“コスメティックもろざし”(三十) | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

“コスメティックもろざし”(三十)

近づいてくる猪熊に知子は怖じ気づいていた。
「ヤバい、ヤバすぎる」知子はそう思っている。が、体は反対に猪熊に向かって行く。
距離は1メートルに満たない。
今度はにらみ合わず、知子がいきなり猪熊の胸ぐらを掴んで、顔を思いっきりグーで殴った。
ペキッ
「痛っ」
知子の右手首が岩のように固い猪熊の顔面に悲鳴をあげた。
知子は痛みを全力でアピールする右手首に視線を落とす。
関係無しに猪熊の右腕が体の後ろへと引かれる。殴る気だ。
右腕の緊張が最高潮に達しようとした刹那、
「わぁ~、だめだめ、駄目よ、猪熊先生」
と言いながら2人の間に割って入った人物がいた。
猪熊の理性は飛んで、なにもかもわからないような状態なのだが、この人物の声は脳内にすっと入ってきた。
周りでざわめいている、周波数の合っていないラジオからながれている雑音のような声と比較して、声が若くないのだ。
猪熊はその人物の顔を見る。この行動には理性がある。遙か遠くから戻ってきたみたいだ。
目の前には先程体育職員室で談笑していた人がいた。「私が一番若かったのにぃ」と言っていた人だ。その人は笑みを浮かべて、
「駄目よ、猪熊先生。女の子はか弱いのよ、あなたが叩いたら吹き飛んじゃいます」
と、言った。
「メイ子…じゃなくて先生!でもそいつもう知子を投げ飛ばしやがったんだ!」
観衆の中の誰かが言った。
猪熊ははっとして周りを見渡す。周りには人だかりが出来ている。どうやら両隣の教室からもこの騒動を見に来ているらしかった。
「あら、ミチコの物言いだと、もう既に1回吹き飛ばされたのだからもう1回ぐらいなんちゃない、っていう風に聞こえるわね」メイ子先生は笑顔だ。
それだけで周りの空気が安心に満たされていく。
「せっ先生ぇ~」
ミチコと呼ばれた生徒は所在無さげにつぶやいた。
教室内にうっすらと笑いが伝わる。
「ふふっ、はい、じゃあ2人ともとりあえずついてきなさい。みんなは他の先生の指示があるまで自習ね」
メイ子先生の指示に生徒達は息を吐き吐き座席に戻ってゆく。この人が言うのならしょうがない。そういう雰囲気だ。
「ほら、行きましょう」
メイ子先生は2人を促して先に教室を出てゆく。
猪熊はばつの悪そうな足取りで教室を出る。
知子はぐしゃぐしゃになった髪の上から頭を掻いて、それでも出来うる限りすまして教室を出た。