からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -183ページ目

“コスメティックもろざし”コスメティックに輝け!〈八十五〉

ブタクマの腰はラニオの腹に吸いつき、ラニオの怪力から離すことはもう不可能である。
ラニオは頭をブタクマの胸にくっつけて押している。凸凹の力がブタクマの腰にかかる。人間の鍛えようのない急所である目をつこうにも、学習したのか、ラニオの顔はブタクマの胸に埋まって手が出せない。自由がきく両手でなんとかしようにも、もとよりの著しい体力の低下、一撃でラニオを失神もしくはさば折りを解除させるような攻撃をする力はブタクマに残されていない。それに加えてラニオの絞めつける威力。本能からブタクマの両手は、顔に物が飛んできた時目を閉じるように、ラニオの手を掴み、無力ながら少しでもさば折りの威力をやわらげることに使われている。
「うん?」
ラニオの視界はない。ただ足元に違和感が。加藤やグルカ兵同様、ラニオも痛みをあまり感じないらしい。
「離せぇ」
知子がラニオの膝を足の裏でガンガン蹴っていた。
「…知子、逃げ、ろ」
ブタクマが消えそうな意識の中、必死に告げる。
「ふざけんな!できるかよ!離せ!オラぁ、お前も…へばってないでなんかしろよ!」
知子は蹴り続ける。しかしラニオはびくともしない。隆車に向かう蟷螂の如し。知子もそれを知っての、なんかしろよ、発言だ。
「ふん、どうやら早死にしたいらしいな。どれ、とっととこいつを始末するかな」
ラニオの両腕により一層の力が入る。
ゴポリ。
荒れる波音にも、興奮状態の精神にも負けず、ブタクマの背中から発した低い不気味な音は知子にはっきり聴こえた。
「ブタクマ!」
知子は叫んだ。ブタクマの口からは血のあぶくが溢れ、下半身はだらりと垂れている。そしてブタクマの胴体。あのたくましい胴体はあり得ないくらいラニオの両腕に
より絞めつけられ、まるできつくコルセットを巻いた婦人のよう。
「うわああぁぁぁ」
知子の顔に明らかに怯えが見える。それでも力が入らない足でラニオの膝を蹴り続ける。止められない、止まらない、止まったら崩れ落ちてしまうことはわかっているから。
「…ははっ知子、俺を心配、する、なんて、お、お前、らしくない、ぞ」
ブタクマは両手をラニオの腕から離し、知子に笑いかけた。口から血のあぶくを吹き、死微笑。
「まだ意識があるか」
ラニオはさらに力を込める。
「無駄だ、ラニオ。お前に、俺は、殺せ…な…い」
「どの口が言ってるんだかな」
「知子…こいつは、弱い。どうしようもなく弱い、奴だ。いくら、筋肉を、つけよう…とも、相撲の、俺とお前の、相撲の前…で…は、クソみた…いなもん…さ」
「さっきの投げ…、こいつはお前の弟子か。弟子が女とは…堕ちたもんだ」
「あぁ、見事な投げだった…。お前には一生できない芸当だ!ラニオ!」
ブタクマの目が血走り、かっと大きく開かれる。
「ふん、出来なくて結構。出来なくてもお前は殺せる」
「お前の耳に聞かせる言葉はこれ以上ない」
ブタクマはラニオの耳を掴むと一気に引きちぎった。ぼとりと地面に両耳の耳介が落ちる。
「知子!さっきは逃げろと言ったが、悪い。どうかしていた。こんな奴を怖れてしまった。それをお前が気づかせてくれた。闘え!闘うならばお前に負けはない!俺はもうすぐ死ぬが、こいつに負けたわけじゃない。それをお前が証明するんだ!」
ブタクマの口から血の霧が吹き出すと、ブタクマの体から力が抜け、動かなくなった。
「…ブタクマ」
知子は蹴るのを止め、さっとラニオから離れる。堤防の先の方へ。退路を自ら断った。背水の陣。
「おい!そこのでくの坊!ラニオとか言ったか、私と勝負しな!」
知子は仁王立ちして吼えた。右手の中指が満月を指す。


