“コスメティックもろざし”〈三十五〉
「今だ」
体育職員室から最後の教師が出てきたのを見届けた知子は足音を消し、開ける時、ギギィ、と音が鳴る体育職員室の扉を細心の注意を払い、しかし大胆に開けて中に入った。
「よし、誰もいない」
確認した知子は一気に目的の場所に近づく。
いつ誰が帰ってくるかわからない。仕事は早ければ早いほどいい。
おもむろに三段目の引き出しを掴み、引っ張る。
カチャカチャいう音だけが響く。
当然の如く鍵は掛かっている。
ならばと知子は一段目の引き出しを掴み、引っ張った。
カチャリ
………………なんと一段目の引き出しにも鍵が掛かっていて開かない。これでは三段目の引き出しを開けることが出来ない。万事休す。
知子は数瞬動きを止めた。
しかし次の瞬間、カバンの中からマイナスドライバーと木槌を取り出した。
こんな事もあろうかと休み時間に校舎の裏手にある用具置き場から入手していたのだ。
知子の心の内は、空き巣のはずが住人に見つかり強盗へと変わる泥棒、の心境に似る。
罪が重くなろうが今の状況を打破出来ればそれでいい。
知子は片膝を立てて、マイナスドライバーを三段目の引き出しの鍵口にあてる。
ほんとにこんなんで開くのかな?
映画でありそうじゃない。
結構な音が出ると思うわ。
この際しょうがない。
気合い、気合いさえ込めればなんとかなるわ。
オラァァァアアァァァ
知子は脳内で叫びながら木槌をマイナスドライバーの尻に向かって振り下ろした。しかし木槌が速度を得たまさにその時、
ガチャ…ギギギギィ
体育職員室の扉が勢いよく開く音がした。
「し、しまったぁ」
声には出さず、ただただギョッとした顔で扉の方を振り返る。
音を聞いた瞬間から知子は、交通事故にあった人が語る事故にあう直前のスロモーションな感覚に入った。
扉の方へと振り返る僅かな間に、木槌がマイナスドライバーへ“ゆっくり”振り下ろされていくのを見た。
止めなきゃ。
知子は思い、右腕に命令する。
が、右腕は止まらない。
まずい。
知子は段々とマイナスドライバーの尻に近づいていく木槌を見ながら“考え”た。
これならどうだ。
知子が扉を振り返り見た時、木槌はマイナスドライバーの尻…ではなく、親指の付け根を叩いた。
考えた通り木槌の軌道をズラすことには成功したのだが、
「あつっ」
激痛に貫かれた知子は振り返ると同時に左手をお腹に押し当ててうずくまってしまった。
さすがにここまでは考えが及ばなかったようだ。
はっと我に帰った知子は冷や汗が場所を問わず体全体から流れ出ていることを知覚する。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう…
知子は顔を上げることも出来ずにその場で固まってしまった。
「あら、知子じゃない。ちょうどよかった、あなたのこと捜してたのよ」
体育職員室に入ってきた人物が、土下座に近い形で動かない知子に話し掛けた。
続
体育職員室から最後の教師が出てきたのを見届けた知子は足音を消し、開ける時、ギギィ、と音が鳴る体育職員室の扉を細心の注意を払い、しかし大胆に開けて中に入った。
「よし、誰もいない」
確認した知子は一気に目的の場所に近づく。
いつ誰が帰ってくるかわからない。仕事は早ければ早いほどいい。
おもむろに三段目の引き出しを掴み、引っ張る。
カチャカチャいう音だけが響く。
当然の如く鍵は掛かっている。
ならばと知子は一段目の引き出しを掴み、引っ張った。
カチャリ
………………なんと一段目の引き出しにも鍵が掛かっていて開かない。これでは三段目の引き出しを開けることが出来ない。万事休す。
知子は数瞬動きを止めた。
しかし次の瞬間、カバンの中からマイナスドライバーと木槌を取り出した。
こんな事もあろうかと休み時間に校舎の裏手にある用具置き場から入手していたのだ。
知子の心の内は、空き巣のはずが住人に見つかり強盗へと変わる泥棒、の心境に似る。
罪が重くなろうが今の状況を打破出来ればそれでいい。
知子は片膝を立てて、マイナスドライバーを三段目の引き出しの鍵口にあてる。
ほんとにこんなんで開くのかな?
