からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -197ページ目

“コスメティックもろざし”(十五)

頭から突っ込んでくる熊若丸に対して、加藤はパンチを放つ。
だが壁を背にし、右足は地を踏むことも出来ず頼みの左足もガタガタとふるえている状況だ。打撃のプロとはいえ如何せん。
加藤の拳は熊若丸の頭に当たったが情けなく弾き飛ばされた。
次の瞬間、
どんっ
という音と共に熊若丸の頭は加藤の胃あたりにめり込んだ。
“どんをかます”というプロレス界の隠語がある。これは相撲出身のレスラーが得意とするシュート(喧嘩試合)になったとき(或いは仕掛けるとき)の必殺技である。
やり方は至って単純で、出合い頭に頭でおもいっきり相手の胸を突くというものだ。
これをやられた相手はどんなに鍛えられたやつでも気絶、もしくはうずくまり、しばらく身動きがとれなくなるという。
熊若丸はこれをしたのだ。しかも壁を背負っている相手に。
加藤は白目をむき、泡を吹いた。全身から力が抜け、だらりとしている。しかし倒れない。なぜなら熊若丸がめり込んだ頭を“壁”から離さないのだ。その様子は昆虫採集でピン刺しになっているセミのようである。
「死んだな」
熊若丸は思った。その言葉が興奮状態でまっさらな脳みそにでかでかと浮かびあがった。
数秒の後、熊若丸はゆっくりと頭を抜く。
加藤は糸の切れたあやつり人形のように倒れた。その時、熊若丸の後ろから拍手が鳴った。
振り返るとそこには笑いながら手を叩く根来と、横でじっとこっちを見つめているまわしを締めた男がいた。
まわしの男の体は凄まじく発達した筋肉の塊だ。腹筋は6つに大きく割れ、腕は象の鼻より太くボコボコと大きな陰影を描く。なかでも肩から首筋にかけては異様なほど盛り上がっていた。
その男は目が合うなり、「よぉ、ブタクマ、久しぶりだな」
と、声をかけてきた。
脳みそはいまだ興奮状態であったが熊若丸はこの男が誰であるか気がついた。


“コスメティックもろざし”(14)

がきっ
加藤の蹴りは正確に熊若丸のあごをとらえた。だがしかし、蹴りが顔面をとらえた瞬間、蹴り足はすねのなかほどから足首にかけて不自然に折れ、力なく熊若丸の顔面を通り抜けていった。
加藤の向こう臑の骨は、根来を護るために受けた一撃によりひびが入り、そして熊若丸の大型タイヤのように固い胴体に放った自らの蹴りによる衝撃によって折れていたのだ。
加藤は勢い余って軸足を中心にくるっとまわる。
その動きは機能美に満ちたものだったが、まわり終わって蹴り足を地についたとき機能も美しさも失われた。
加藤が蹴り足である右足を地につけたとき、骨折している右足は体重を支えられる筈もなく、すねのなかほどから折れ曲がったのだ。
不意にバランスを崩した加藤はへにゃりとしりもちをついた。それは“女座り”のようであり空手世界チャンピオンには到底似合わない格好である。あまつさえ戦闘時に関わらず両腕を床につき体を支えてしまった。
加藤ちらっと折れ曲がった右足に視線をうつす。視界のすみで熊若丸が動いたのがかすかに見えた。
急いで視線を戻した時には視界いっぱいに熊若丸の大きな手のひらが見えた。一瞬でありながら手相もくっきりわかるほどに。
その隙間からちらりと、本来ならば力士の打撃などは有無をいわさず捌き、撃ち落とすであろう両の腕が必死になって熊若丸の腕をつかまえようとしているのを見た。
ばこっ
熊若丸の大砲のような突っ張りが加藤の顔面をぶっ叩いた。加藤の口からは折れた歯がいくつもの白い破片となって飛び出し、床に散らばる。
加藤は衝撃で“後転”をするように1回転がり壁にぶつかった。
ぶつかると同時に加藤は壁にもたれながらもすばやく立ち上がった。
熊若丸の突っ張りが当たった瞬間、加藤は出来うる限り体を後ろに反らし衝撃を最小限に留めたのだ。打撃のプロの極限のテクニックであり、意地であった。
それでもダメージを免れた訳ではない。加藤の顔の穴という穴から血が流れ、足はガクガクふるえている。病み上がりの熊若丸だが恐るべきパンチ力、いや、突っ張り力だ。
立ち上がった加藤を見た熊若丸は内心驚いていたが、すぐに、とどめをさすべく立合いの要領で加藤に向かって突っ込んでいった。


“コスメティックもろざし”力士対空手(十三)