“コスメティックもろざし”〈84〉

縄を解かれた知子。だが体の自由はきかない。ラニオがブタクマと同じ様に知子の首根っこを掴んでいるのだ。
「よし、いいだろう。知子をこっちへよこせ」
「ちょっと待て、私はどうなるのだ。ラニオ君、そいつは離すな。熊わぎぃあちょらぁ」
ブタクマは本来交渉に向いている性質の人ではない。気の向くまま根来を絞める。
「いいから離せ、ラニオ!」
「ダ、ダメぇ~ラニぐぉ~」
何も進展しないやりとりがしばらく続き、緊迫した時間だけが進む。
この間、知子は目でブタクマに合図を送り続けていた。知子の体から、心から雨はあがり、辺り一面緑の絨毯、新緑の風が吹き、雲間からなびく光のカーテンは生き生きとした大地に成長を促す。
ブタクマはようやく知子の目に気づいた。今まで必死にラニオを睨みつけていたので知子に目をやる余裕がなかったのだが、あまりに進展しない交渉にふと気が緩み、知子を見る余裕が生まれたのだ。
知子の目から溢れだすイメージ。ブタクマは知子とシンクロした。
「ならば、交換だ」
ブタクマは根来の首根っこから手を離した。
「ラニオ、お前も離せ」
「ラニオ君、離しなさい」
ラニオは知子の首根っこを解放した。
「よし、知子を離せ」
と、言って、ブタクマは完全に根来を解き放つ。
「動くなよ、動いたら殺すぞ」
ブタクマは根来を脅した。根来の動きを止めるには十分であった。
「ラニオ君、そいつを離しなさい」
ラニオも知子を解き放つ。
「後ろを向け」
ブタクマは根来の体を反転させた。それを見て知子も自発的に後ろを向く。
「知子!こっちに歩いてこい!ほら、お前も歩け」
ブタクマは根来の胸を軽くついた。
一歩、一歩。知子はブタクマへ、根来はラニオへ。
必然的に知子と根来は交差する。
ふたりの視界に互いの背中が見えたその時、
「ラニオ君、走れ!」
と、根来は叫び、知子に組みついた。と思ったら根来は宙に舞った。
下手投げ。
根来が組みついてくることまで予想していたかはわからないが、一対一でなら根来如きもやしっ子ぬらりひょん、いや、むしろ根来を私にやらせろ。知子の放ったメッセージはここに実現した。
根来はごろりと一回転、下手くそな受け身ながら地面に強く叩きつけられることは回避した。が、勢い余って堤防の淵。腰掛ける形。少し前の信蔵と同じ体勢。
「うおおぉぉぉ」
知子は地を蹴り、根来の背中目掛け飛ぶ。
地を這うように低空。知子の全体重をのせたドロップキック一閃。根来の骨盤にあたる。押しだされるように根来は海の上。
「ひどいじゃないかぁ」
ポシャ。
根来は泣き出しそうな赤子の顔をして海に落ちた。そして二度と浮かびあがることはなかった。
「やったぞ、ブタク」
知子が小さなガッツポーズをしながら後ろをふり返ると、ブタクマはラニオと組み合っていた。
根来の最後の命に応じ、走ってきたところをブタクマが受けとめていたのだ。
「根来はいないぞ、ラニオ!」
「あぁ、死んだかもな…ありゃ」
「おとなしく縛につけ」
えらく古風な言い方。
「そうはいかないさ。俺も人間だ、死にたくないね。それに…、追い詰められているのは人質をなくしたお前達だ」
ラニオはブタクマの胴体を両手で絞めつける。さば折り、ベアハッグ。
「なんて弱々しいんだ。これがあのブタクマか…」
ラニオはぼそりとつぶやく。ブタクマの体は加藤との闘いで既に満身創痍。意識を保ち動いていることが奇跡的なのだ。


