からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -194ページ目

“コスメティックもろざし”(三十)

近づいてくる猪熊に知子は怖じ気づいていた。
「ヤバい、ヤバすぎる」知子はそう思っている。が、体は反対に猪熊に向かって行く。
距離は1メートルに満たない。
今度はにらみ合わず、知子がいきなり猪熊の胸ぐらを掴んで、顔を思いっきりグーで殴った。
ペキッ
「痛っ」
知子の右手首が岩のように固い猪熊の顔面に悲鳴をあげた。
知子は痛みを全力でアピールする右手首に視線を落とす。
関係無しに猪熊の右腕が体の後ろへと引かれる。殴る気だ。
右腕の緊張が最高潮に達しようとした刹那、
「わぁ~、だめだめ、駄目よ、猪熊先生」
と言いながら2人の間に割って入った人物がいた。
猪熊の理性は飛んで、なにもかもわからないような状態なのだが、この人物の声は脳内にすっと入ってきた。
周りでざわめいている、周波数の合っていないラジオからながれている雑音のような声と比較して、声が若くないのだ。
猪熊はその人物の顔を見る。この行動には理性がある。遙か遠くから戻ってきたみたいだ。
目の前には先程体育職員室で談笑していた人がいた。「私が一番若かったのにぃ」と言っていた人だ。その人は笑みを浮かべて、
「駄目よ、猪熊先生。女の子はか弱いのよ、あなたが叩いたら吹き飛んじゃいます」
と、言った。
「メイ子…じゃなくて先生!でもそいつもう知子を投げ飛ばしやがったんだ!」
観衆の中の誰かが言った。
猪熊ははっとして周りを見渡す。周りには人だかりが出来ている。どうやら両隣の教室からもこの騒動を見に来ているらしかった。
「あら、ミチコの物言いだと、もう既に1回吹き飛ばされたのだからもう1回ぐらいなんちゃない、っていう風に聞こえるわね」メイ子先生は笑顔だ。
それだけで周りの空気が安心に満たされていく。
「せっ先生ぇ~」
ミチコと呼ばれた生徒は所在無さげにつぶやいた。
教室内にうっすらと笑いが伝わる。
「ふふっ、はい、じゃあ2人ともとりあえずついてきなさい。みんなは他の先生の指示があるまで自習ね」
メイ子先生の指示に生徒達は息を吐き吐き座席に戻ってゆく。この人が言うのならしょうがない。そういう雰囲気だ。
「ほら、行きましょう」
メイ子先生は2人を促して先に教室を出てゆく。
猪熊はばつの悪そうな足取りで教室を出る。
知子はぐしゃぐしゃになった髪の上から頭を掻いて、それでも出来うる限りすまして教室を出た。


“コスメティックもろざし”(二十九)

ぎろりと睨みながら、猪熊はその生徒に近づいてゆく。
その顔は教室に入ってきた時の笑顔からは想像も出来ない、暗く、憎しみさえ称えた暗黒の面構えだ。
その生徒は近づいて来る巨体にも動じた様子を見せず椅子に座ったまま猪熊をねめあげている。
猪熊の足が止まる。
2人の距離は1メートルに満たない。
数瞬の視殺戦。
猪熊の圧力に耐えられなくなったか、その生徒が、
「なんだよ、てめぇ、ブタのくせしてうぜぇんだよ」
と、言い放った。
言い終わるとほぼ同時にその生徒は宙に浮いた。あろうことか彼女の机も彼女の太ももに乗っかり一緒になって浮いた。
猪熊がその生徒のシャツの胸辺りを掴み、一気に頭上高くまで持ち上げたのだ。もちろん片腕で。
あぁ、なんて丈夫なシャツなのだ、ブラも透けて見えるほどなのに。
はぁ、破けたならアレがあーなったりこーなったり、下手したら蛇の舌みたいにちょろっと…………。
ではなく、猪熊の手はシャツを掴んだ瞬間、その大きな手のひらと、ぼろぼろになりながらも体に残っている強烈な握力により、たくさんの布地を手の中に巻き込んでしっかりと相手を固定する。
従って背中の布地は襟の下から尻の裂け目…もといスカートに吸い込まれる直前まで左右から引っ張られ紅海の如く真っ二つに割れている。それでも張り詰めた布地はボンレスハムを縛るたこ糸のようにその生徒の体を縛りつけている。
爆発的な瞬発力、相手の体をコントロールするテクニック。
それら相撲で培ったものと、自身と相手の呼吸のタイミングを最高の瞬間で合わせることによりはじめて出来る至極の芸当なのだ。
長いブランクがあるのに、しかもプッツンしているのに、当然の如くこんな芸当が出来るとは。やはり猪熊という男は怪物である。
その生徒は空中で止まっている。
口を開けてこっちを見ている友達と目が合った。