映画でありそうじゃない。
結構な音が出ると思うわ。
この際しょうがない。
気合い、気合いさえ込めればなんとかなるわ。
オラァァァアアァァァ
知子は脳内で叫びながら木槌をマイナスドライバーの尻に向かって振り下ろした。しかし木槌が速度を得たまさにその時、
ガチャ…ギギギギィ
体育職員室の扉が勢いよく開く音がした。
「し、しまったぁ」
声には出さず、ただただギョッとした顔で扉の方を振り返る。
音を聞いた瞬間から知子は、交通事故にあった人が語る事故にあう直前のスロモーションな感覚に入った。
扉の方へと振り返る僅かな間に、木槌がマイナスドライバーへ“ゆっくり”振り下ろされていくのを見た。
止めなきゃ。
知子は思い、右腕に命令する。
が、右腕は止まらない。
まずい。
知子は段々とマイナスドライバーの尻に近づいていく木槌を見ながら“考え”た。
これならどうだ。
知子が扉を振り返り見た時、木槌はマイナスドライバーの尻…ではなく、親指の付け根を叩いた。
考えた通り木槌の軌道をズラすことには成功したのだが、
「あつっ」
激痛に貫かれた知子は振り返ると同時に左手をお腹に押し当ててうずくまってしまった。
さすがにここまでは考えが及ばなかったようだ。
はっと我に帰った知子は冷や汗が場所を問わず体全体から流れ出ていることを知覚する。
どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう…
知子は顔を上げることも出来ずにその場で固まってしまった。
「あら、知子じゃない。ちょうどよかった、あなたのこと捜してたのよ」
体育職員室に入ってきた人物が、土下座に近い形で動かない知子に話し掛けた。
続
“コスメティックもろざし”(34)
「これは没収する、学校に持ってくる必要はないからな」
ブタクマの宣告に知子は泣きそうになった。
「ちょっと待ってよ、こんなのみんな持ってきてんじゃん。ここは女子校だよ?あんたわかってんの?こんなの問題にすんのあんただけだよ、他の人は見逃してるじゃん」
「ふん、運が悪かったな」
ブタクマは知子の訴えを鼻息で吹き飛ばす。
知子、いや全生徒はブタクマが異常に厳しく“密輸”を取り締まり、一度ブタクマに没収されたものはもう二度と手元に戻ってこないことを知っている。
100円のマニキュアやブランドの香水、おもちゃみたいなピアス、アイドルのCD、マンガ、ゲームソフト、官能小説、それらがごっちゃになってブタクマの机の三段目の引き出しに詰め込まれている。卒業したら返されるようだが、実際に返された者の話は聞いたことがない。ブタクマがこの学校に来てまだ卒業生を担当していないこともあるが。
ブタクマは一段目の引き出しから鍵を取り出して三段目の封を解く。
手には知子から没収した化粧品でパンパンに膨らんだポーチ。
それを投げ入れ、引き出しを閉じる。
「あぁーふざけんな、返せ」
知子の声は無視され、カチャリと鍵は閉められた。
「今回はこれだけだ。早く教室に行け。ホームルームが始まるぞ。」
そう言ってブタクマは体育職員室の扉を指差す。
「くっ」
知子は奥歯を噛み締めて体育職員室を出た。
「あぁどうしよう…アレがないと……」
知子は絶望しながら廊下を歩く。そして、
「やるしかない」
という言葉が浮かんだ。
盗んでやる、いや取り返すんだ。
知子は静かに決意した。
当たり前のことだが、今まで誰もブタクマの引き出しの中から密輸品を取り返そうとした者はいない。
計画だけなら、ブタクマの犠牲者ならみんな考えた。体育職員室が空くタイミングも、鍵の位置も生徒であるならば知っている。