“コスメティックもろざし”〈八十三〉

信蔵の体は一度も浮かび上がることはなかった。
「ふぅ、じゃラニオ君、あとは任せたよ。こう見えてあまり人が死ぬのを見るのは好きじゃないのでね。まぁしかし天敵ぐらいは自ら手を下さなくては、ねぇ、いずれ私が世界の秩序になるのだから」
根来は運転手を先導にすたすたと堤防を歩き、車へと向かう。
「では、任されたことをするか…」
ラニオは知子の首を絞めた。
「万が一、海に落ちてから逃げられたんじゃあ、な。お前もこっちのほうが苦しまないよ」
ラニオがにやにやしながらささやく。
知子の視界が次第に、円を縮めるよう黒くなっていく。己の心、ぺんぺん草一本生えぬ荒れ果てた心には心地よささえ感じる苦しさの中、
「あー、なんかもう、ダメだ」
と思った。
「ラニオ君、待て」
ふいに根来が叫んだ。
ラニオの手から条件反射で力が抜ける。
どっくんどっくん、知子の頸動脈は意識とは反対に生きるため激しく脈動する。
「ん、あれは」
ラニオが目を凝らした場所、堤防の入口に黒塗りの車が一台停まった。
「加藤か…」
車の扉が開く。と、同時に出てきた人物は脱兎の如く駆け出す。目指すは知子。堤防は袋小路。人物はもちろんブタクマ。
「な、ブタクマか!?」
ラニオは驚き桃の木。
その言葉に知子はぴくりと反応した。荒れ果てた荒野に湿った風、恵みの雨の気配。
「加藤!」
根来は叫んで逃げる。当然ラニオの方、堤防の突端へ。走り方がなんともいえぬ滑稽さ。走っているのかスキップしているのか。
根来につられて運転手も逃げる。
「き、君は来るな!足止めぐらいしろ!」
根来の言葉に運転手は逃げるのをやめる。懐から取りだすはピストル。
バンバンと二度引き金はひかれた。一発は空をきったものの一発は見事、ブタクマの耳をかすめた。
ピストルの有効距離はここまで。ブタクマは既に近接戦闘の間合いに足を踏み入れている。なおかつ止まらない。
「ごふぇ」
運転手はブタクマのアメリカンフットボールのようなタックルを胸に受け、そのまま担ぎ上げられた。
運転手はもはや為す術なし。意識も朦朧。
ブタクマは走りつづけ、カーブにさしかかると運転手を海に投げ捨てた。
根来はまだカーブの途中、ラニオは堤防の先で動いていない。
ブタクマはすぐに根来に追いつき、片手で首根っこを掴むと、猫を扱うように持ち上げる。人間、空中ではほぼ無力。バタバタする根来のベルトを握り完全に動きを掌握した。
「ラニオ!その娘を!知子を離せ!」
ブタクマが走るのをやめ、歩きながら叫ぶ。
「ブタクマぁ!」
実際には「ふがふがぁ」との発音だが…。
知子の口から言葉が、目から鼻から尿道からは液体が。そして心には乾季の終わりを告げる豪雨が降りそそぐ。
「根来さん…」
ふたりとふたりの距離はもはや10メートルもない。ラニオはどうしていいかわからないのだろう。根来に請う。
「ひぎう、ひぎう」
根来はズボンを尻の割れ目に食い込ませて声にならない声をあげる。
「ラニオ!知子を離せ!こいつがどうなってもいいのか!!」
ブタクマは首根っこを掴む手に力を入れた。
「はぅお」
根来は天使画の天使のように体をくねらせる。
「ラ、ラ、ラ、ラニオ君、その娘を離しなさい。人質交換だ」
痛みに耐えかね根来が叫ぶ。この場さえ乗り切れば…そういう希望的観測もあるのだろう。
「おい、知子の縄をほどけ」
「ラ、ラニオ君、縄をほどきなさい」
もはや操り人形。その操り人形の操り人形であるラニオは言われたとおり知子を縛る縄を解いた。


“コスメティックもろざし”強さとの再会〈八十二〉

知子の口からよだれが糸をひく。
力なくしなだれる知子を軽々と担ぎ、ラニオは堤防を歩く。
今の知子には単調な波音と歩く振動だけが感覚。
ラニオが歩くのをやめた。気がつけば堤防の先、小さな灯台の裏。なるほど灯台下暗し。波間に反射する月光と灯台の淡い光に挟まれたひとつまみの闇。
「やぁ、お嬢さん。はじめまして。根来です」
「……………」
「おやおや、挨拶もできないのかな?これはいけない。教育がなってない。ねぇ。教育とは条件反射なのだよ。ヘビに睨まれたカエルが動けなくなるように、挨拶をされたら挨拶をし。上司に命ぜられればたとえ火の中水の中。ねぇ。戦争になれば心を痛めることなく、敵を撃ち、爆弾を投下する。条件反射こそ人間の持つ力なのだよ。そしてその力を最大限に発揮させる元が教育なのだよ。右にならえ、左にならえ。だ。ねぇ。日本が、世界が、ひとつの考えのもと一直線に進む。最初こそ戦争のひとつやふたつあるだろうが、やがて平和な、あらゆる争いがない世界になるだろう。才能もくそも、エリートも落ちこぼれも無い。ただ言うことを聞いていれば幸せが訪れる世界さ。そんな完璧なシステムを作りあげるには、加府信蔵のような不良品は早いうちから“丸ごと”取り除かないと。後継者がいると厄介だから。ねぇ。システムの基盤である私に刃向かうような奴に幸せは訪れないのだよ。ねぇ」
根来は笑うでもなく、かといって真面目な顔でもなく、例えるなら甲子園を目指しノックを受ける高校球児のような、厳しさに自己陶酔しているような顔をしている。
「君、加府をここへ」
運転手が加府を堤防の淵に腰掛けさせる。
「ラニオ君、お嬢さんを降ろしてあげなさい」
ラニオは知子を地に降ろした。ただし、縛られた両手とベルトをしっかりと握っている。だが、それでなくても知子に反抗する力はない。
「この辺りは潮の流れが特別でね。毎年何人もここから落ちて死んでいる。怖い海だ。ねぇ。しかも死体はその潮の力で浮かび上がってこない。この堤防の底に引っかかるのだよ。はははっ、しばらくは見つからないらしいよ。目撃者がいなければね。死体を適度に処理するには大変優秀な海さ。ねぇ。まぁ最初っから犯人は捕まらないのだけどね。ねぇ」
根来は息を殺すように笑った。
空っぽの知子。しかしぼんやりと、
「なんか聞いたことある話だなぁ」
と思って、すぐ消えた。
「お嬢さん、最後になにかお父さんに言うことはあるかな?」
「………………………」
根来は信蔵の背中に足をあてがう。
目の前で今まさに父親が殺されようとしている。なんだかんだで最愛の父。だが知子には、今の知子の目から伝わる情報には幾重にもフィルターがかけられ、まるで父が車にひかれたアマガエルのようにしか見えない。精神の精神による精神の為の防御機能。
「…親不幸な娘だ。まぁ、あの世で仲良く暮らしなさい」
根来は足で信蔵を押した。
信蔵はぐらりと揺れて堤防から離れ、荒れる波間にボシャっと情けない音をたてて落ちた。


