からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -198ページ目

“コスメティックもろざし”いんいちがいち(十)

熊若丸が稽古場と廊下を隔てる暖簾をくぐると、土俵のまわりでストレッチをしていた力士達がいっせいに熊若丸の方へ目を向けた。その目は、店を閉めようとしたまさにその瞬間にやってきた客へと向けられる汚い小料理屋の小汚い老婆の悪意と驚きに満ちた視線のようであった。
そして、
「ちっ」
誰かが舌打ちをした音がした。熊若丸は反射的に音源の方へと顔を向ける。
稽古場に据えられている座敷、白髪は増えたが、相変わらずブルドックと馬の遺伝子をアレコレしたような顔の親方の後ろに、スーツを着た色白の男があぐらを組んで座っている。どうやら舌打ちをしたのはその男のようであった。舌打ちのした方、座敷の上には他に人はいない。そして、慣れ親しんだ親方の発する音ではないのだ。
熊若丸はその男に見覚えがあった。だが誰であったかは思い出せない。
一瞬その男と目があった。格闘家の本能故か、復帰を邪魔された嫉妬の故か、熊若丸は、にらみ倒してやろう、と、眉間にしわを寄せようとした瞬間、自分が今すべきことを思い出した。
親方への挨拶だ。
熊若丸はスッと肩で息を吸い、親方に近づく。
「長い間ご心配おかけしました。熊若丸、只今帰って参りました」
熊若丸は3滴落ちた涙が土に吸い込まれていくのを見ていた。
………………………。
反応がない。
………………………。
熊若丸は泣いていた。
親方も今泣いているに違いない。
300日を越える妄想の日々がスパークする。
数秒垂れていた頭を上げた時、熊若丸はハトが豆鉄砲をくらったような顔としか言えない、いや、あえて言うなら“王さん”の似顔絵(簡易版)のような顔をすることになった。
親方は熊若丸のことなど眼中にないかの如く土俵を見つめていた。その表情は苦々しいものですらあった。
熊若丸は、妄想の“予習”になかったシチュエーションに、ただ呆然とするしかなかった。
「熊若丸関、ちょっと奥に行きませんか」
親方の後ろから声がした。その声は妙に高く、どこか笑っているような声だった。


“コスメティックもろざし”(九)

その日朝早く、熊若丸は部屋に赴いた。部屋の玄関を開けるなり、
「1年間ご心配おかけしました。熊若丸、帰って参りました」
と、大きな声で復帰の挨拶をした。涙混じりの声であった。
彼の頭の中では、この声を聴いて部屋の人達、先輩、同期、後輩の力士達が一斉に玄関に集まり、万歳三唱と共に泣きながら自分を胴上げするのだ、遅れてやってきた女将さんは涙を見せまいと震えながら労いの声をかけてくれる、そして親方に挨拶をしにいくと親方はムスッとした表情で、
「よかったな」
と、声をかけてくれるのだ。
これが熊若丸の妄想した自身の相撲部屋復帰だった。しかし、実際には熊若丸が挨拶の声を叫んだっきり、何も起こらなかった。
数秒垂れていた頭を上げた時、熊若丸はハトが豆鉄砲をくらったような顔としかいえない、いや、あえていうなら“王さん”の似顔絵(簡易版)のような顔、をしていた。
「おかしい、誰も来ない」
数瞬の後、熊若丸は、
「ははーん、復帰の祝いは稽古をしてからってか。そっちできたか」
と、考えた。熊若丸はこの日の為に辛い、稽古よりも辛いリハビリを重ねてきた。元々体を動かすことを好むタイプなのだが、満足に動くことの無い下肢を、神経をピンセットで手繰り寄せるように動かすことは、今まで体を動かすイコール思う存分五体を躍動させることだった熊若丸にとって、頭の中が常に、いぃー、となるような、それはそれは辛いことだった。しかし、体を動かすことにより必然的に思考も活性化した。もちろん、希望的観測に基づき。
熊若丸がリハビリ中考えていたのはこの日のシチュエーションだった。それは投げ出したくなるような辛いリハビリの中で、甘い桃のしずくが口の中に湧いてくるような喜びを熊若丸に与えた。やみつきになった。しまいには辛いリハビリの時間が楽しみになっていた。
日ごとに少しずつシチュエーションを変えていた熊若丸にとって、今起こっているこの事態のことは“予習済み”のことである。
熊若丸はドタドタと駆け出したくなる気持ちを抑え、ゆっくり稽古場へ向かい、そして扉を開けた。


