形ミシモを以てしても、男の言葉に抗うことは出来なかった。

「ふふふ、そうだ。お前は認めるのだ。そして与えられるだろう。ふふふお前は」

「ちょっと待った!」

扁平頭の男が認めの条件を言いかけた時、割って入った男の声が空間に響く。

「なんだ!?これは、これは、そんな馬鹿な!誰かがこの世界に?」

不意に響き渡った人間の声に、扁平頭の男は狼狽を隠さなかった。

「ちょっと待て!」

どこからか、また同じ声がした。

「これは、こんなことが…ありえるはずが」

扁平頭はその扁平頭を抱え込んでなにやら、考えている、ようであるが、その行為は矛盾そのものであった。

「あ、ちょっと待て!ちょっと待てください!」

「………」

姿無き声にそう言われ続け、余儀なく待つ男と女。互いに大きな混乱を抱えている。

「ちょっと、ちょっと、あれ?ここまで来て!?あ、いや、ちょっと待ってちょっと、あ、こうか?いや、そんな、あら?え?ごめんちょっと、あれま、き、ああ、これか?違う?」

車掌がマイクのスイッチを切り忘れ、車内に独り言が流されているような声が続き、なんとも言えぬ台無し感がミシモを襲った。

「ちょっと待って、あら?あらあらあら、おお、おお、よし!いける!」

声が力強くそう言うと、ミシモと扁平頭の男の間に、裸では無いにしろ某未来から来た人型殺戮ロボットの登場シーンのようなポーズをした男が現れた。クラウチングスタイルである。ミシモはただ、訝しくその男を見つめた。

現れた男はミシモの方を仰ぎ見ると、にっこり笑った。気持ち悪い。しかし、どこかで見たことある顔。ミシモの心持ちも知らず、

「今日、今日だと思ったぜ。今日だと。案の定だ。誕生日にクライシス。アラクネ様の転生、だもんな。この日だと思ったぜ。そんなもんだと思ったぜ」

と、恐らくは精一杯かっこをつけたセリフを喋りながら、ゆっくりと立ち上がった。ミシモは、気持ち悪い奴だな、と確信した。

「なんだ貴様は!」

扁平頭の男がそいつに吠える。しかし、問われた男は冷静に、

「彼女に認めさせやしないぜジャック君、いや、モンタギュー君で正解かな?ふふん」

と、飄々とうそぶいた。

「貴様は誰だと訊いている!どうやってここに来た!」

「一度に二つの質問をするとは、焦ってやがる。焦ってやがるな。それもそう、前代未聞、だろうからな。ま、俺のことなら彼女が知ってる。彼女の脳内を探ればわかるだろうぜ。得意だろ?今となってはそれだけが」

「お前、お前は」

「ストーカー」

扁平頭の検索よりも早くミシモが答えた。まさしく、現れた男は例のストーカーであった。

「いやまあ、そうなんですけど、ストーカーですか…」

男は少しがっかりした様子で苦笑いを浮かべた。精一杯二枚目半を気取っていやがる。

「こいつ、あるぞ、尾形ミシモの記憶の片隅に、あるぞあるぞ、忘れ去られた手つかずの領域にあるぞ!貴様、土師マユミの葬儀で人目もはばからず号泣していた男だな!」

「あ」

扁平頭の男の言葉がミシモの記憶を呼び覚ました。そうだ。どこかで見たことのある顔だとずっとずっと、心のどこかで疑問符が出ていた。そうだ。マユミの葬儀で泣き崩れていた男だ。ミシモの中で様々なダマ止まりになっていた情報が一気にほつれ、口から出た言葉は、

「そうだ。マユミ言ってた。会社にストーカーがいるって」

であった。

「遡ってもストーカー!?俺、ストーカー…」

今度はがっかりした様子を見せた男だったが、すぐに、

「その通り、俺の名前は高橋。土師マユミの元同僚。まさしく俺は彼女を愛していた。今尚愛している。だが、しかし、彼女は、この尾形ミシモさんを愛していた。俺なぞ立ち入る隙もなく、彼女は彼女を欲していた。愛していた。とても残念さ。だがな、それなら、今となっては、愛から取り残された俺がマユミさんにこの愛を証明しようというならば、俺はなんだってする。マユミさんはミシモさんの悲しみを、絶望を、許しを乞う姿を、望んでいない!絶対にだ!」