“コスメティックもろざし”〈八十一〉

車は寂れた港町を通り過ぎ、明るい港へ。その隣のわびしい海岸線で止まった。
「早かったじゃないか、私も今さっき着いたところだよ」
「お疲れさまです」
「加藤はどうしたかね?」
「根来さん、それが面白いことになりましてね。娘…知子でしたか、知子を拉致するときに旧友に会いまして、邪魔をするもんで、加藤がリベンジしたいと」
「旧友?熊若丸君かい?ほぅ……大丈夫なのかい?」
「ははっ、問題ありませんよ、あんな老いぼれ。加藤が始末したようです。連絡がありました。…ただグルカ兵のひとりがやられてしまったようです」
「なに!?熊若丸にか?」
「いえ、なんでも予想外のことが起こったとか。とりあえずここに呼んでます。もう来るでしょう」
「そうか」
根来は顔をしかめた。
「待つ必要はない。加府は眠らしたが…」
根来の合図で運転手が加府を車から引っ張りだす。
「それにひきかえ、お姫さまは機嫌が悪いようだねぇ」
「まったく、親子して躾がなってませんな」
波が打つ音に混じりかすかに、ぼぉん、ぼぉん、と音がする。言うまでもなく知子が
トランクの天井部を殴る音だ。
「わかってるね、あまり騒がれたくない」
「はい」
ラニオは助手席から荒縄を取りだし、ニヤリといやらしく笑った。
荒縄を手に、静かにトランクに近づく。
カチン、
トランクのロックを解いた。
一気にトランクを開けきると、突然の月光にぽつねんとしている知子の顔を掴む。ブタクマほどではないが大きな手だ。
その手の中には荒縄が。荒縄を押しつけられる、荒縄はラニオの手と知子の顔に挟まれ、逃げるように自然と口へと押し込まれる。
「よっ」
ラニオは知子の顔面を掴んだまま、片腕一本で知子を宙に上げ、トランクから出した。
「ぎぎっごこぉ」
知子は叫ぶ。が、顔を締めつける痛みと口に含んでいる荒縄のせいで言葉にならない。
知子はラニオの手を両手で掴み、足を胴体に押しつけ、全身をつっぱるようにして脱出を試みるが、ラニオはびくともしない。
「静かにしろ。おい」
ラニオは根来の運転手に荒縄を縛るよううながす。
知子は静かにしろ、と言われたものの変わらず、
「ぎこぉここくぅく」
と、鼻息荒く抵抗している。
運転手は手際よく荒縄を結ぶ。
「口と手だけでかまわん」
運転手は言われた通り口、そして手を後ろ手にしてきつく結ぶと、懐からナイフを取りだし、余りを切り落とした。猿ぐつわの完成。
ラニオは知子を肩に担ぎ歩きだした。根来は遙か先、堤防を歩いている。
知子は足をしっかと押さえつけられているので動きがとれない。唯一、背筋の筋トレをするみたく、ぴょこんぴょこんと上体を反らしたり沈んだり。
「見えるか?」
ラニオはくるりと反転、知子は腰に力を入れて前方を見た。
そこには自分と同じように担がれている人物が。見たことある服装。すぐにそれが誰かがわかった。
「うもぉうがぁん」
「加府信蔵はまだ生きている。まぁもうすぐ死ぬがね。だがお前を助けようとしたブタ…熊若…いや、猪熊は死んだ」
「…………………」
「はははっ、心配ない。すぐに会えるよ。あの世でな」
知子の体から力が抜けていった。