アラクネ(19)~再投稿~
「汝、唯足るを知れ」
「あの、帰っていいっすか」
こんな状況だというのにマユミは、っすか、という語尾を用いて、またやってしまった、という気持ちになった。マユミはその喋り方が大嫌いであったが気を抜くとついつい使ってしまう。
「アラクネ様は優しいお方さ。決してお前を殺しやしない」
ミシモは黒い天井を仰ぎ見て言った。
「なら、帰してください」
「お前は認めるだけさ。アラクネ様は認めることを与えて下さるお優しいお方。慈愛に満ちたお方さ。悲しみに満ちたお方さ。お前が死ぬんだ。お前が死ぬんだ。腹を裂いて自分で自分を殺すんだ」
「結局殺すんじゃない。なに、アラクネ様だか荒くれ様だか知らないけど、私はお断り。私は、みんな死なない」
みんな死なない。それはマユミ達六人の合言葉。
「お前らはジグモを殺したろう?」
「やっぱりそこついてくるのね、蜘蛛遊び」
消え去っていた記憶が、まるで今までそれをずっと考えていたかのように蘇った。
「アラクネ様は大層お怒りになられている。我が子を殺される痛みを、我が子を戯れに殺される痛みを、御身が引き裂かれる痛みを、お前らは知らんだろう。おお、おいたわしや」
仰々しく指を絡み合わせミシモの姿をした男はひざまずいた。
ジグモという蜘蛛は長い牙を持った小指の先程の小さな蜘蛛である。民家の柱や樹、大きな石などの壁に沿うよう地下に穴を掘り、細長い袋状の巣を紡ぐ。そこら中にいるありふれた蜘蛛である。マユミ達が言う蜘蛛遊びとは、この蜘蛛を殺すだけの遊びなのだが、この蜘蛛はとても難儀な身体構造をしている。地表に出ている巣をちゅるっと引っ張り出し驚いて中から出てきたこの蜘蛛を手のひらに乗せひっくり返す。そして、えいやっと叩き潰すふりをすると蜘蛛は身を硬直させ、その自身の長い牙で自身の腹を引き裂いて死んでしまうのである。それを観察するように愉しむ。田舎育ちの佐藤ヒロフミがマユミ達に伝え八人の間で一時的に流行したこの遊び、これが蜘蛛遊びである。
「そんなのみんなやってることなんじゃないの?昼間の蜘蛛は殺すなってか?はん、なんで私達なのよ。なんで私達がそんなことで死ななきゃならないのよ。って、ま、これは夢、ただの悪夢。明晰夢。夢で殺されてたまるかっての」
自分に言い聞かせるようにマユミは言った。
「そう、これは夢。儚いまほろば。しかし脳内に巣くう蜘蛛。事実は小説より奇なり。佐藤ヒロフミと菱山カナコも腹を裂いて死んだろう?そんなことありえないとお前は思っているだろう?お前も死ぬ。認めて死ぬ。安らかに死ぬ。大丈夫苦しませやしないさ。アラクネ様はお優しいお方。その優しさに包まれて幸福のうちに死ぬのさ」
「死ぬ死ぬうるさい。死なない。みんな死なない」
マユミはぶんぶんと頭を横に何度か振った。
「菱山カナコの場合、菱山カナコは認めたのさ。ただ認めた。そして安らかに召され、新しいアラクネ様の、新しい脚となった」
「カナコが何を認めたっていうのよ」
声を荒げる力も無くしたマユミが弱々しくそう口にすると、ミシモの姿をした男の頭が急に真ん中から潰れ、ハンマーヘッドシャークのような扁平になった。マユミは、この形嫌いだな、と思った。
「菱山カナコは認めた。この先長く続く平凡な人生、過ぎ行く時間、時計の針が刻む一秒一秒に我慢出来ないことを認めた。だから死んだ。それを認め、そしてアラクネ様のお優しい配慮のうちに、幸福のうちに、叶わぬ望みを叶え、死んだ。新しいアラクネ様の新しい脚になったのさ」
理解不能ながら、マユミは愕然とした。不思議なことに扁平頭になったこのミシモの姿をした男の言葉の端々に急に妙な説得力が生まれた。