“コスメティックもろざし”(八)

熊若丸が事故以来初めて部屋を訪れたのは1年後のことだ。1年間まるまる入院していた訳ではなく、入院期間は1ヶ月半ほどであった。その1ヶ月半の間、入院3日目に親方が見舞いにきた以外、部屋の人間は見舞いに来なかった。電話をしても誰も出ない。熊若丸は密かに落ち込んだ。産まれて初めて悩んだ。俺は嫌われていたのか。俺は仲間外れになったのか。熊若丸のショックは見込みのたたない怪我の回復に対する不安と相まって、日本海溝の如く暗く、深く、重く心に刻まれていった。入院して18日目本格的なリハビリを開始した。リハビリ初日に熊若丸は自力で歩くことができた。医者達は目を丸くして驚き、
「凄い」
「さすが関取だ」
「いやぁ、化け物ですね」
「人間じゃないね」
と、熊若丸を褒め称えた(?)。根は単純な熊若丸。それだけに一旦落ち込んだら、落ち込めるだけ落ち込んだ。しかしまた浮上するときも一気に浮上した。この場合、事故以来初めて自分の目の前に“希望”がやってきたのだ。リハビリ医から発せられる賛辞の言葉達が、熊若丸にとってどれだけ頼もしく輝かしいものであったか。熊若丸の顔は上を向いた。賛辞の言葉を浴び続けたほんの数十日前の顔と同じ表情。表情に引っ張られるよう考えも変わった。
部屋の奴らは俺を待っているんだ。今は敢えて俺に会いにこないんだ。俺に強くなって戻ってきてほしいんだな。いわば試練、愛の鞭だ。
こういう時期、などあまり無いかもしれないが、人はあまりにも自分にとって都合のいいことばかり考えてしまう。それが良いことなのか良くないことなのかはわからないが、熊若丸にとっては最悪の結果になった。


“コスメティックもろざし”(七)

それは幕内に入ってから2回目の場所だった。熊若丸は初日から九日目まで9連勝し、前評判通りの活躍をしたのだが、十日目の朝、突然倒れた。
倒れた、というのは熊若丸の弁で、実際は“部屋”の3階にある自分の部屋と道路を繋ぐ外階段から転げ落ちたのだ。豪快過ぎるほど豪快に落ちたのだろう、熊若丸は首と腰に重傷を負った。しかも道路に投げ出された熊若丸の脚を車がひいていった。部屋は大きな国道と国道の間にあり、部屋の前を通る道は抜け道になっている。大小様々なトラックが昼夜問わず道路幅いっぱいに走る道なのだ。幸いといえば幸いにして、熊若丸をひいたのは“空の”4トントラックだった。
これにより熊若丸の左膝はグチャグチャに潰され、右ふくらはぎの半分を削り取っていった。
それでも熊若丸は再び土俵に帰ってきた。“事故”からたった1年、奇跡の復活である。だがしかし、そのたった1年で部屋は変わっていた。それは1年前の見る影もなく激やせした熊若丸以上の変わりようだった。


“コスメティックもろざし”職業は力士(六)

ブタクマ、本名猪熊健一、またの名を熊若丸、四股名だ。幕内前頭五枚目までいった元力士である。
ブタクマの相撲人生の前半は輝きに満ちている。子供の頃から体の大きかったブタクマは、親の相撲好きもあいまって、小学校入学と共に地元の相撲道場に通うことになる。入った当初こそ中学生や小学校高学年の先輩達にこてんぱんにされ続けたが、3ヶ月もすると小6の先輩から初勝利を挙げ、半年後には中学生に勝った。1年後にはわんぱく相撲小学生の部で優勝。3年後には全国大会で優勝する。
その後もブタクマは勝ち続け、小学生横綱、中学生横綱、高校生横綱、学生横綱、アマチュア横綱を獲得し、その間の全国と名が付く相撲大会で無敗を誇り、12連覇を成し遂げた。大学卒業と同時に、中学生の時分から唾をつけられていた部屋へ入門した。入門に際し、ブタクマ以外に1人、“かわいがり”用に大学の同期が入門するほどの特別扱いをうける。入門してからも順調に勝ち続け、出世し、史上最速で入幕を果たす。ブタクマもとい熊若丸は未来の大横綱になる逸材として期待と注目を一身に浴び、熊若丸自身も遠くない未来に横綱になる自分を想像せずにはいられなかった。