しかし、実行中にブタクマ或いは他の教師に見つかる可能性、それに引き出しから無くなったものにより犯人がわかってしまうというリスクの前にその計画は諦めざるを得ない。下手したら退学もあり得るのだ。
たとえ引き出し丸ごと盗んだとしても、教師達はもちろん、他の犠牲者達からの追跡を逃れることは出来まい。
しかし、リスクさえ背負えば。
明日を捨て、今日に残された僅かな時を生きる。
その覚悟さえ決めれば、とりあえずの成功と戦利品を得ることは不可能ではない、むしろ可能性は大きい。
そして知子はその決意をしたのだ。
教室に入ると、
「あっ、知子大丈夫だった、なんか取られてない?」
と、友達が聞いて来た。
「大丈夫だよ、なんもなかった。遅刻じゃないからね」
知子は笑って応える。
決意は誰にも知られてはならない。知られた時点で今日の勝利も、僅かに、未来には何が起こるか誰にもわからないという理由で、残された未来への希望も断たれる。それが女子校という場所だ。
今日は土曜、授業は昼まで、体育職員室は昼過ぎ、飯を食い終わり部活の時間になれば体育教師達は担当の部活へと出払い、用のない奴は帰宅する。
必ず空く時間があるはず。
知子は授業が終わると、「今日は家でオヤジが待ってるんだよ。大丈夫。時間までには帰ってくるから」と、友達に言い残し、人目を避けながら体育職員室の前を張った。
続
ブタクマの宣告に知子は泣きそうになった。
「ちょっと待ってよ、こんなのみんな持ってきてんじゃん。ここは女子校だよ?あんたわかってんの?こんなの問題にすんのあんただけだよ、他の人は見逃してるじゃん」
「ふん、運が悪かったな」
ブタクマは知子の訴えを鼻息で吹き飛ばす。
知子、いや全生徒はブタクマが異常に厳しく“密輸”を取り締まり、一度ブタクマに没収されたものはもう二度と手元に戻ってこないことを知っている。
100円のマニキュアやブランドの香水、おもちゃみたいなピアス、アイドルのCD、マンガ、ゲームソフト、官能小説、それらがごっちゃになってブタクマの机の三段目の引き出しに詰め込まれている。卒業したら返されるようだが、実際に返された者の話は聞いたことがない。ブタクマがこの学校に来てまだ卒業生を担当していないこともあるが。
ブタクマは一段目の引き出しから鍵を取り出して三段目の封を解く。
手には知子から没収した化粧品でパンパンに膨らんだポーチ。
それを投げ入れ、引き出しを閉じる。
「あぁーふざけんな、返せ」
知子の声は無視され、カチャリと鍵は閉められた。
「今回はこれだけだ。早く教室に行け。ホームルームが始まるぞ。」
そう言ってブタクマは体育職員室の扉を指差す。
「くっ」
知子は奥歯を噛み締めて体育職員室を出た。
「あぁどうしよう…アレがないと……」
知子は絶望しながら廊下を歩く。そして、
「やるしかない」
という言葉が浮かんだ。
盗んでやる、いや取り返すんだ。
知子は静かに決意した。
当たり前のことだが、今まで誰もブタクマの引き出しの中から密輸品を取り返そうとした者はいない。
計画だけなら、ブタクマの犠牲者ならみんな考えた。体育職員室が空くタイミングも、鍵の位置も生徒であるならば知っている。
しかし、実行中にブタクマ或いは他の教師に見つかる可能性、それに引き出しから無くなったものにより犯人がわかってしまうというリスクの前にその計画は諦めざるを得ない。下手したら退学もあり得るのだ。
たとえ引き出し丸ごと盗んだとしても、教師達はもちろん、他の犠牲者達からの追跡を逃れることは出来まい。
しかし、リスクさえ背負えば。
明日を捨て、今日に残された僅かな時を生きる。
その覚悟さえ決めれば、とりあえずの成功と戦利品を得ることは不可能ではない、むしろ可能性は大きい。
そして知子はその決意をしたのだ。
教室に入ると、
