“コスメティックもろざし”(二十六) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

“コスメティックもろざし”(二十六)

時間はなにをしていても過ぎる。裏切らない。
時間が運ぶ父母の愛に包まれて、少しずつ熊若丸もとい猪熊の心と体は明るい方へと向かっていった。
何度か警察や裁判所に根来のことを訴えようと考えたがやめた。無駄だと言っていたし、そう思ったし、そう考えた。
ある日の朝、まともな生活をする意欲がぽこりと、乳海攪拌による泡沫より生まれ出た女神のよう、湧いた。3年の月日が経っていた。
明るい表情をつくることも出来るようになり、もちろん心には決してぬぐうことの出来ない暗いものがあるが、仕事を探し始めた。
探し始めるとすぐに近くの高校で採用された。猪熊は大学で教員免許を取っていたのだ。
私立、そして地元とはいえあまりにすんなり採用されたことに驚いた猪熊だが、すぐにその理由がわかった。
端的に言うならばコネなのだが、およそ3年前から、猪熊が生きながらにして死人のような時間を過ごしている間、父が古くからの友人である理事長に、いつかここで雇ってくれ、と、頭を下げ続けていたことが当の理事長により明かされた。
父は対等であるからこそ存在した友情や厚い思い出を猪熊の為に捨てた。
猪熊は強烈なショックを受けた。なんともいえない気持ちが猪熊を包む。感謝でもあり怒りでもある。あの日以来猪熊に住み着いた“もうひとりの自分”は不甲斐ない猪熊を嘲笑う。この3年間いつも一緒に嘲笑ってきたのだ。
だが猪熊は嘲笑わなかった。心に刻まれたショックはそれ以上に大きかった。
還暦もとうに過ぎ、確実に老いた父母の小さく見える背中が曲がり頭を下げている。
ここから出なければ。この暖かな環境から出て、自立した自分を見せることが一番の孝行だ。
理事長から話を聞いた日の夜、すなわち初出勤の日の夜、ちいさな丘になっている公園のベンチに座りながら猪熊は決めた。
その瞳は古ぼけた街灯の薄暗い光でもわかるほど光っていた。涙ではない。目標を決めた人間の目の輝きだ。
「なんか体が軽くなったな」
猪熊はそうつぶやき、月夜を上を向いて家路についた。
教師になって初めての夏休みが終わる頃、猪熊は東京にいた。
八畳一間の「伊菜(いな)荘」201号室の中で明日全校生徒の前で話す「新しくやってこられた先生からみなさんへの言葉」の内容を考えていた。