高橋の熱のこもった言葉を聞きながらもミシモは、こいつはマユミのタイプじゃないな、と思った。

「その為にここへやってきたのさ。ふらりとね」

「貴様どうやってここに来た!」

「ふふん、お前には俺がわからない分、わかってしまうのだろうな。俺は彼女の脳内のイメージではないということが。俺は俺だ。ちゃんと自意識を持つ。この世界に於いて、お前と一緒の存在といっても過言ではないだろう。しかし、なにも初めてここに来たわけじゃない。お前に会うのは、いや、お前を見るのは二度目だ。武者君の時にも、俺は見ていたんだぜ。あの時とは場所が違って焦ったよ。といっても、“記憶”の無い、情報の刷新に過ぎないお前には思い出すなんてことは出来ないだろうが」

「…」

扁平頭の男、切り裂きジャックの情報は押し黙った。

「俺は納得出来なかった。土師君の死を。なぜ彼女があんなふうに死ななきゃならん。納得出来るか。してたまるか。だから研究したのさ。彼女の周辺を、彼女の友人達を、最近起こった出来事を、心理学を、精神世界を、フロイトを、ライヒを、あらゆる宗教を、あらゆる神話を、古今東西の民話を、伝承を、サイエンスを、理論を、あらゆる仮説を、愛を、俺は学んだ。土師君の死からずっと、ずっと。彼女の友人達が次々と同じ死に方をした。ある日突然何の前触れもなく、腹を裂いて死んだ。これは一体なんだ。何が起こっている」

珍入者、否、高橋は続ける。

「俺の研究の行き着いた先は夢だった。皆、起きている時は普通だったからね。鈴木ホノカさんが腹を裂いた時に俺は夢で何か起こっているのではないかと、半信半疑ながらそう思い、警察の手で殺人犯として厳重に“保護”されていたはずの野崎アヤさんが死んだ時、その思いは確信に変わった。留置場の中では二十四時間監視されている筈だからね。そこで突拍子もなく同じように死ぬとなると、夢以外、行き着く場所、導ける点がなかった。野崎アヤさんには悪いが、殺人犯として通報したのは俺なんだ。よかれと思って、いや、実験だったと言おう」

高橋はちらりとミシモに目をやった。ミシモは怒ってはいなかった。

「夢、そこになにかあるのではないか、そう思い至ったがそこからが難しい。果たして、人の夢を覗く、なんてことが出来るのか。こんな現実を見て些かむなしくもあるが、俺はリアリストでね。現代科学では解決しようのない難問に思わず諦めてしまうところだったよ。どうやって人の夢に干渉するか、その夢とはなんらかの暗示や洗脳、催眠術による人為的なものなのか、それとも不可解な力が働きかけているのか。いずれにしてもどうすればこの事態を、彼女が好きだった尾形さんの死を止められるか」

高橋はミシモに近づく。

「止めようというのか貴様、アラクネ様の脱皮を!」

「言ったろう?俺は武者君の夢を覗き見ていたと。止められる、この事態がそんなものではないことを一番知っているのはお前の筈だ」

背中越しにそう言われた扁平頭は口をぐむむと震わせた。

「人為的犯行の線はすぐに消えた。彼女達の周りにそんな悪意を持つ奴はどう見たって、どう考えたっていなかった。全くの第三者による犯行も考えたが、俺以外ストーカーもいなかったしね」

そう言うと高橋は二枚目半の自嘲気味な笑顔を作った。

「となると、彼女の好きだったシャーロック・ホームズの言葉を借りるならば、“全ての不可能を消去して最後に残ったものは、如何に奇妙なものであろうと、それが真実だ”。残ったものとはつまり、非科学的パワー。それしかない。ま、結局何もわからなかったと同義であると言ってもいいがね。何もわからないならば、何もわからないことが残された真実だ」