「お前もただ認めよ」
「幸福のうちにってなによ。あんな死に方ごめんよ。苦しむのはイヤ」
そう言ったマユミははっとした。苦しまなければ死んでも良いという意味合いが含まれていたからである。こいつにのまれている。マユミは、今度は否定の意思表示ではなく、幾度か頭を振ったが精神的にも状況的にも変わるものはなかった。
「苦しみやしないさ。痛みは幸福である。快楽である。想像せよ。お前は想像せよ。手の甲に開けられた穴に男根のように太く紡がれた荒縄を通して、行ったり来たり、ぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅ」
マユミがイメージした刹那、ミシモの手の甲に荒縄が通されていた。行ったり来たりする荒縄、滴り落ちる血、こそぎ落ちる肉、白く赤い骨。
「ああ、おお、ああ、ああ」
男が発する声は悲鳴ではない。恍惚とした快楽の喘ぎである。行ったり来たりする荒縄に、マユミは嫌悪感を抱かなかった。ぐじゅぐじゅと音を立てるミシモの姿をした扁平頭の男の手の甲を羨ましくさえ思った。
その瞬間、マユミの手の甲に、ミシモと同じく荒縄が貫き通され、行ったり来たりし始めた。ぐじゅぐじゅ、ぐじゅ、ぐじゅ。痛い、痛い、痛い、とてつもない痛みがマユミを襲った、のだが…。
「認めよ、認めよ、認めよ、ぐじゅぐじゅ、認めよぉ」
その声が聞こえると、マユミの手から荒縄が消え、忘我からかえった。
「わ、私が何を認めるってのよ」それを訊いてはいけないと知りつつも、止めることが出来なかった。それを聞いた扁平頭が、一瞬ニヤリとしたような気がした。
「認めよ、認めよ、ぐじゅぐじゅ、おお、おお、与えん、さすれば与えん、菱山カナコは認めた、そして与えられた、快楽を、喜びを、そして自身が生きる予定だった人生を早送りで見て満ち足りて死んだぁ。それがアラクネ様に認めるということだぁ」
「ヒロフミは…」
マユミの声に、もはや力は無かった。
「認めた、認めた、佐藤ヒロフミは認めた。妹の死が、自身のせいであると認めた、そして救われたぁ、犯人は消えたぁ、与えられたぁ、お前らに迫る危機を伝える機会を与えられたぁ、だけどお前らみんな忘れたぁ忘れたぁ忘れたぁ忘れたぁぎゃははははは」
「そんなの」
「ひどい?騙し?違うね。与えられるものはあくまで与えられた人間の中の幸福さ。アラクネ様は確かに佐藤ヒロフミに与えたもうたのさ。佐藤ヒロフミは確かに危機を、知らせた、のさ。あとのことは知らないよ。みんなみんな知らないよ」
ミシモは普通の姿に戻った。
「アラクネ…様……アラクネ様はなぜ私達を」
「時期が来て繋がりに選ばれただけさ。百と二十年に一度アラクネ様は生まれ変わるのさ」
「アラクネ様が生まれ変わったら何が起こるっていうの」
「何も起こりやしないさ。形が代わっていくだけさ。ただの脱皮だからさ。世界の破滅?しないさ。不条理?そりゃそうさ。お前らは選ばれただけさ。繋がりに選ばれただけさ」
「そう」
マユミはぽつりと言い、
「私に何を認めろって言うの」
と、消え入りそうな声で呟いた。
「もうわかっているのじゃないかね?」
ミシモはかわいらしく小首を傾げた。
「クリエイティブな才能が無いこと、とかかな」
自分を卑下するように呟いた。
「そんなものは既に自ずから認めているではないか」
この一言でマユミは全てを受け入れようと決めた。
「お前が認めることはそう、これから生きる時間全てをかけても絶対に手に入れられぬものがあることを認めることさ」
「ああ」
「そうさ、お前は自分のことを調べたろう。自信が無いからさ。土師という名前の由来、古代、埴輪を作っていた人々、喪葬にも関わっていた。自分が何者か知りたかった。そしてお前は自身が依存性人格障害であると知った」
