“コスメティックもろざし”いんいちがいち(十) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

“コスメティックもろざし”いんいちがいち(十)

熊若丸が稽古場と廊下を隔てる暖簾をくぐると、土俵のまわりでストレッチをしていた力士達がいっせいに熊若丸の方へ目を向けた。その目は、店を閉めようとしたまさにその瞬間にやってきた客へと向けられる汚い小料理屋の小汚い老婆の悪意と驚きに満ちた視線のようであった。
そして、
「ちっ」
誰かが舌打ちをした音がした。熊若丸は反射的に音源の方へと顔を向ける。
稽古場に据えられている座敷、白髪は増えたが、相変わらずブルドックと馬の遺伝子をアレコレしたような顔の親方の後ろに、スーツを着た色白の男があぐらを組んで座っている。どうやら舌打ちをしたのはその男のようであった。舌打ちのした方、座敷の上には他に人はいない。そして、慣れ親しんだ親方の発する音ではないのだ。
熊若丸はその男に見覚えがあった。だが誰であったかは思い出せない。
一瞬その男と目があった。格闘家の本能故か、復帰を邪魔された嫉妬の故か、熊若丸は、にらみ倒してやろう、と、眉間にしわを寄せようとした瞬間、自分が今すべきことを思い出した。
親方への挨拶だ。
熊若丸はスッと肩で息を吸い、親方に近づく。
「長い間ご心配おかけしました。熊若丸、只今帰って参りました」
熊若丸は3滴落ちた涙が土に吸い込まれていくのを見ていた。
………………………。
反応がない。
………………………。
熊若丸は泣いていた。
親方も今泣いているに違いない。
300日を越える妄想の日々がスパークする。
数秒垂れていた頭を上げた時、熊若丸はハトが豆鉄砲をくらったような顔としか言えない、いや、あえて言うなら“王さん”の似顔絵(簡易版)のような顔をすることになった。
親方は熊若丸のことなど眼中にないかの如く土俵を見つめていた。その表情は苦々しいものですらあった。
熊若丸は、妄想の“予習”になかったシチュエーションに、ただ呆然とするしかなかった。
「熊若丸関、ちょっと奥に行きませんか」
親方の後ろから声がした。その声は妙に高く、どこか笑っているような声だった。