高橋は何かを探すようじっくりとミシモをねめ回す。

「夢とは何か。突き詰まるところ、それが問題だった。科学的常識を捨てて考えなければいけない。図らずもお前達がヒントをくれたよ。お前達は夢をコントロールしているらしかったからさ。逆算だな。ふふん。夢とは、夢の正体とは世界だったんだ。俺達が見ている、個別に見ていると思っていた夢とは人類、いや、脳を持つ動物が共有している世界だったんだ。インターネットのチャットルームやネットゲームのそれに近い。端末とサーバーだな。そいつの環境や思考、記憶、精神状態、日々の出来事、それらがサーバー分けの選択肢になっている。俺達はそうして日々、毎夜、夢という世界にアクセスしているわけだ。フロイト先生もびっくりだ。いや、本質的には同じことか。分類、だからな。お前達はそこをいじれるんだろ。言うなれば自分達のサーバーへ強制的にアクセスさせるわけだ。通常は行くことの出来ない秘密の場所へ」




アラクネ(31)~再投稿~

「ねえ、いいでしょ?」

「いやよ。痛いし。早く寝て」

前者がママ、後者がミシモ。腕まくらを要求したママ、拒否したミシモ。ママはネグリジェ、ミシモは拘束衣。拘束衣といってももちろん本物ではなく、お手製の拘束スタイルである。約半年前、ミシモの身を案じる母が家の“どこからか”全体にファーをあつらえたファンシー手錠を出してきて、その装着をなりふり構わぬ必死な瞳でミシモに促したのだった。ミシモは二重の意味でげんなりしながらも、寝る時は後ろ手に手錠をして寝るようにした。従って、ママの要求した腕まくらとは、読者のそのたわわな想像力にお任せしよう。しかし、性的な意味はない。

歯磨き粉の非道なる刺激感覚が遠のき、吐く息がほんのりと甘い芳香を持つ。ショートケーキの食い過ぎである。

ミシモの肌に染みつくように生暖かく、そして口内の奥で形成された膿栓、通称“臭玉”から漏れだす不快極まりない匂いの息が一定のリズムを刻み始めた頃、その単調なリズム、意識無き生命の躍動が刻むリズムが心地よく、ミシモの意識は彼方へと運ばれて行った。時刻は十一時少し前。

「朝だ。ついに朝が来た」

そう聴こえたミシモはぱちりと瞳を開けた。しかし、そこは居たはずの部屋ではなかった。あるべき天井は無く、底が抜けたような蒼い空が広がっている。ちりぢりにあるどろりとしていそうな白い雲。驚いたミシモは脚を上げ、十分な反動をつけてがばと背を起こす。隣にいるはずの母はなく、しかも、背を起こしただけなのに、ミシモは四つ脚の華奢な椅子に座っていた。軽トラの荷台程の黒い床の上。辺りは乳白色の、うねり波打つそれは、どうやら海のようである。水平線を見渡しても、他に陸地は無いようだった。絶海の孤島である。ミシモはピンクファーのファンシー手錠をつけたまま、その幾重にも塗り重ねられた重厚な油絵のような、美しくもおどろおどろしい風景の中、椅子に座っている。「鍵は冷蔵庫の中にあるのに」、ミシモは漠然とそんなことを思った。

「認めよ。おお、認めよ」

声がした。その声より先か声がしてから現れたのか、ミシモにはわからなかったが、とにかく突然目の前に男が現れた。その男はぼろを纏い、ハンマーヘッド・シャークの如く扁平な頭をしていた。