ごっ
熊若丸の拳は当たった。しかしそれはぬらりひょんの頭ではなく、脚に。しかもぬらりひょんの脚ではなく別の誰かの脚に当たり熊若丸が放った地鳴りのするような拳を空中で受け止めたのだ。
その脚は続けざまに槍のような蹴りを熊若丸のわき腹へ突き刺した。それと同時に、
ぼくっ
という鈍い音がした。
熊若丸は怒髪天を衝くという表情で脚の持ち主をにらみつける。
そこには黒いスーツを着て短い髪を赤色に染めた色黒の、見るからに精悍でスーツ越しにもよく鍛えられていることが伝わってくる引き締まった身体をもった、男がいた。
「最初からいたのに、気がつかなかったのかい?とんでもなく鈍い男だねぇ。彼は加藤といって私のSPだよ。一昨年空手の世界大会で優勝してねぁ、たいして大きくもない体でロシアやブラジルの190センチ、100キロを超える怪物達をばったばったとなぎ倒してねぇ、爽快だったねぇ、まったく、はははっ」
ぬらりひょんは身振り手振りを交え嬉しそうに話した。
熊若丸はぬらりひょんを無視して、その加藤と呼ばれた空手の世界チャンピオンをにらみ続けている。
「そのあとすぐひょんなことから私のSPになってくれてねぇ、一生懸命働いてくれているのだよ。ほら、現に今も私を突然暴力をふるってきた怪物のような悪漢から護ってくれた、はははっ、よく働いてくれるねぇ、まったく、ねぇ」
熊若丸は加藤から目を離さない。いや加藤の体全体から陽炎のように放たれる殺気から目を背けることなど出来なかった。
「ところで加藤君、私はまだこの怪物に襲われている最中だよ。今にも殺されてしまいそうだ、ねぇ」
笑っていたぬらりひょんの言葉が低く、落ち着いたものに変わった。
「さぁ、どうかしましたか?早く護りなさい、私を護るためにその悪漢を無力化しなければならないのならば殺したっていいんだよ」
ぬらりひょんが喋り終わるのと同時に熊若丸と加藤との間にあった“気の渦”を切り裂く、居合い斬りのような加藤の蹴りが熊若丸の顔面にむかって放たれた。


“コスメティックもろざし”(十二)

「あぁ、いえ、なんでも。……思い出しましたよ、…根来さん」
「そうですか、それはよかった」
言い終わったあと、ぬらりひょんは胸ポケットからタバコを取り出し火をつける。そして大きく煙を吐いてから熊若丸の目を見る。その目はとても冷たい目だった。
「ところで熊若丸さん、ご存知ないとは思いますけどね、実はこの草刈(くさかり)部屋はね、今日で終わりなんですよ、はははっ」
「……………えっ?」
「いやね、もうやめるんですって。親方も力士達も全員やめるって言うんですよ。はははっ、ねぇ、困ったもんですねぇ、はははっ、まったく、ねぇ」
「………………」
熊若丸はわからなかった。今日はわからない日だ。部屋の玄関を開けた時からわからない。誰も出てこなかった時も親方に無視されたことも今ぬらりひょんが言ったこともわからない。親方と力士達がやめるって言ってる?わからない。
「俺はやめるとは言ってない」
熊若丸は誰に対してでもなく口から漏れるようにつぶやく。
「あなたは“クビ”だそうですよ、はははっ、大変ですね、いやまったく、ねぇ」
「ク…ビ…?」
熊若丸はわからない。
「そう、もう二度とここに来るな。力士だったことも忘れろ、って親方が、ははははははっ、ねぇ、はははっ、はっはっはっ」
ぬらりひょんは笑っていた。心の底から笑っているようだった。のっぺりした顔いっぱいにバグ犬みたくシワを寄せている。
「…………………」
熊若丸はわからない、しかし心の底からふつふつと湧いてくる感情を感じる。といってもそれが何の感情なのかさえわからない。
こいつを殴ろう。殴り殺してやろう。熊若丸はただただ素直に、感情に身を任せることにした。
目の前で今や腹を抱えながらピクピクしているぬらりひょんに向かって岩のような拳を振り上げ、ぬらりひょんの無防備なテンプル(こめかみ)へと振り下ろした。


“コスメティックもろざし”(十一)

「お久しぶりですね、熊若丸関」
客間のソファーに座った色白の男がねっとりとした口調で熊若丸に話しかける。
「………失礼だが、あなたはどちら様で?」
「あぁ、いやはや、いやぁ、これはこれは、こちらが失礼、覚えてなくても当たり前ですよ、こっちがあなたの事をよく知ってるもんだからって、ねぇ」
「はぁ…」
「はっはっはっ、ねぇ、まったく、ねぇ」
「はぁ…」
「はっはっはっ……で何の話でしたかな?ん、ああそうだ、私は、ほら、根来(ねごろ)総理の秘書ですよ。まぁ今は代議士になりましたがね。総理がここへ稽古を見に来たことがあったでしょう。あの時、そう確か1年ぐらい前ですか、総理のお供で私もいたんですよ、ははははっ」
こいつは“ぬらりひょん”だ。
熊若丸は眼前にいる男のことを思い出した。それと同時にショック状態でぼんやりしていた脳に意識が押し寄せてくる。
1年前、正確には364日前、俺が階段の上で突然意識が飛んだ前の日、ぬらりひょんの言う通り根来総理は稽古を見学しに来た。テレビは来なかったんだよなぁ、あの時俺達は来ることを知らなかったから驚いたっけ、親方もひどく驚いてたなぁ、親方も知らなかったのか?総理はニヤニヤしながら見てて、たまにぬらりひょんと何か話してたなぁ。私語禁止なのに。稽古が終わったあと、ぬらりひょんに“ぬらりひょん”ってあだ名をつけたんだ、みんなで、楽しかったなぁ。そっくりだもんな、ぬらりひょん。そういえば総理の息子だったっけ…………。
「……熊若丸さん、どうかしましたか?」
ぼぉーっとして、よだれさえ垂らし始めていた熊若丸はぬらりひょんの声で現実へと戻った。