「ミシモと…」
「そう、その通りさ。認めるかい?」
マユミはこくんと頷いた。
「ぎゃはははきゃははは認めた、認めた、アラクネ様、アラクネ様ぁ、新しい脚だぁ、三本目の脚だぁぎゃははは」
ミシモの頭が再度ぐにゃりと歪んで扁平頭になった。背中を丸め手を叩くミシモの姿をした人外の笑い声が黒い部屋にこだました。笑い終えるとそれはすっくと身を正し、
「お前は知っているな。夢というものは途中で目覚めなければその内容を記憶出来ぬことをさ。今は目覚めぬ。いつもの朝を向かえるまで起きぬ。従ってこの夢は記憶に残ること叶わぬ。儚い夢さ。儚い夢さ。だから佐藤ヒロフミは伝える機会を望んだのさ。自身も俺とアラクネ様のことなど覚えちゃいないから。お前はただその時を待てば良い。では、ぐっすりおやすみよ」
扁平頭はぺこりとかしこまった礼をすると、消え去った。
目覚まし時計が鳴る。ぐっしょりと寝汗をかいた気持ちの悪い起床だった。台所から目玉焼きを焼くサラダ油の匂いがするいつもの朝。シャワーを浴びて出勤。マユミのフローリングの部屋の壁に一本のジグモの巣。
その日の午後土師マユミは誰もいない会議室で突然腹を裂いて死んだ。その死に顔は大蜘蛛がはりついたかのように何本もの深いシワが走っていた。
「大丈夫?」
鈴木ホノカに声をかけられて喪服を着た尾形ミシモは涙をぬぐった。マユミの煙が空へと昇って行ったあとのこと。
「ああ、あたしも案外駄目なもんね。なんか体から力抜けちゃって」
真っ赤な目をしたミシモ。
「しょうがないでしょ。ミシモにとってマユミは」
ホノカが言い終わる前にミシモが、
「そう、幼稚園の頃からずっと一緒でさ。初めて出来た友達だった。親友だった」
と、言って、とにかく上を見た。
続
「あの、帰っていいっすか」
こんな状況だというのにマユミは、っすか、という語尾を用いて、またやってしまった、という気持ちになった。マユミはその喋り方が大嫌いであったが気を抜くとついつい使ってしまう。
「アラクネ様は優しいお方さ。決してお前を殺しやしない」
ミシモは黒い天井を仰ぎ見て言った。
「なら、帰してください」
「お前は認めるだけさ。アラクネ様は認めることを与えて下さるお優しいお方。慈愛に満ちたお方さ。悲しみに満ちたお方さ。お前が死ぬんだ。お前が死ぬんだ。腹を裂いて自分で自分を殺すんだ」
「結局殺すんじゃない。なに、アラクネ様だか荒くれ様だか知らないけど、私はお断り。私は、みんな死なない」
みんな死なない。それはマユミ達六人の合言葉。
「お前らはジグモを殺したろう?」
「やっぱりそこついてくるのね、蜘蛛遊び」
消え去っていた記憶が、まるで今までそれをずっと考えていたかのように蘇った。
「アラクネ様は大層お怒りになられている。我が子を殺される痛みを、我が子を戯れに殺される痛みを、御身が引き裂かれる痛みを、お前らは知らんだろう。おお、おいたわしや」
仰々しく指を絡み合わせミシモの姿をした男はひざまずいた。
ジグモという蜘蛛は長い牙を持った小指の先程の小さな蜘蛛である。民家の柱や樹、大きな石などの壁に沿うよう地下に穴を掘り、細長い袋状の巣を紡ぐ。そこら中にいるありふれた蜘蛛である。マユミ達が言う蜘蛛遊びとは、この蜘蛛を殺すだけの遊びなのだが、この蜘蛛はとても難儀な身体構造をしている。地表に出ている巣をちゅるっと引っ張り出し驚いて中から出てきたこの蜘蛛を手のひらに乗せひっくり返す。そして、えいやっと叩き潰すふりをすると蜘蛛は身を硬直させ、その自身の長い牙で自身の腹を引き裂いて死んでしまうのである。それを観察するように愉しむ。田舎育ちの佐藤ヒロフミがマユミ達に伝え八人の間で一時的に流行したこの遊び、これが蜘蛛遊びである。