「さすれば与えん。おお、俺の役割もこれで終わりぃ。朝だ。朝が来たのだ。なあ?俺はどこへ向かっているのだ?なあ?役割を終えたら、俺はどこへ行くのだ?」

「知るか」

とっさに、と言うべきか、つい、と言うべきか、いずれにせよ、そんなことを訪ねられてもミシモはそう言わざるを得なかった。

「おお、外面如菩薩、内面如夜叉、アラクネ様とは反対だぁ」

くねくねと身悶える男の姿を見て、

「これは夢だ」

ミシモはそう思い至った。

「その通り、これは夢。一夜の夢。儚いまほろば。しかし、常夜であり白夜。脳内を借りる虫、脳内に巣くう虫」

「は?」

「記憶は全ての知識の器であり、鞘である。夢とは流れ行く水銀であり、抜き身の太刀である。しかし、幻。それは確かに記憶の中にあり、外にある。虫は中にあり、外にある」

「は?」

「認めよ。さすれば与えん」

「はぁ」

「この世の本当の幸福は物を受けることに非ず、物を与えることにあり。しかし、女は逆である」

「なんなんだよ」

「ああ、物、プレゼントよ!女というものは美しい布きれの為ならどんなことでもするものだ」

「なめてんのかこいつ」

「ならば与えよう与えよう。メス蜘蛛に糸ぐるみのプレゼントを渡すオス蜘蛛のよう、命がけで与えよう。これを見よ」

そう言って男は空間に吸い込まれるように姿を消した。

「なんだこの夢は。確か夢だと自覚して見ている夢のことを明晰夢って言うって誰かから聞いたような」

ミシモがぼんやりとそう思うと、

「私だよ」

ミシモの眼前に遺影と変わらぬ姿でにっこりと笑う土師マユミが現れた。

「マユミ」

驚きを通り越して、ミシモは泣きそうになった。夢の中であるとは知っている。このマユミがただのイメージであることは知っている。しかし、だからこそ、ミシモは泣きそうになった。幽霊がいるというなら私の目の前に化けて出ろ。夢でもいいから出てこい。そう願いながらも叶うことがなかった夢がいま現実になったのだから。だがしかし、あえて、

「久しぶりじゃん、元気?」

涙をこらえ、強がりを言ってみせる。それが尾形ミシモなのだ。

「元気かだって?ふふふ」

「まあ、あんたもう」

「そう死んでいるのよ」

その時、マユミの顔に深いしわが数筋刻まれた。それは顔に大蜘蛛がへばりついているかのようであり、マユミの死に顔であった。

動じている。尾形ミシモは動じている。だが、

「ずいぶんとひどい顔になったもんね」

健気にも、ミシモはミシモなのだ。

「キャハハ、ひどい?そんなにひどい?死んだの。こうなって死んだの。私死んだの。アラクネ様の脚になったの」

「アラクネ様?そういえばさっきも」

「そう、アラクネ様の脚になったの。情報になったの」

「そりゃあ…おめでとう」

「つれないわね。あなたもなるのよ。最後の脚になるの」

こいつはマユミであってマユミじゃない、わかっていたことだが今やっとそう処理出来た。

「うーん、やっぱり違う。こんなのめんどくさいだけ。どうせなら、なんつうか、“生きてる”あんたに会いたかったなぁ。もっと遊んどきゃよかった、ってか」

「もっと、会えたじゃない私達。生きてた以上にたくさん会えたのよ私達。取り戻すことの出来ない時間をアラクネ様に与えられたじゃない。もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと、与えられたの、大事な記憶を。私とミシモの大事な思い出を」

「え?」

「キャハハ、また会えるといいね」

土師マユミはくるりと回ると、ルート記号のような形になった。それは太く、象の毛のように堅そうな毛を生やしていた。蜘蛛の脚だ。脚は尺取り虫のようにもよもよと動くと、乳白色の海の中へ落ちていった。




アラクネ(30)~再投稿~

佐藤ヒロフミの怪死から始まった死の数珠つなぎ。菱山カナコ、土師マユミ、己タケハル、鈴木ホノカ、野崎アヤ、武者カズタカ、そして…。

尾形ミシモだって泣いたり、悲観したりする。しかし、二十四時間監視されているこの環境では、泣けない。自分が泣けば齢五十を過ぎても週に二回のペースでラブを育む可愛げのある気持ち悪い両親がどうなるかは、火を見るより明らかであった。少し歳の離れた兄もちょくちょく帰ってきては、妹の身を案じている。

