“コスメティックもろざし”(九)
その日朝早く、熊若丸は部屋に赴いた。部屋の玄関を開けるなり、
「1年間ご心配おかけしました。熊若丸、帰って参りました」
と、大きな声で復帰の挨拶をした。涙混じりの声であった。
彼の頭の中では、この声を聴いて部屋の人達、先輩、同期、後輩の力士達が一斉に玄関に集まり、万歳三唱と共に泣きながら自分を胴上げするのだ、遅れてやってきた女将さんは涙を見せまいと震えながら労いの声をかけてくれる、そして親方に挨拶をしにいくと親方はムスッとした表情で、
「よかったな」
と、声をかけてくれるのだ。
これが熊若丸の妄想した自身の相撲部屋復帰だった。しかし、実際には熊若丸が挨拶の声を叫んだっきり、何も起こらなかった。
数秒垂れていた頭を上げた時、熊若丸はハトが豆鉄砲をくらったような顔としかいえない、いや、あえていうなら“王さん”の似顔絵(簡易版)のような顔、をしていた。
「おかしい、誰も来ない」
数瞬の後、熊若丸は、
「ははーん、復帰の祝いは稽古をしてからってか。そっちできたか」
と、考えた。熊若丸はこの日の為に辛い、稽古よりも辛いリハビリを重ねてきた。元々体を動かすことを好むタイプなのだが、満足に動くことの無い下肢を、神経をピンセットで手繰り寄せるように動かすことは、今まで体を動かすイコール思う存分五体を躍動させることだった熊若丸にとって、頭の中が常に、いぃー、となるような、それはそれは辛いことだった。しかし、体を動かすことにより必然的に思考も活性化した。もちろん、希望的観測に基づき。
熊若丸がリハビリ中考えていたのはこの日のシチュエーションだった。それは投げ出したくなるような辛いリハビリの中で、甘い桃のしずくが口の中に湧いてくるような喜びを熊若丸に与えた。やみつきになった。しまいには辛いリハビリの時間が楽しみになっていた。
日ごとに少しずつシチュエーションを変えていた熊若丸にとって、今起こっているこの事態のことは“予習済み”のことである。
熊若丸はドタドタと駆け出したくなる気持ちを抑え、ゆっくり稽古場へ向かい、そして扉を開けた。
続
「1年間ご心配おかけしました。熊若丸、帰って参りました」
と、大きな声で復帰の挨拶をした。涙混じりの声であった。
彼の頭の中では、この声を聴いて部屋の人達、先輩、同期、後輩の力士達が一斉に玄関に集まり、万歳三唱と共に泣きながら自分を胴上げするのだ、遅れてやってきた女将さんは涙を見せまいと震えながら労いの声をかけてくれる、そして親方に挨拶をしにいくと親方はムスッとした表情で、
「よかったな」
と、声をかけてくれるのだ。
これが熊若丸の妄想した自身の相撲部屋復帰だった。しかし、実際には熊若丸が挨拶の声を叫んだっきり、何も起こらなかった。
数秒垂れていた頭を上げた時、熊若丸はハトが豆鉄砲をくらったような顔としかいえない、いや、あえていうなら“王さん”の似顔絵(簡易版)のような顔、をしていた。
「おかしい、誰も来ない」
数瞬の後、熊若丸は、
「ははーん、復帰の祝いは稽古をしてからってか。そっちできたか」
と、考えた。熊若丸はこの日の為に辛い、稽古よりも辛いリハビリを重ねてきた。元々体を動かすことを好むタイプなのだが、満足に動くことの無い下肢を、神経をピンセットで手繰り寄せるように動かすことは、今まで体を動かすイコール思う存分五体を躍動させることだった熊若丸にとって、頭の中が常に、いぃー、となるような、それはそれは辛いことだった。しかし、体を動かすことにより必然的に思考も活性化した。もちろん、希望的観測に基づき。
熊若丸がリハビリ中考えていたのはこの日のシチュエーションだった。それは投げ出したくなるような辛いリハビリの中で、甘い桃のしずくが口の中に湧いてくるような喜びを熊若丸に与えた。やみつきになった。しまいには辛いリハビリの時間が楽しみになっていた。
日ごとに少しずつシチュエーションを変えていた熊若丸にとって、今起こっているこの事態のことは“予習済み”のことである。
熊若丸はドタドタと駆け出したくなる気持ちを抑え、ゆっくり稽古場へ向かい、そして扉を開けた。
続