「そんなのみんなやってることなんじゃないの?昼間の蜘蛛は殺すなってか?はん、なんで私達なのよ。なんで私達がそんなことで死ななきゃならないのよ。って、ま、これは夢、ただの悪夢。明晰夢。夢で殺されてたまるかっての」
自分に言い聞かせるようにマユミは言った。
「そう、これは夢。儚いまほろば。しかし脳内に巣くう蜘蛛。事実は小説より奇なり。佐藤ヒロフミと菱山カナコも腹を裂いて死んだろう?そんなことありえないとお前は思っているだろう?お前も死ぬ。認めて死ぬ。安らかに死ぬ。大丈夫苦しませやしないさ。アラクネ様はお優しいお方。その優しさに包まれて幸福のうちに死ぬのさ」
「死ぬ死ぬうるさい。死なない。みんな死なない」
マユミはぶんぶんと頭を横に何度か振った。
「菱山カナコの場合、菱山カナコは認めたのさ。ただ認めた。そして安らかに召され、新しいアラクネ様の、新しい脚となった」
「カナコが何を認めたっていうのよ」
声を荒げる力も無くしたマユミが弱々しくそう口にすると、ミシモの姿をした男の頭が急に真ん中から潰れ、ハンマーヘッドシャークのような扁平になった。マユミは、この形嫌いだな、と思った。
「菱山カナコは認めた。この先長く続く平凡な人生、過ぎ行く時間、時計の針が刻む一秒一秒に我慢出来ないことを認めた。だから死んだ。それを認め、そしてアラクネ様のお優しい配慮のうちに、幸福のうちに、叶わぬ望みを叶え、死んだ。新しいアラクネ様の新しい脚になったのさ」
理解不能ながら、マユミは愕然とした。不思議なことに扁平頭になったこのミシモの姿をした男の言葉の端々に急に妙な説得力が生まれた。
「お前もただ認めよ」
「幸福のうちにってなによ。あんな死に方ごめんよ。苦しむのはイヤ」
そう言ったマユミははっとした。苦しまなければ死んでも良いという意味合いが含まれていたからである。こいつにのまれている。マユミは、今度は否定の意思表示ではなく、幾度か頭を振ったが精神的にも状況的にも変わるものはなかった。
「苦しみやしないさ。痛みは幸福である。快楽である。想像せよ。お前は想像せよ。手の甲に開けられた穴に男根のように太く紡がれた荒縄を通して、行ったり来たり、ぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅ」
マユミがイメージした刹那、ミシモの手の甲に荒縄が通されていた。行ったり来たりする荒縄、滴り落ちる血、こそぎ落ちる肉、白く赤い骨。
「ああ、おお、ああ、ああ」
男が発する声は悲鳴ではない。恍惚とした快楽の喘ぎである。行ったり来たりする荒縄に、マユミは嫌悪感を抱かなかった。ぐじゅぐじゅと音を立てるミシモの姿をした扁平頭の男の手の甲を羨ましくさえ思った。
その瞬間、マユミの手の甲に、ミシモと同じく荒縄が貫き通され、行ったり来たりし始めた。ぐじゅぐじゅ、ぐじゅ、ぐじゅ。痛い、痛い、痛い、とてつもない痛みがマユミを襲った、のだが…。
「認めよ、認めよ、認めよ、ぐじゅぐじゅ、認めよぉ」
その声が聞こえると、マユミの手から荒縄が消え、忘我からかえった。
「わ、私が何を認めるってのよ」それを訊いてはいけないと知りつつも、止めることが出来なかった。それを聞いた扁平頭が、一瞬ニヤリとしたような気がした。
「認めよ、認めよ、ぐじゅぐじゅ、おお、おお、与えん、さすれば与えん、菱山カナコは認めた、そして与えられた、快楽を、喜びを、そして自身が生きる予定だった人生を早送りで見て満ち足りて死んだぁ。それがアラクネ様に認めるということだぁ」