娘の身を守る為とはいえ、尾形ミシモはひきこもりでもないのに、実家で座敷童のように鳴かず飛ばずの日々を過ごしていた。その月日、武者カズタカが死んでから実に五ヶ月。ミシモは今夏の暑さを知らない。

ミシモの家ははっきり言って金持ちである。はっきり言わないと小金持ちの家で、パパは会社を経営している。家事手伝うには過ぎた環境である。

今日も今日とて暇つぶし。筋力トレーニングに、ヨガに、料理に、テレビゲームに、からかう愛犬に、ミシモは暇を感じる。もともとミシモは休みの日に動き回るタイプである。この仮ひきこもり生活により、スマートに磨き上げられる体躯と相反し、ストレスは下腹の脂肪のようにこびりついて、何をしてもなかなかとれない。しかし、家族の愛情を想えば、無理は言えない。

買い物をしようと、まだミシモには幾ばくかの自分で稼いだ金が残っている、パソコンに向かう。服を見ても自分と親が悲しくなるので、なるだけ家庭内用品を見る。

え!?ホームベーカリーって粉と水入れるだけでパン出来上がるの!?知らなかった、すごくない?なにそれありなの?これは…うまいこと言いくるめて親持ちね。うわ、ぶら下がり健康器って思ったより値段するのね。無性に懸垂してみたくなったのに。今なら百回ぐらいできそうな気がするのに。これも、親持ちね。メタボオヤジには懸垂よ懸垂、そうね。げ、これこっちで買った方が安いじゃん。あ、このティーカップいいなぁ。だささ加減と非実用性がとてもいい…って高っ。無駄に高いよ。ださいのになにゆえ?狙われてる?私ピンポイントで狙われてる?ピンポイントで購買意欲刺激されてる?おっと、あのゲームの続きあるんだ。へえー。

ミシモは結構この日々を楽しんでもいる。楽しむ気持ちと心に生じる空虚感はまた別の話なのだ。

夜が来て、父親が帰ってきた。日常。母親にさりげなくホームベーカリーの利点を説いていたミシモは、早速ぶら下がり健康器の有用性を説こうと頭を回転させる。どこから切り出すか、まずはパパのメタボを引き合いに出し、自身がベランダで物干し竿にでもぶら下がっているところを目撃させようか。

「ただいま、ほい、これ」

パパは手に持った包みを誇らしげにぽんとミシモに渡した。

「お、ケーキじゃん。どうした?今よりも太る気か?」

親の心子知らず。ミシモはぶら下がり健康器ゲットへの第一歩、メタボ認知作戦を開始した。

「おいおい、俺の記憶が確かならば、ミシモちゃん誕生日でしょ?」

「ちゃんづけするなと何度言えば、あれ?今日だっけ?私の記憶が正しければ明日が誕生日なはず」

誕生日、そうだ。明日は誕生日だった。誕生日にはプレゼントがつきものではないか。これを利用しない手はないではないか。

ミシモは誕生日を忘れていたわけではない。しかし、誕生日と親からのプレゼントが結びつくには至らなかった。二十四になる娘として当たり前のことだが、久しくケーキ以外の「物」をもらっていないからだ。

「明日から出張でいないからさ。そんなパパからのせめてものお祝い、いらないか?」

ほころんだニコニコ笑顔でパパは言った。

「いや、私が悪うございました。ありがたく受けとります。ありがとうございます」

「棒読みか!まあいいや。おめでとうね。それにしてもパパそんなにメタボ?ミキちゃんには歳の割にシャープだと」

「ママ、この人ミキちゃんって人と浮気してるよ」

「早いよ。早合点にもほどがあるだろ。ママも、あらまぁ、じゃないよ!ミキちゃんとなにかあるはずないだろ。ミキちゃんってあのミキちゃんだぞ。パパの従兄弟のミキスケちゃんだぞ」

