アラクネ(31)~再投稿~ | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

アラクネ(31)~再投稿~

「ねえ、いいでしょ?」

「いやよ。痛いし。早く寝て」

前者がママ、後者がミシモ。腕まくらを要求したママ、拒否したミシモ。ママはネグリジェ、ミシモは拘束衣。拘束衣といってももちろん本物ではなく、お手製の拘束スタイルである。約半年前、ミシモの身を案じる母が家の“どこからか”全体にファーをあつらえたファンシー手錠を出してきて、その装着をなりふり構わぬ必死な瞳でミシモに促したのだった。ミシモは二重の意味でげんなりしながらも、寝る時は後ろ手に手錠をして寝るようにした。従って、ママの要求した腕まくらとは、読者のそのたわわな想像力にお任せしよう。しかし、性的な意味はない。

歯磨き粉の非道なる刺激感覚が遠のき、吐く息がほんのりと甘い芳香を持つ。ショートケーキの食い過ぎである。

ミシモの肌に染みつくように生暖かく、そして口内の奥で形成された膿栓、通称“臭玉”から漏れだす不快極まりない匂いの息が一定のリズムを刻み始めた頃、その単調なリズム、意識無き生命の躍動が刻むリズムが心地よく、ミシモの意識は彼方へと運ばれて行った。時刻は十一時少し前。

「朝だ。ついに朝が来た」

そう聴こえたミシモはぱちりと瞳を開けた。しかし、そこは居たはずの部屋ではなかった。あるべき天井は無く、底が抜けたような蒼い空が広がっている。ちりぢりにあるどろりとしていそうな白い雲。驚いたミシモは脚を上げ、十分な反動をつけてがばと背を起こす。隣にいるはずの母はなく、しかも、背を起こしただけなのに、ミシモは四つ脚の華奢な椅子に座っていた。軽トラの荷台程の黒い床の上。辺りは乳白色の、うねり波打つそれは、どうやら海のようである。水平線を見渡しても、他に陸地は無いようだった。絶海の孤島である。ミシモはピンクファーのファンシー手錠をつけたまま、その幾重にも塗り重ねられた重厚な油絵のような、美しくもおどろおどろしい風景の中、椅子に座っている。「鍵は冷蔵庫の中にあるのに」、ミシモは漠然とそんなことを思った。

「認めよ。おお、認めよ」

声がした。その声より先か声がしてから現れたのか、ミシモにはわからなかったが、とにかく突然目の前に男が現れた。その男はぼろを纏い、ハンマーヘッド・シャークの如く扁平な頭をしていた。

「さすれば与えん。おお、俺の役割もこれで終わりぃ。朝だ。朝が来たのだ。なあ?俺はどこへ向かっているのだ?なあ?役割を終えたら、俺はどこへ行くのだ?」

「知るか」

とっさに、と言うべきか、つい、と言うべきか、いずれにせよ、そんなことを訪ねられてもミシモはそう言わざるを得なかった。

「おお、外面如菩薩、内面如夜叉、アラクネ様とは反対だぁ」

くねくねと身悶える男の姿を見て、

「これは夢だ」

ミシモはそう思い至った。

「その通り、これは夢。一夜の夢。儚いまほろば。しかし、常夜であり白夜。脳内を借りる虫、脳内に巣くう虫」

「は?」

「記憶は全ての知識の器であり、鞘である。夢とは流れ行く水銀であり、抜き身の太刀である。しかし、幻。それは確かに記憶の中にあり、外にある。虫は中にあり、外にある」

「は?」

「認めよ。さすれば与えん」

「はぁ」

「この世の本当の幸福は物を受けることに非ず、物を与えることにあり。しかし、女は逆である」

「なんなんだよ」

「ああ、物、プレゼントよ!女というものは美しい布きれの為ならどんなことでもするものだ」

「なめてんのかこいつ」

「ならば与えよう与えよう。メス蜘蛛に糸ぐるみのプレゼントを渡すオス蜘蛛のよう、命がけで与えよう。これを見よ」

そう言って男は空間に吸い込まれるように姿を消した。

「なんだこの夢は。確か夢だと自覚して見ている夢のことを明晰夢って言うって誰かから聞いたような」

ミシモがぼんやりとそう思うと、

「私だよ」

ミシモの眼前に遺影と変わらぬ姿でにっこりと笑う土師マユミが現れた。

「マユミ」

驚きを通り越して、ミシモは泣きそうになった。夢の中であるとは知っている。このマユミがただのイメージであることは知っている。しかし、だからこそ、ミシモは泣きそうになった。幽霊がいるというなら私の目の前に化けて出ろ。夢でもいいから出てこい。そう願いながらも叶うことがなかった夢がいま現実になったのだから。だがしかし、あえて、

「久しぶりじゃん、元気?」

涙をこらえ、強がりを言ってみせる。それが尾形ミシモなのだ。

「元気かだって?ふふふ」

「まあ、あんたもう」

「そう死んでいるのよ」

その時、マユミの顔に深いしわが数筋刻まれた。それは顔に大蜘蛛がへばりついているかのようであり、マユミの死に顔であった。

動じている。尾形ミシモは動じている。だが、

「ずいぶんとひどい顔になったもんね」

健気にも、ミシモはミシモなのだ。

「キャハハ、ひどい?そんなにひどい?死んだの。こうなって死んだの。私死んだの。アラクネ様の脚になったの」

「アラクネ様?そういえばさっきも」

「そう、アラクネ様の脚になったの。情報になったの」

「そりゃあ…おめでとう」

「つれないわね。あなたもなるのよ。最後の脚になるの」

こいつはマユミであってマユミじゃない、わかっていたことだが今やっとそう処理出来た。

「うーん、やっぱり違う。こんなのめんどくさいだけ。どうせなら、なんつうか、“生きてる”あんたに会いたかったなぁ。もっと遊んどきゃよかった、ってか」

「もっと、会えたじゃない私達。生きてた以上にたくさん会えたのよ私達。取り戻すことの出来ない時間をアラクネ様に与えられたじゃない。もっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっともっと、与えられたの、大事な記憶を。私とミシモの大事な思い出を」

「え?」

「キャハハ、また会えるといいね」

土師マユミはくるりと回ると、ルート記号のような形になった。それは太く、象の毛のように堅そうな毛を生やしていた。蜘蛛の脚だ。脚は尺取り虫のようにもよもよと動くと、乳白色の海の中へ落ちていった。