「あっ、知子大丈夫だった、なんか取られてない?」
と、友達が聞いて来た。
「大丈夫だよ、なんもなかった。遅刻じゃないからね」
知子は笑って応える。
決意は誰にも知られてはならない。知られた時点で今日の勝利も、僅かに、未来には何が起こるか誰にもわからないという理由で、残された未来への希望も断たれる。それが女子校という場所だ。
今日は土曜、授業は昼まで、体育職員室は昼過ぎ、飯を食い終わり部活の時間になれば体育教師達は担当の部活へと出払い、用のない奴は帰宅する。
必ず空く時間があるはず。
知子は授業が終わると、「今日は家でオヤジが待ってるんだよ。大丈夫。時間までには帰ってくるから」と、友達に言い残し、人目を避けながら体育職員室の前を張った。
続
“コスメティックもろざし”再開は始まりの鐘(三十三)
「カブトムシって呼ぶな」
ブタクマをきりりと鋭く、内心うんざりしながら、睨む。
知子はあの日以来ブタクマの前では出来うる限り無難に過ごしていた。
なるべくブタクマに関わらぬよう、表面上では素知らぬ顔だが、必死に努めていた。
しかし今日、こんな日に限って、日々の努力は水泡と化した。
「………悪かったな、加府。とにかくカバンを見せろ」
ブタクマは知子のことを気に病んでいた。もうあの日のことは特に気にしていない。
むしろ酷いことをしたと思っているし、あの日から生徒達の間でのあだ名がブタクマとなり多くの生徒からそう呼ばれることで自身のトラウマと向き合うきっかけになった。そして今では我を忘れるほど憎んでいたブタクマというあだ名を好きになっていた。
当然だ。そう呼ぶのが珠のように陽気で無邪気な女学生なのだから。
彼女達のえくぼはブタクマからマイナスの記憶やイメージを遠ざけていく。
ブタクマは知子に感謝さえしている。出来れば仲良くしたいのだ。しかし、知子からは線を引かれ、知子の生徒内での立場や自身の恐い先生としての役割を考えるとどうしても歩み寄れなかった。
「なんで?別に遅刻してないじゃん」
知子はむっとして応える。知子は既にたくさんの野次馬を意識している。簡単に言いなりになるわけにはいかない。それに見られたくないものがカバンの中にある。
「そうだな………しかしそれとこれは関係ない。警官の職務質問と同じだ、目に留まった奴は調べる。……………ここではなんだ、チャリンコ置いて職員室に来い」
ブタクマもこの1年で学習していた。まずは知子を目に見えない力から離さなければならない。
ブタクマはスタスタと体育職員室のある校舎に向かう。
それを見た知子は、それでもうんざりしながら自転車置き場へとチャリンコを漕ぐ。
野次馬達は、え~これで終わりなの?、という言葉を秘めたため息を漏らす。しかしこれは知子にとってマイナスの要素になるものではない。
「ふぅ~」
息を吐いて知子はチャリンコの脚を降ろした。
その時後ろの窓が開き、「今カバンを渡せ」
と、ブタクマが顔を突き出して言う。
自転車置き場は体育職員室の裏にあるなのだ。
しまった、知子はカバンの中にあるブツを隠すタイミングを失い、またブタクマの素早い動作によりカバンを取られてしまった。
「早く来い」
そう言ってブタクマは窓を閉めた。
知子は軽くなった右肩をさすり重い足取りで体育職員室へと歩いていく。
続
ブタクマをきりりと鋭く、内心うんざりしながら、睨む。
知子はあの日以来ブタクマの前では出来うる限り無難に過ごしていた。
なるべくブタクマに関わらぬよう、表面上では素知らぬ顔だが、必死に努めていた。
しかし今日、こんな日に限って、日々の努力は水泡と化した。
「………悪かったな、加府。とにかくカバンを見せろ」
ブタクマは知子のことを気に病んでいた。もうあの日のことは特に気にしていない。