「ああ、便利なものね。そういう名前の男友達がいると」

「なるほど、その手ね。知人と同じ名前の女の子と、って違うよ!ママ鍋から煙出てるよ!ミシモちゃんそりゃないよ。ミキちゃんからお祝いのおこづかい預かっているのに」

「本当に?よっしゃ」

「現金な奴だな」

「ああ、ミキちゃんには、本当にありがとうございます、と伝えておきます」

「パパ抜き!?ミシモちゃんミキちゃんのアドレス知ってるの!?最近会ってないはずだけど」

「ま、ハトコ繋がりで男のミキちゃんのは知ってるけど」

「女のミキちゃんなどいない!大体不倫相手が娘に現金を包むか?」

「ふふん、そうやってママの立場をえぐって悦に浸ってるにきまってる」

「怖いよ!ママもなに七味を一心不乱にふりかけてるの!怖いよ!からいよ!」

「まあしかし、この歳になって親に祝ってもらうってのは」

ミシモは作戦の要へと踏み出した。

「ははは。親からみればいくつになっても」

「うん、みなまで言うなみなまで。だけど誕生日ってのは子供が親に感謝する日とも言うわね」

「いやあ、その気持ちだけで充分だよ。まだまだミシモちゃんは」

「いやいや、そうおっしゃらずに」

「いいよぉ別に。ねえママ?ママ!?そんな包丁うちにあった!?でかいよ!刺さるよ!」

「なるほど、確かにまだ親孝行するには早いかな」

「えっ、実のところプレゼントもらったらだいぶ嬉しいんだけど」

「そうね。それもそう」

「う、うむ」

「じゃあこういうのはどうかしら?無駄に太ってるその体を」

「そんなに太ってるか?パパこうみえて昔はサッカー部で、それはそれは見事な、ミケランジェロの彫刻かリーかパパか、って体をしていたもんだよ」

「麒麟も老いては駄馬に劣ると云う。思い出を糧にするしかない男の人ってあわれ」

「うっ」

「鏡は嘘をつかないのよ。それが教訓」

「確かに割れていた腹筋も今では三段腹だが、歳相応というやつでは」

「相応ねえ。ふうん。じゃあこういうのはどうかしら?腹筋が再び現れた時、娘から褒美を授けよう」

「腹筋が、か。…腹筋が………。ジムの会員ってまだいきてたっけなぁ」

「ふふん、ヒントを与えよう。腹筋を割るには懸垂がよいと誰かが言っていた気がする」

多少、無茶なきっかけであるが、作戦は要に近付いた。

「懸垂か?昔は出来たけどなぁ」

「四六時中すればいいわ。四六時中すればいいのよ。ぶら下がり健康器でも買って」

「ぶら下がり健康器って昔流行ったなぁ。どこも洗濯物吊しになってたっけ」

「確か、最近のあれは腹筋台も付いているらしい」

「へー。まだ売れてんだね、進化してるってことは。あ、ひょっとしてミシモちゃん欲しいの?ぶら下がり健康器。もしかして誕生日プレゼントとか?」

「どこの娘が誕生日プレゼントにぶら下がり健康器なぞ欲しがるものですか」

「それはそうだな。いないいない。そんなこと言われたら親として娘の将来心配しちゃうわな。親の顔が見てみたいよ」

ここにその親と娘がいるぞ、このクソオヤジ。しかし、努めて冷静にミシモは作戦を遂行する。

「だけど、そうね。ぶら下がり健康器を誕生日プレゼントにねだろうかしら。これって親孝行と誕生日プレゼントの中間をいく素晴らしいアイデアだわ」

「なるほど、確かに」

「そして、欲しがりません勝つまでは、の精神であなたは体を動かせばいいのよ」

「その先に勝利があるんだな。そうか。うむ。そうかそうか。うむ」

パパはあごに手をあててなにやら頷いている。手応えあり。

パパは着替えに寝室へ行った。いつもより遅く戻ってきて、和やかな夕食が始まった。きっと姿見で、ぐだぐだなポージングをしていたに違いないとミシモは直感した。

週二回のペースで愛を育む、と記したが、ここ最近尾形夫妻はごぶさたである。ミシモが母と、いや、母がミシモと一緒に寝るからだ。これでは自分を慰めることも出来やしない。




