からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -195ページ目

“コスメティックもろざし”代償いらんかね(二十五)

「根来さん、こいつどうします?」
暖簾に左手で手をかけた根来が背中越しに応える。
「どうって、別にもうなにもしなくていい。ほらあれだよ」
「こんなやつ、ほっておけ」
「ほっておけ」
根来と芽賀の声が重なった。
「ははっ、その通り。ほっておきなさい。心配しなくてもいい。なにも出来やしないのだから」
そういって根来は芽賀が開けた暖簾をくぐり出ていった。
芽賀は暖簾をくぐる前にちらりと熊若丸を見た。
「…どこに訴え出ても無駄だからな。せいぜい無駄に生きるんだな。もし死にたいと願うなら、崖なりマンションなり電車なり、飛び込む場所は夜空に瞬く星ほどあるんだぜ」
言い終わると芽賀は歩を進め足早に根来を追って行った。
稽古場に独り残された熊若丸。溢れる涙さえ力無く頬をナメクジのように伝う。しかしその力無い涙には熊若丸の全て、今まで自分が自分であることを証明出来ていたもの、が溶けて流れ出ていた。
涙が枯れ、全てが無くなった時、熊若丸の意識は消えた。


目覚めたのは病院のベッドの上だった。なんでも路上で倒れていたところを救急車で運ばれたとか。
皮肉なことに何故路上で倒れていたのかは記憶にないが、部屋で起こったことは忘れたくてもはっきりと脳裏に焼き付いている。
3日ほど入院し熊若丸は田舎へ帰った。生きる元気は無かったが死ぬ元気も無かった。
帰るまでに見た、注射針、点滴、紙で手を切った看護士、見たこと無い形のハサミ、銀色、包帯、ゴムチューブ、血圧、車椅子、入院、退院、急患、車輪、速度、落とした切符、重力、倒れてきたシート、通らない改札、発車音、警官、缶コーヒーのポスター、睨みつける目、子供、木、ちょうどいい枝、大型工具店、マネキン、天丼屋の看板に描かれたエビ、仏具と釣具屋のあいのこ、干からびたカエル、爆竹を抱いたトンボ、降ってくる暗い気分に熊若丸は怯えた。
怯えながらもなんとか実家へ辿り着くと、突然の帰郷とやつれ果てた姿に驚いた父母は、それでもやかましいほどの無償の愛で熊若丸を包んだ。それは心に開いた大きな穴を少しずつ埋めていくのには十分過ぎるほどであった。


“コスメティックもろざし”(24)

首吊りから解放された熊若丸。しかし下肢は震え、地に立つことはかなわず、へにゃり、と女座りの体勢を維持するのがやっとだ。…その姿はどことなくセクシー…なわけない。
それでも目は死んでいない。鋭く睨む。その先には、
「きさまぁ」
と、叫ぶ、右手が垂れ下がり、突っ張りとひっかきにより顔の穴という穴から血を流している芽賀がいた。
両者とも満身創痍。端から見れば芽賀の方が重傷だ。実際、熊若丸の事故によって出来た傷があるとはいえ、そうである。だがどちらが優位に立っているかというならば誰もが芽賀だというだろう。仁王立ちする芽賀。足に力が入らず、あまつさえ半分飛んで意識朦朧としている熊若丸。万事休す。
芽賀が熊若丸の顔面を踏み潰そうと足を上げた。
「そこまで」
熊若丸の顔面からぴたり18センチ。芽賀の足は止まった。
「そこまででいいでしょう。ラニオ君の勝ちだ。ほらほら、どうして僕を止めるんです、って顔してないで。君は勝ったよ、圧倒的にね。満足しなさい。ねぇ。右腕も折られたのではなく自分で折ったようなものだし、ねぇ」
根来の言葉に従い芽賀はゆっくり足を戻した。
「そうそう、それでいいんだよ。殺したら意味がないんだ」
熊若丸は依然として芽賀、その後ろの根来を睨みつけている。ほとんど無い意識は本能によりその大部分を闘争心へとまわしている。熊若丸の睨みは全生命力をかけた睨みなのだ。
「こいつはねぇ、今まで勝ち続けた人生を歩んできたんだよ。自分の力だけでね。私はそういうやつが大嫌いなんだ、わかるよねぇ、ラニオ君。ねぇ」
根来は手を叩いて笑いだした。
「ははははははっ、ねぇ、おそらく負けたことなんて無かったのだろう?負けを意識したことは。それがどうだ、今、こいつは惨めさ。震えて睨むことしか出来ない、ラニオ君、君は知っているだろう?この目は負け犬の目さ。何も出来ずにただ見ているだけの負け犬の目だ。熊若丸、君は負けたのだ。敗れさった。このラニオ君にね。天と地ほども差があったラニオ君に全力を尽くしてもかなわないのだ。どうだい?初めての負けは?どんなに睨んでも君は圧倒的に負けているのだよ。現にその気になったなら今殺せるんだ。でも君はこれからずっと惨めに生きてゆくのだよ。楽しみだろ?私は楽しみだねぇ。ははははははっ。君に惨めは似合わないからねぇ、似合わないことは愉快だねぇ、ははははっ、ねぇはははははっ、ははぐっ、ぐっくく………………」
根来は腹をよじれるだけよじらせたあと、急に背筋をぴんと伸ばした。
「はぁ~あ。…………理解出来たみたいだし。さて帰りますよ」
根来はスタスタと出口へと歩いていった。
熊若丸の目から力は失せ、代わりに涙が溢れていた。