「ヒロフミは…」
マユミの声に、もはや力は無かった。
「認めた、認めた、佐藤ヒロフミは認めた。妹の死が、自身のせいであると認めた、そして救われたぁ、犯人は消えたぁ、与えられたぁ、お前らに迫る危機を伝える機会を与えられたぁ、だけどお前らみんな忘れたぁ忘れたぁ忘れたぁ忘れたぁぎゃははははは」
「そんなの」
「ひどい?騙し?違うね。与えられるものはあくまで与えられた人間の中の幸福さ。アラクネ様は確かに佐藤ヒロフミに与えたもうたのさ。佐藤ヒロフミは確かに危機を、知らせた、のさ。あとのことは知らないよ。みんなみんな知らないよ」
ミシモは普通の姿に戻った。
「アラクネ…様……アラクネ様はなぜ私達を」
「時期が来て繋がりに選ばれただけさ。百と二十年に一度アラクネ様は生まれ変わるのさ」
「アラクネ様が生まれ変わったら何が起こるっていうの」
「何も起こりやしないさ。形が代わっていくだけさ。ただの脱皮だからさ。世界の破滅?しないさ。不条理?そりゃそうさ。お前らは選ばれただけさ。繋がりに選ばれただけさ」
「そう」
マユミはぽつりと言い、
「私に何を認めろって言うの」
と、消え入りそうな声で呟いた。
「もうわかっているのじゃないかね?」
ミシモはかわいらしく小首を傾げた。
「クリエイティブな才能が無いこと、とかかな」
自分を卑下するように呟いた。
「そんなものは既に自ずから認めているではないか」
この一言でマユミは全てを受け入れようと決めた。
「お前が認めることはそう、これから生きる時間全てをかけても絶対に手に入れられぬものがあることを認めることさ」
「ああ」
「そうさ、お前は自分のことを調べたろう。自信が無いからさ。土師という名前の由来、古代、埴輪を作っていた人々、喪葬にも関わっていた。自分が何者か知りたかった。そしてお前は自身が依存性人格障害であると知った」
「ミシモと…」
「そう、その通りさ。認めるかい?」
マユミはこくんと頷いた。
「ぎゃはははきゃははは認めた、認めた、アラクネ様、アラクネ様ぁ、新しい脚だぁ、三本目の脚だぁぎゃははは」
ミシモの頭が再度ぐにゃりと歪んで扁平頭になった。背中を丸め手を叩くミシモの姿をした人外の笑い声が黒い部屋にこだました。笑い終えるとそれはすっくと身を正し、
「お前は知っているな。夢というものは途中で目覚めなければその内容を記憶出来ぬことをさ。今は目覚めぬ。いつもの朝を向かえるまで起きぬ。従ってこの夢は記憶に残ること叶わぬ。儚い夢さ。儚い夢さ。だから佐藤ヒロフミは伝える機会を望んだのさ。自身も俺とアラクネ様のことなど覚えちゃいないから。お前はただその時を待てば良い。では、ぐっすりおやすみよ」
扁平頭はぺこりとかしこまった礼をすると、消え去った。
目覚まし時計が鳴る。ぐっしょりと寝汗をかいた気持ちの悪い起床だった。台所から目玉焼きを焼くサラダ油の匂いがするいつもの朝。シャワーを浴びて出勤。マユミのフローリングの部屋の壁に一本のジグモの巣。
その日の午後土師マユミは誰もいない会議室で突然腹を裂いて死んだ。その死に顔は大蜘蛛がはりついたかのように何本もの深いシワが走っていた。
「大丈夫?」
鈴木ホノカに声をかけられて喪服を着た尾形ミシモは涙をぬぐった。マユミの煙が空へと昇って行ったあとのこと。
「ああ、あたしも案外駄目なもんね。なんか体から力抜けちゃって」
真っ赤な目をしたミシモ。
「しょうがないでしょ。ミシモにとってマユミは」
ホノカが言い終わる前にミシモが、
「そう、幼稚園の頃からずっと一緒でさ。初めて出来た友達だった。親友だった」
と、言って、とにかく上を見た。
続