アラクネ(29)~再投稿~

突如としてひきつり笑いのドールの顔が歪み、ハンマーヘッド・シャークのように扁平になった。姿形もぼろを纏った醜い男の姿に変わっている。

「さまよえよえよえよえよえよえよえよう。さまよえよ武者カズタカ。喜びは悲しみを引き立たせる香ばしい煙に過ぎないさ。悲しみは喜びを上回るパレードなのさ。人生は大理石と泥から出来上がっている。だろう?この世で最も美しいものは最も無用のものである。たとえば、孔雀と野の百合をみよ。だろう?人生の喜びとはなんぞや、人生の喜びとはすなわち、無用の悲しみなのさ。さまよえようさまよえよう武者カズタカぁ彷徨ぅ」

「なんなんだよ!これは夢だろ!?」

ひしひしと、恐怖に打ちひしがれてゆくカズタカ。

「そう、これは夢さ。泣き笑いのまほろばさ。現実であって現実でない曖昧な夢さ。究極の癒やし。それが夢さ」

言葉が妙に胸に響きやがる。俺の意識を奪われてたまるか。そうは思えど、抗えない。

「武者カズタカ。お前は脚になる。アラクネ様の脚になる。それはさまよえる喜びさ」

「お前は、誰なんだ」

力無く呟くカズタカ。

「俺が誰か。俺は俺であって俺じゃない。俺はただの脚さ。生きてなんかいやしない。昔は生きていたがね。七人の女を殺したのさ。とても鋭利な刃物で切り裂いたのさ。ああ、ぷつりぷつりと石榴の実のようにあり。鮮明なる赤を纏う肉。ぷつりぷつりと石榴の実のよう。ああ」

感嘆を込めて、扁平男は喘ぐ。そして、

「しかし、今はただの情報でしかないがね。アラクネ様の脚さ」

と、一変して憎々しいほどすらりと言った。

それから男は佐藤ヒロフミ、菱山カナコ、土師マユミ、己タケハル、鈴木ホノカ、野崎アヤの死について朗々と語った。

「お前もだ。お前もだ武者カズタカ。アラクネ様の愛は惜しみなくお前に与えられるだろう。そして、惜しみなくお前から命を奪うだろう。お前ならばわかる。お前こそは言っていることとやっていることが違う男だからだ」

「そんなことを信じろと言うのか」

カズタカは力無き頭で必死に何かを見つけようとしている。

「懐疑は方法である、か。悩ましき人間よ。さまよえる人間よ。だがしかし、これこそは右往左往することなき本道さ。与えられる喜びを、喜びに満ちた悲しみを、ただ知ればよい」

男はくるりくるりと片足を軸にして二回転すると、

「これを見よ」

と言った。そして男はすっと黒い空間の中に吸い込まれて消えた。取り残されたカズタカは呆然として、ぼつぼつと逆立つすね毛を見ていた。

「お前も噛むか?」

急にそう話しかけられ、そのすね毛視線を上げざるをえなかった。そこにはやたらめったらにがたいのよい迷彩ズボンを履いた上半身裸の大胆な顔立ちをしている白人男性がいた。首にはいくつかのドッグタグ。何かをくちゃくちゃと噛んでいる。

「ほらよ」

男は手に持っていたバターのような塊から、ひとくち分、ちぎって投げた。それはカズタカの開けっ放しの口に見事入った。

「ハハハ、大丈夫。たとえ火にくべたって爆発しない代物さ。甘くてうまいぜ。男のガムさ。くちゃくちゃ」

男がそう言って口の中のものを噛むと、ボオンと爆発が起こり、首から上が吹き飛んだ。首からぴゅうぴゅうと血を吹く男の手がパントマイムで壁を表現しているようにすりすりと動きながら扁平男のように消えた。カズタカはあわててプラスチック爆弾のかけらを口から吐き出した。