“コスメティックもろざし”(二十三)

熊若丸の首は………ギリギリだが無事だ。
では今の音はどこからしたのだろうか?
「おっおっおっ…」
芽賀の右手が熊若丸の首から外れ、わずかに肩の付け根あたりは空へと突きだしているが、まさしく象の鼻のようにだらりと垂れた。
「…ん、………力に耐えきれず骨が恋人達の唇と唇のあいだを橋渡ししているスティック菓子のようにポキリといっちゃいましたか。まだまだ実戦では…ということか。だが自らの骨を折るほどの力を引き出せたのはよし、か。それに」
ぶつぶつと根来がつぶやく。声は小さく、闘っている二人には聞こえていない。
「痩せたとはいえ100キロ以上はある熊若丸を左手一本で支えている。突っ張りのダメージも痛みも感じてないようだな…ははっ、完成が楽しみだ」
芽賀は右腕が折れ、肩関節も脱臼したにも関わらず、なんら変わることなく左手一本で熊若丸を吊している。
だがやはり両手の時とは勝手が違う。ほんの少しだが熊若丸の体が空いた右手側のスペースへとずれた。
熊若丸の目に力が戻る。
熊若丸は芽賀の、自らを捕捉している左手の親指を右手で掴み、外側に向かっておもいきり捻ろうとした。本来ならば掴まれた親指を中心に、手首は内側に返り、尺骨の可動域を超えた力は肩から肩甲骨、あばら、骨盤、ひざへと伝わり、為す術無く地を転がるはずである。
だが、芽賀はそうならない。芽賀の怪力によるものか熊若丸の青息吐息による力不足がそうさせたのかはわからないが、親指は動かなかったのだ。
ジタバタとあがく熊若丸。
しかし段々と動きが弱くなっていく。
熊若丸は狭くなる視界の中に芽賀の目を見た。その目は闇のように暗い。ふと悲しくなった気がした。
熊若丸は無意識に芽賀の目に手を伸ばす。
「うっ」
熊若丸の指が芽賀の目をひっかいた。
条件反射で芽賀の体がくの字になる。
さすがに力が抜けたか、熊若丸の体は芽賀のネックハンギングから滑るように脱した。


“コスメティックもろざし”(二十二)