むしろ酷いことをしたと思っているし、あの日から生徒達の間でのあだ名がブタクマとなり多くの生徒からそう呼ばれることで自身のトラウマと向き合うきっかけになった。そして今では我を忘れるほど憎んでいたブタクマというあだ名を好きになっていた。
当然だ。そう呼ぶのが珠のように陽気で無邪気な女学生なのだから。
彼女達のえくぼはブタクマからマイナスの記憶やイメージを遠ざけていく。
ブタクマは知子に感謝さえしている。出来れば仲良くしたいのだ。しかし、知子からは線を引かれ、知子の生徒内での立場や自身の恐い先生としての役割を考えるとどうしても歩み寄れなかった。
「なんで?別に遅刻してないじゃん」
知子はむっとして応える。知子は既にたくさんの野次馬を意識している。簡単に言いなりになるわけにはいかない。それに見られたくないものがカバンの中にある。
「そうだな………しかしそれとこれは関係ない。警官の職務質問と同じだ、目に留まった奴は調べる。……………ここではなんだ、チャリンコ置いて職員室に来い」
ブタクマもこの1年で学習していた。まずは知子を目に見えない力から離さなければならない。
ブタクマはスタスタと体育職員室のある校舎に向かう。
それを見た知子は、それでもうんざりしながら自転車置き場へとチャリンコを漕ぐ。
野次馬達は、え~これで終わりなの?、という言葉を秘めたため息を漏らす。しかしこれは知子にとってマイナスの要素になるものではない。
「ふぅ~」
息を吐いて知子はチャリンコの脚を降ろした。
その時後ろの窓が開き、「今カバンを渡せ」
と、ブタクマが顔を突き出して言う。
自転車置き場は体育職員室の裏にあるなのだ。
しまった、知子はカバンの中にあるブツを隠すタイミングを失い、またブタクマの素早い動作によりカバンを取られてしまった。
「早く来い」
そう言ってブタクマは窓を閉めた。
知子は軽くなった右肩をさすり重い足取りで体育職員室へと歩いていく。
続
“コスメティックもろざし”(三十二)
校長室には恰幅のいい爺さんがデラックスな椅子に座っていた。
「君ぃ、聞いたよ。生徒を投げ飛ばしたんだって?………………やはり力士の血かねぇ……………いやいや、頼むよ。怪我が無かったからいいようなものだ」
「すいませんでした」
猪熊は頭を下げる。とにかく反省している。何に対してかは本人もいまいちわかってないのだが。
「うむ」
校長は軽く頷いて、
「私達が何故君を採用したのか。それは君が生徒にとって恐い存在になるのではないかと思ったからだ。この学校にはここ数年その存在が欠けていたからね」
「は、はい」
猪熊も頷く。基本的に会話は苦手だ。
「今回の件で生徒達には十分君が恐い存在だということが伝わっただろう。特に直接見ていない生徒達には効果てきめんだろう。ま、今回の件は通過儀礼のようなものだよ。わはは」
校長は口をつり上げて笑う。
「しかし君はやっぱり強いんだねぇ、いや私は格闘に目が無くてね。私自身も柔道、空手、レスリング、剣道、居合い、槍に弓、一通りはやってきたのだが、やはり本物の力士は迫力がある。いやぁ、力士というのはやはり………………………」
30分ほど校長の格闘論、武術論が続いた。
学校中に授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、
「おっといかん、どうも長がつく者は話が長い」
校長は笑って猪熊に職務に戻るよう告げた。
「親御さんには私から言っとくから」その言葉に猪熊は校長が頼れる人物だと認識した。
猪熊が出ていったあと、猪熊が持ってきた報告書に初めて目を通した校長は、
「…………加府知子の親っていうと………こりゃすんなりいくかな…………」