「自由でいたいのさ僕は。なにものにも縛られていたくない。唯一僕を縛るものは、そうだな、時間だけだろうか」

消えた軍人のあとに現れたものは亀甲縛りで宙に吊された男であった。

「ふふん?何か言いたげだな」

当たり前だろ。麻痺をきたした思考ながらも反射的にカズタカはそう思った。

「しかし、これが自由。これこそ自由。ああ自由。自由の名の下、一体どれほどの犯罪が生まれたことか。一体どれほどの悲劇が生まれたろうか。しかし、悲しい気持ちは輝く喜びだ。うう」

吊された男はそう言うと射精し、消えた。

「ああ、人はなぜ死ぬのかしら」

次に現れたものは地味な着物姿の若い女だった。

「人はなぜ死ぬのかしら。あなたわかる?人と人とはなぜ出逢うのかしら。あなたわかる?二人の生命の重なり合った部分になぜ愛は生まれいずるのかしら。あなたわかる?でも、素敵。素敵ね。それって素敵なことなの。あなたわかる?初めは処女の如し、終わりは脱兎の如し。あなたわかる?ズキューン」

女は手に持ったピストルで頭を撃って死んだ。ピクピクと痙攣する女のはだけた着物から陰毛がちらりと見えた。その陰毛は薄くてらついていた。

「僕は女さ」

次に現れたものはバニーガールだった。ちゃんとうさぎの耳をつけている。しかし、がたいは男のそれであり、ハイレグから漏れた金玉が網タイツでむぎゅとなっており、とてもかわいそうな状態になっていた。

「僕は女なのさ。だけど、女に生まれたからといって男を愛すとは限らないように、僕は女を愛す。男の体を持ち、女の心を持ち、女を愛する。これ以上の幸せがあるだろうか。これ以上の喜びがあるだろうか。これ以上の悲しみがあるだろうか」

そう言うと、「彼女」の陰茎がにょろにょろと動き、布を突き破った。

「弱き者よ、汝の名は女だ」

そう言うと彼女は陰茎をナイフで切り取り、血しぶきをあげながら消えた。

カズタカは肩に重みを感じ、後ろを振り返った。

「な?」

扁平頭の男がそこにいて、笑みを浮かべカズタカに何かへの同意を求めていた。

なにが、な?、だ。

そう反射的に思ったものの、カズタカの口から出た言葉は、

「はあ」

だった。同意に応じる言葉だった。曖昧に応じてしまった。

扁平男はにやりとほくそ笑むと、

「そうさ。お前は認めよ。抱かれよ。ただ愛のまにまに。これは盲亀の浮木と心得よ。事実を知らず、責任をとることなしに批判を言う者よ」

「…たとえば俺は」

そう付け加えることがカズタカの最後の抵抗であった。

「俺は何を認めるというんだ?」

「ああ、どこまでもどこまでもさまよえる傀儡よ」

どこまでも。その響きも今のカズタカにはむなしい。

「お前は認めよ。ただ認めよ。何を。心の底から生きていたいということを」

「そんなの」

「ありさ。卑怯だとでも言うのかい?生と死に取り憑かれたさまようお前が悪いのさ。生きたいと思う気持ち、それは死中にこそ、より輝く喜びをもたらす」

認めれば死、そして認めなくても、生きたい心を否定すれば待っているものは、死。

「認めよぉ。与えられる喜びを知れぇ」

武者カズタカは力無くこくんと頷いた。

「ほう、お前はそれを望むか。さもありなん。確かにそれは与えられることであろう。では安心しておやすみよ。忘れられることも喜びのうちさ。ふふふ」

武者カズタカのつけていた日記は本人の死後、出版された。その猟奇的な死に様と相まって、サブカルと呼ばれる人々に愛され、細く長く売れ続けたのであった。