まだ合っている。

太ももの肉がにじっていく感覚があった。
ガシャン
机が床に落ちた。
と同時に、猪熊はその生徒をぶん投げる。容赦なく。
その生徒は回転した。
新体操のリボン、能役者が振り回す着物の袖の動きが如く、回転の中心である胸の辺りが止まって見える。
その生徒は肩甲骨を床に腰を壁に打ちつけて止まった。スカートはギリギリパンツを守っている。
床と壁に打ちつけられた勢いは凄かったのだが不思議と音はしない。打ちつけられたというよりも、すっぽりはまった、というような感じだ。
その生徒は自身がどうなっているのかわかってないのだろう。きょとんとしている。
「きゃあぁぁぁぁああぁ」
ことが始まって初めて周りから声がしてざわめき始めた。
「と、知子ぉ」
どこからか声がした。投げられた体勢のままの生徒がその声に反応する。
猫の如く体を捻り立ち上がる。どうやら体は大丈夫なようだ。
「てめぇ、ブタクマぁ」
知子と呼ばれた生徒はここで引いたら面目を失うことを知っている。情けない姿を見せたら今後の学校生活に支障をきたす恐れがある。
それを聴いた猪熊はこめかみをピクリと動かし再度その生徒、知子に近づいていった。


“コスメティックもろざし”これが大切なんです(二十八)

「えー、この度、このクラスの保健体育を担当することになった猪・熊・健・一です。」
名前を名乗りながら黒板に名前を書く。
振り向いて、
「今後ともよろしく」
生徒達はポカーンとしてその様子を眺めている。
「ではさっそく授業を始めますので教科書を用意してください」
猪熊先生の新学期最初の授業は休みの思い出を語る、と、新しくやってきた先生の最初の授業はコミュニケーションを図ることに費やす、の暗黙の了解をダブルで破る宣言にクラスの3分の1が反応する。
「え~、ちょっと待ってよ」
「教科書取ってきてねぇです」
「先生独身でしょ!?」
「全然イケてなぁい。最悪ぅ」
猪熊先生の笑顔にとっつきやすさを見出した生徒達、互いに予定調和なのだが、いいリアクションだ。
猪熊はさりげなく教室を観察する。
残りの3分の1は隣の友達と喋るのが忙しく、3分の1は文庫本を読んだり漫画を読んだり書いたり教科書に落書きしたりぽげぇっと窓の外を見ていたり午睡を楽しんでいたり詩を書いたりと自分のことで忙しい。
特に前の学校と変わらないな。男子校と女子校だからか?
猪熊は初めて見た女子高生だらけの光景の中に見覚えのある雰囲気を見つけて安堵感を覚えた。
「君達、学校は学ぶ場所だよ、君達一体何しに学校へ来ているのだ」
真剣な顔で叱る、フリをする。
「遊ぶ約束をする為です」
「将来立派なお嫁さんになるからでしょ」
「まずは先生のこと学びたいです」
「おっ、その発言ヤバくね」
「きゃはははは」
無駄に陽気、そして無邪気。
「しょうがないな、じゃあ何か質問ありますか?そういえば私も君達のことを知らなきゃならないしね」
と、猪熊が笑い声の隙間を縫って、これまた予定調和に語りかけた時、
「うるせぇよ、ご機嫌伺いやがって。むかつくんだよ!」
教室の後ろの方から怒鳴り声が響いた。
ワイワイガヤガヤしていた教室内が、ホコリひとつ落ちる音が聞こえてきそうなほどに静まり返った。
猪熊もただただ声がした教壇から真っ正面の最後尾を見ている。
教室を見渡した時に右左の隅々までは見たのだが、灯台下暗しとでも言うのかそこの空白部分に、いわゆる“イケてるグループ”と思われる、学生の力関係におけるヒエラルキーのトップ達が固まっているのにまるっきり気づかなかった。
剛の者である猪熊は大して驚いてはいない。怒鳴り声の大きさや内容は蚊に刺されたぐらいの感覚でしかない。
だが猪熊は真面目なのだ。
教師としてこの場をどうすればいいのか。怒る、叱る、諭す、無視する、どれが相応しい対応なのか。教師歴半年に満たない猪熊の思考は一時停止していた。
そこに出来た数瞬の間に、
「ブタみたいな顔しやがって、このブタクマが」
と、先程と同じ人物の声がした。
虎の尾を踏む、という言葉がある。
猪熊は誰にも触れられたくない、思い出すことさえ無意識に拒み続けている、が、確実に自分の後ろにひっついている暗いドロドロした尻尾を突然踏まれた。
これまで猪熊のことをブタクマと呼んだのはあの芽賀だけだったのだ。
知らずしていちゃもんをつけた生徒には、猪熊の理性がマチュピチュまで吹き飛んだことなどわかるはずがない。


“コスメティックもろざし”(二十七)