苦笑いを浮かべてつぶやいた。
この日から猪熊は生徒達からブタクマと呼ばれ、恐怖の存在として認識された。
ブタクマは自然と“法の門番”として真面目に厳しく生徒達を取り締まり、そのポジションを確固たるものとする。
知子も家庭では、こんな日に限って、珍しく早く家に帰ってきた父親が夕食後にかかってきた学校からの電話にキレて、和室にある胴田貫の模造刀をひっ掴み学校に乗り込もうとするのを泣きながら止める、ということがあったものの、この日以来あのブタクマに真っ正面から抵抗した者として全生徒から半ば伝説めいて語られる存在になり、結果こちらも学校生活において確固たるポジションを得た。
2人は当然、毎日のように学校内で会う。授業であったり廊下ですれ違ったり。
2人共陶器人形のようにつるりと起伏の無い態度で接して、それが周りに緊張感を持たせる、やり過ごしていた。
そうしてなんら事件は無く平和に1年が経った。
そして遂に2人が再び相まみえようとしているのを、2人の因縁を知っている野次馬達はまばたきを忘れるほど高まる好奇心を胸に抱いて、教室の窓から校庭の2人を凝視している。
続
「君ぃ、聞いたよ。生徒を投げ飛ばしたんだって?………………やはり力士の血かねぇ……………いやいや、頼むよ。怪我が無かったからいいようなものだ」
「すいませんでした」
猪熊は頭を下げる。とにかく反省している。何に対してかは本人もいまいちわかってないのだが。
「うむ」
校長は軽く頷いて、
「私達が何故君を採用したのか。それは君が生徒にとって恐い存在になるのではないかと思ったからだ。この学校にはここ数年その存在が欠けていたからね」
「は、はい」
猪熊も頷く。基本的に会話は苦手だ。
「今回の件で生徒達には十分君が恐い存在だということが伝わっただろう。特に直接見ていない生徒達には効果てきめんだろう。ま、今回の件は通過儀礼のようなものだよ。わはは」
校長は口をつり上げて笑う。
「しかし君はやっぱり強いんだねぇ、いや私は格闘に目が無くてね。私自身も柔道、空手、レスリング、剣道、居合い、槍に弓、一通りはやってきたのだが、やはり本物の力士は迫力がある。いやぁ、力士というのはやはり………………………」
30分ほど校長の格闘論、武術論が続いた。
学校中に授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響き、
「おっといかん、どうも長がつく者は話が長い」
校長は笑って猪熊に職務に戻るよう告げた。
「親御さんには私から言っとくから」その言葉に猪熊は校長が頼れる人物だと認識した。
猪熊が出ていったあと、猪熊が持ってきた報告書に初めて目を通した校長は、
「…………加府知子の親っていうと………こりゃすんなりいくかな…………」
苦笑いを浮かべてつぶやいた。
この日から猪熊は生徒達からブタクマと呼ばれ、恐怖の存在として認識された。
ブタクマは自然と“法の門番”として真面目に厳しく生徒達を取り締まり、そのポジションを確固たるものとする。
知子も家庭では、こんな日に限って、珍しく早く家に帰ってきた父親が夕食後にかかってきた学校からの電話にキレて、和室にある胴田貫の模造刀をひっ掴み学校に乗り込もうとするのを泣きながら止める、ということがあったものの、この日以来あのブタクマに真っ正面から抵抗した者として全生徒から半ば伝説めいて語られる存在になり、結果こちらも学校生活において確固たるポジションを得た。
2人は当然、毎日のように学校内で会う。授業であったり廊下ですれ違ったり。
2人共陶器人形のようにつるりと起伏の無い態度で接して、それが周りに緊張感を持たせる、やり過ごしていた。