ドン
しっかり腰を落とした熊若丸は芽賀を両手で押し出した。
体勢の崩れている芽賀は為す術もなく土俵を割る。
「ぬぅ」
根来と芽賀、同時に憤怒の声を漏らす。
熊若丸は手を止めた。
「勝った」という思いと自分の新しい相撲の完成に打ち震えていた。
だがしかし、勝負はまだ終わっていなかったのだ。
芽賀は動きの止まった熊若丸の両まわし、着けているのはジャージであるが、を取ると一気に頭上へ持ち上げる。持ち上げるというよりもふわっと投げられたように感じた。それと同時に2、3歩前へ走り、おもいきり熊若丸を土俵に叩きつけた。
ゴゴン
熊若丸は背中を、次に後頭部を土俵に打ちつけた。
パワーボムだ。
熊若丸は決して受け身が取れないわけではない。しかし油断していたところに突然仕掛けられ、しかも相撲では受けたことのない技に受け身のタイミングを合わせることが出来なかった。
ましてや衝撃を吸収するマットの上ではなく固い土、コンクリートのように固い場所に、芽賀の象の鼻よりも太い両腕から繰り出される力によって、である。
それでも熊若丸は手足をジタバタさせている。しかしその手足に力は無く、明らかに焦点の合っていない目は空を漠然と見つめている。
「おいおい、言わなかったか?俺は力士じゃないんだぜ、ただの根来さんのSPさ。いったいいつ勝負が決まったんだよ?」
芽賀は喋りながら熊若丸をまたぎ、顔を覗き込む。
「へっ、飛んじまったかい?…でもまだ終わりじゃないよな」
芽賀は両腕で熊若丸の首をつかみ、またしても一気に頭上へと持ち上げる。
「ほら、逃げないと死んじまうぜ」
熊若丸は漁師の肩からぶら下げられたタコみたいに、
ぶらぁん
としている。
「…………ふん、あっけないもんだな」
芽賀は両腕に力を込めた。
メリメリ
熊若丸の首の骨が軋む。
そして、
バキッ
竹を割ったような音が静かな稽古場に響いた。


“コスメティックもろざし”(二十一)

不意をつかれた芽賀は熊若丸の突っ張りに対応出来ずもらい続けている。
熊若丸は自分の足が二度と事故以前の力強い足に戻ることはないと、医者の説明や歩くことすらままならぬリハビリの日々から悟った。足にかかる負担を減らすため体重も落とさなければならない。これらは相手を力でねじ伏せる熊若丸にとって“相撲”を失ったに等しい。
相当のショックを受けたはずだが、熊若丸はリハビリ中スーパーポジティブシンキングの波を泳いでいた。
上半身は無事だ。ならば上半身を鍛えて勝ってやる。
熊若丸は突っ張りに活路を見いだした。
そうと決めたらあとは行動するのみ。熊若丸は毎日突っ張りの稽古をした。
手に10キロ(熊若丸にとっては常人の1キロぐらいの重たさ)のダンベルをくくりつけて空中を張る。それを延々と繰り返す。リハビリが進み、なんとか足を使えるようになると、医者からは反対されたが、足を使いシャドーボクシングのように動いた。全身を使った動きのほうが時間を効率よく使える気がしたからだ。そのほか腹筋や背中のトレーニングもでたらめにやり続けた。連日床いっぱいに汗だらけである。
そして日々が過ぎ、相撲を再開する時がきた。
熊若丸は見事50キロの減量に成功しヘビー級ボクサーのような体になっていた。
ただし、腹まわりはその倍はある。多少皮下脂肪もあるが腹筋がぶ厚いのだ。
この日々の成果が今日結実した。
熊若丸の突っ張りは激しさを増し、芽賀の顔、顎、肩、胸に襲いかかる。
バコバコバコバコバコバコバコバコバコバコバコバコバコバコバコ
この男はこと相撲になると手加減というものを知らない。常人ならば何度死んだかわからない。
完全に体が浮いてしまった芽賀は、それでもなんとか体重を熊若丸のほうへかけるのだが、徐々に後ろに下がってゆく。
芽賀の相撲勘の悪さをけなすべきか、それとも突っ張り、張り手の嵐を浴び続けても倒れないスーパータフを褒めるべきか。
ついに芽賀の足が俵に触れる。
「勝った」
勝利を確信した熊若丸はとどめの一撃を放った。