太陽が夜を減らしきり、人々のつむじを見下ろした頃、猪熊の「新しくやってこられた先生からみなさんへの言葉」は無事終わり、学期始めの朝礼は校長の長い話を最後に終わった。
生徒達はおなかを鳴らしながら教室や学食や校庭に出張してくるパン屋や近くのコンビニ、ハンバーガーチェーン店へと思い思いに散っていき、午後の授業や部活に備える。
飢えた女子高生のうねり。ダイエットという言葉は禁句、それがルールだ。
ほとんどの職員は学食に行くか弁当を食べている。どこにいっても生徒に見られているからだ。学食は学校内であるから教師でいられるが、外に出れば当然ただの一般人、ただの客になり、生徒と同じ立場になる。それが嫌なのだ。下手をしたら面目を失いかねないと考えている。
猪熊も朝、おにぎり屋さんで買った天丼弁当を体育職員室で食っていた。
体育職員室で同僚になった体育教師達と談笑しながら食べる。女子校であるから体育教師であっても女性が多い。というより猪熊以外女性だ。猪熊は彼女達の、
「力士だったんだって?」
「どうしてくれるのよ、私が1番若かったのに」
「男の先生が来るのは2年ぶりなのよぉ」
「みんなすぐ辞めちゃうのよね、生徒とデキちゃって」
「猪熊先生はどうします?」
「あらいやだ、お茶かコーヒーかってことですよ」
といった他愛もない会話に、一瞬、ちゃんこ鍋を囲んで馬鹿話をしあった日々が脳裏をかすめた。
しかし矢継ぎ早に飛んでくる質問やからかいに対するリアクションに忙しく、思い出に浸ることは無かった。それは猪熊を少しほっとさせた。
あっという間に授業の時間になり、熊若丸も担当のクラスへと向かう。
教室へ繋がる長い廊下を歩いていると猪熊はウキウキしている自分に気づいた。
「生徒とデキて辞めていくってのはまんざら冗談じゃないのかもな。過去に実際あったのかもしれん」
そんなことを思っていたら目的の教室を行き過ぎてしまった。
教室内はクスクスと笑いが起きている。
しまった、と、思ったものの、それでもまだ猪熊はウキウキしていた。男社会の中で過ごしてきた猪熊には、笑顔の花が咲いている教室内が夢の世界に見えた。
教室に入り教壇に立つ。
この後起こる出来事、そしてその後の猪熊からは想像出来ない笑顔をつくり、挨拶をした。


“コスメティックもろざし”(二十六)

時間はなにをしていても過ぎる。裏切らない。
時間が運ぶ父母の愛に包まれて、少しずつ熊若丸もとい猪熊の心と体は明るい方へと向かっていった。
何度か警察や裁判所に根来のことを訴えようと考えたがやめた。無駄だと言っていたし、そう思ったし、そう考えた。
ある日の朝、まともな生活をする意欲がぽこりと、乳海攪拌による泡沫より生まれ出た女神のよう、湧いた。3年の月日が経っていた。
明るい表情をつくることも出来るようになり、もちろん心には決してぬぐうことの出来ない暗いものがあるが、仕事を探し始めた。
探し始めるとすぐに近くの高校で採用された。猪熊は大学で教員免許を取っていたのだ。
私立、そして地元とはいえあまりにすんなり採用されたことに驚いた猪熊だが、すぐにその理由がわかった。
端的に言うならばコネなのだが、およそ3年前から、猪熊が生きながらにして死人のような時間を過ごしている間、父が古くからの友人である理事長に、いつかここで雇ってくれ、と、頭を下げ続けていたことが当の理事長により明かされた。
父は対等であるからこそ存在した友情や厚い思い出を猪熊の為に捨てた。
猪熊は強烈なショックを受けた。なんともいえない気持ちが猪熊を包む。感謝でもあり怒りでもある。あの日以来猪熊に住み着いた“もうひとりの自分”は不甲斐ない猪熊を嘲笑う。この3年間いつも一緒に嘲笑ってきたのだ。
だが猪熊は嘲笑わなかった。心に刻まれたショックはそれ以上に大きかった。
還暦もとうに過ぎ、確実に老いた父母の小さく見える背中が曲がり頭を下げている。
ここから出なければ。この暖かな環境から出て、自立した自分を見せることが一番の孝行だ。
理事長から話を聞いた日の夜、すなわち初出勤の日の夜、ちいさな丘になっている公園のベンチに座りながら猪熊は決めた。
その瞳は古ぼけた街灯の薄暗い光でもわかるほど光っていた。涙ではない。目標を決めた人間の目の輝きだ。
「なんか体が軽くなったな」
猪熊はそうつぶやき、月夜を上を向いて家路についた。
教師になって初めての夏休みが終わる頃、猪熊は東京にいた。
八畳一間の「伊菜(いな)荘」201号室の中で明日全校生徒の前で話す「新しくやってこられた先生からみなさんへの言葉」の内容を考えていた。