そうしてなんら事件は無く平和に1年が経った。
そして遂に2人が再び相まみえようとしているのを、2人の因縁を知っている野次馬達はまばたきを忘れるほど高まる好奇心を胸に抱いて、教室の窓から校庭の2人を凝視している。
続
“コスメティックもろざし”(三十一)
「知子も猪熊先生も反省しなさい。ということです」
「はい…」
応接室のソファーに並んで座る2人、メイ子先生を前に借りてきた猫のよう。
事情聴取はすんなり終わる。
「じゃあ知子は教室へ帰っていいわ、それとももっと問題を複雑にする?猪熊先生をセクハラで訴えるとか、お父様にテレビで…」
「いえ、いいです。失礼します」
メイ子先生の話を遮って知子はそそくさと応接室を出ていった。
メイ子先生はやっぱり笑顔。
「さてと…」
メイ子先生は扉が閉まるのを確認して猪熊の方を見る。
「すいません。いきなり問題を起こしてしまって」
メイ子先生が話し出すより先に猪熊は平謝りに頭を下げた。なんとなく笑顔のメイ子先生が怖い。
「あら、いいんですよ。生徒から仕掛けたんでしょ。よくあることですよ。ここではね」
「は、はぁ」
猪熊は気が抜けた。
「それでも、やりすぎです。あなたは元力士なんだから加減してください」
メイ子先生の語気がぴしゃりと叩きつけるようなものに変わった。
一転して冷や汗が猪熊の背を伝う。
「うーん、どうやって話せばいいのか」
メイ子先生は困ったなぁ、というような顔と仕草をした。
「例えば男子校の生徒はテストでカンニングをします。女子校の生徒はしません。何故かわかります?」
「あ、えっと」
猪熊の答えを待たずしてメイ子先生は続けた。
「別に女は真面目で、男は卑怯だっていうんじゃないわ。男子校の生徒の場合教師にさえ見つからなければそれでカンニングは成功します。周りの生徒に見られてもその生徒はまず教師にチクったりしません。協力だってするでしょう」
そりゃそうだ、猪熊は思った。
「女子校の生徒の場合は違います。彼女達は、まぁ教師に見つかるのは論外ですけど、チクります。というよりもチクられることを知っていてそれを意識してます。だからしません。リスクが高すぎるから。言いたいことわかります?じゃあ共学はどうなんだ、って考えないでくださいね、例えなんですから」
猪熊はまさに、共学の場合はどうなるのだろう、と思っていた。顔が赤くなる。
「いいですか、彼女達はそういうギリギリの環境で生活しているのよ、誰もがなんらかの仮面を被って疑心暗鬼の海の中で泳いでいるんです。仮面を外したら溺れてしまいます。そして仮面を外してしまうものは、彼女達の本当の顔から出る弱みなの」
猪熊はわかっているのかどうか、目を丸くして聞いている。
「だから知子はあなたに喧嘩を売るようなことをしたし、絶対に折れなかったでしょ。それが知子の仮面で役目なの。知子はあなたに向かって喧嘩をしたのではなくて周りに向かってしていたのよ。折れたり泣いたりすることは弱みだから絶対に出来ないの、溺れてしまうから。あなたはそれをわかってあげないといけない」
「は、はい、すいません」
猪熊は謝罪の態度を示すのが精一杯だ。
「…………まぁここで教師をしてればすぐにわかるでしょう、ここはほとんどの職員が女性ですしね」
ふふっとメイ子先生は笑った。
もちろん私も仮面を被っているのよ、にぶい猪熊にも理解できた。
「だけどあなたがとった行動自体は間違いでは無いと思います。今までの先生はなにも出来なかった人が多かったから。きっと良い方向に転がるわ。じゃああとは校長に報告してくださいね。心配しなくても、話のわかる人ですから」
そう言って応接室を出ていく。
「あっそれと」
半分扉を開けた時メイ子先生は振り返り、
「女性には月に1度イライラする日があることはご存知ですよね?」
と、微笑みながら言った。
「えっ、は、はい」
猪熊が言い終わる前にメイ子先生は応接室を出ていった。
続
「はい…」
応接室のソファーに並んで座る2人、メイ子先生を前に借りてきた猫のよう。
事情聴取はすんなり終わる。
「じゃあ知子は教室へ帰っていいわ、それとももっと問題を複雑にする?猪熊先生をセクハラで訴えるとか、お父様にテレビで…」
「いえ、いいです。失礼します」
メイ子先生の話を遮って知子はそそくさと応接室を出ていった。
メイ子先生はやっぱり笑顔。
「さてと…」
メイ子先生は扉が閉まるのを確認して猪熊の方を見る。
「すいません。いきなり問題を起こしてしまって」
メイ子先生が話し出すより先に猪熊は平謝りに頭を下げた。なんとなく笑顔のメイ子先生が怖い。
「あら、いいんですよ。生徒から仕掛けたんでしょ。よくあることですよ。ここではね」
「は、はぁ」
猪熊は気が抜けた。
「それでも、やりすぎです。あなたは元力士なんだから加減してください」
メイ子先生の語気がぴしゃりと叩きつけるようなものに変わった。
一転して冷や汗が猪熊の背を伝う。
「うーん、どうやって話せばいいのか」
メイ子先生は困ったなぁ、というような顔と仕草をした。
「例えば男子校の生徒はテストでカンニングをします。女子校の生徒はしません。何故かわかります?」
「あ、えっと」
猪熊の答えを待たずしてメイ子先生は続けた。
「別に女は真面目で、男は卑怯だっていうんじゃないわ。男子校の生徒の場合教師にさえ見つからなければそれでカンニングは成功します。周りの生徒に見られてもその生徒はまず教師にチクったりしません。協力だってするでしょう」
そりゃそうだ、猪熊は思った。
「女子校の生徒の場合は違います。彼女達は、まぁ教師に見つかるのは論外ですけど、チクります。というよりもチクられることを知っていてそれを意識してます。だからしません。リスクが高すぎるから。言いたいことわかります?じゃあ共学はどうなんだ、って考えないでくださいね、例えなんですから」
猪熊はまさに、共学の場合はどうなるのだろう、と思っていた。顔が赤くなる。
「いいですか、彼女達はそういうギリギリの環境で生活しているのよ、誰もがなんらかの仮面を被って疑心暗鬼の海の中で泳いでいるんです。仮面を外したら溺れてしまいます。そして仮面を外してしまうものは、彼女達の本当の顔から出る弱みなの」
猪熊はわかっているのかどうか、目を丸くして聞いている。
「だから知子はあなたに喧嘩を売るようなことをしたし、絶対に折れなかったでしょ。それが知子の仮面で役目なの。知子はあなたに向かって喧嘩をしたのではなくて周りに向かってしていたのよ。折れたり泣いたりすることは弱みだから絶対に出来ないの、溺れてしまうから。あなたはそれをわかってあげないといけない」
「は、はい、すいません」
猪熊は謝罪の態度を示すのが精一杯だ。
「…………まぁここで教師をしてればすぐにわかるでしょう、ここはほとんどの職員が女性ですしね」
ふふっとメイ子先生は笑った。
もちろん私も仮面を被っているのよ、にぶい猪熊にも理解できた。
「だけどあなたがとった行動自体は間違いでは無いと思います。今までの先生はなにも出来なかった人が多かったから。きっと良い方向に転がるわ。じゃああとは校長に報告してくださいね。心配しなくても、話のわかる人ですから」
そう言って応接室を出ていく。
「あっそれと」
半分扉を開けた時メイ子先生は振り返り、
「女性には月に1度イライラする日があることはご存知ですよね?」
と、微笑みながら言った。
「えっ、は、はい」
猪熊が言い終わる前にメイ子先生は応接室を出ていった。
続