からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜 -182ページ目

“コスメティックもろざし”最終話〈九十〉

ふりかぶるラニオ。サイドスロー。球は知子。
ぷらんぷらん揺れる知子。ゆあーんゆよーんゆあゆ…。一瞬の静止が終わり、顔中に潮の香りいっぱいの空気を叩きつけられ、ラニオの手が知子の首根っこから離れる。
知子は投げられ、つま先をすりながらも、近づく海を見ていた。ラニオの背後の海同様に青白く光っている。とても“甘い”光。しょっぱい風が、砂糖の甘さを帯びたなら!
「動け、私!」
知子のつま先に力が戻る。つま先を軸に反転。ブレーキをかける。が、淵までの距離およそ30センチ。投擲の勢いは凄まじく、止まることなど…。だがしかし、
がちっ。
「がちっ?」
知子は浮いたかかとになにかがはまり込んだ感触がして、まさに崖っ淵で止まることができた。この車止めも無い平らな堤防で、勢いよく飛ぶ知子を受けとめたなにかとは…。
「しつこいやつだ」
ラニオが突進してくるのも構わず、知子は自分の足下を見た。
腕。
知子のかかとを支えているのは人間の腕だった。どことなく透き通っている青白い腕が海からにょきっと生えでて、知子を支えているのだ。支えている腕、よく見ると右腕と右腕。この二本の腕以外にも、海面からは何本もの腕が知子の足下にわらわらと伸びてきている。
「知子」
声が聞こえる。聞いたことがある声。忘れようも無い、父の声。
「知子」
今度はブタクマの声。
「知子、信じなさい」
女の人の声。この声は聞いたことがない。いや、ある。自分の声にそっくりだ。
眼前に迫るラニオ。
「愛の輝きを!」
合唱。
知子の腕がラニオのわきの下へ伸びる。その腕に、見慣れた太い、しかし半透明の腕が重なる。
ラニオが知子にぶつかる直前、ラニオはまるでたかいたかいのように宙へ。
「な、ば」
ラニオの狼狽はいかばかりか。いないいないばぁをされた子供のような顔をした。
知子は腕の“俵”を使い、体を入れかえる。すなわち、ラニオの足下は海。
ラニオは落ちないよう知子の腕を掴んだ。だがラニオが掴んだのは知子の腕であって知子の腕ではなかった。
知子は腕から力を抜いた。
重力に従い落ちるラニオ。掴んでいるはずの知子の腕は青白く半透明で、するりと知子の腕から離れていった。
ザッパアァン。
その腕と共に、ラニオは豪快な水しぶきをあげて海に落ちた。
「ぶはぁ、てめぇ…ごぼごぼごぼ」
力任せに浮上したラニオに何本もの腕がまとわりつき、海の中へと引きこむ。
ぶくぶくぶくぶくぶく、
「ぶはぁ、うわあぁぁぁぁぁぁ、なんじゃこりゃあぁ」
それでも再度浮上したラニオ。恐怖に引きつった顔、声。
その顔にアイアンクローを決める腕がある。左腕。その腕は他の腕と違い、海に繋がっていなかった。
「ふぐ、ふぐぐ」
ラニオは抵抗虚しく海の中へ沈んでいった。
「よっしゃあ!やった!お父さん!ブタクマ!それに…多分…きっと、お母さん!」
知子の声に応えるものはなく、海は月明かりでのみ光り、もはや半透明の腕は見えない。
「ねぇ!やったよ!みんなどこ!?どこにいるの!?」
キョロキョロ見渡しても誰もいない。
知子はへたり込んだ。そして泣いた。お父さん、ブタクマ、ましてやお母さんはもう死んだのだ。誰もいない堤防。波音だけが響く。
いつしか月は沈み、雲ひとつない空を太陽が照らし始めた。
輝く太陽を見て知子は思い出した。
「輝き続けなくちゃ」
知子は立ち上がると歩いていった。その足取りはとても軽快なものだった。



「ねぇ知子、知ってる?」
「知らない」
「って何をだよ!いや、そういう風に聞いた私が悪かったよ。なんかD美がお祖母ちゃん包丁で刺しちゃったらしいよ、しかもどうやらあの晩に」
「えっ、ほんとう!?D美ってあのD美!?なんでまた?」
「いや、知らないけど」
「ふーん、世の中色々あるわね」
「ほんとに…」
「あそこだよ」
B子が指さす先には大きな病院。
よく晴れた夏の昼下がり、知子、ミチコ、B子の三人は走りだした。きゃははははは。笑い声がこだまする。
受付で名前を書きこみ、番号の書かれたバッヂを胸に目的の部屋へ。
「あら、知子。久しぶりね」
「先生ぇ、生き霊って信じる!?」


“コスメティックもろざし”〈八十九〉

「うおぅうぁ」
このままでは落ちる。
そう思ったラニオは右足で体を支えることをやめた。なまじ足があるから後退するのだ。足さえ取っ払えば。すなわち大地に身を置けば、知子に俺を動かす能力は無いのだ。
ラニオはグレイシーが寝技に持ち込むが如く、背中から豪快に受け身をとった。
「ざまぁみろ!」
知子は叫んだ。相撲であるなら勝負あり。知子の勝ち。
その知子の腹をラニオは蹴っぽる。その蹴りは知子を宙に浮かすには十分であった。
尻から着地する知子。ゆっくり立ちあがる。
「言い訳は聞かないぞ」
知子は言った。
まさしく「アクシデントだ」と言おうとしたラニオは奥歯を噛みしめる。
ラニオは上体を起こし、右足を曲がったまま伸ばす。
ゴキン、
と、知子に聞こえるほどの音がした。骨が折れているわけではない。ねじくれた半月板が膝関節に引っかかり、それが元に戻る音だ。
かくかくと膝を曲げ伸ばしするラニオ。なんとか動くものの力は入らないな、と認識する。
その間、知子はラニオを黙って見ている。手出しできないのだ。ラニオが思った通り、知子にはこの一見して無防備な体勢のラニオを攻めることができない。蟻地獄のよう、吸い込まれたなら地獄。知子にはラニオを組伏せる体力も技術も無いのだ。体力といえば、知子はすでに限界。ほとんど運動していなかった者が自身の三倍ある相手とやりあっているのだ。あまつさえ死闘。体にかかるストレスは想像を超える。膝はがくがくと震え、吐き気がするほどの疲労感。そして首と腹にくらったダメージは深い。朦朧とする意識。
ラニオはそんな知子の状態を見破った。まぁ誰が見てもわかるほど知子は憔悴しているのだが。この余裕が激情に浸るラニオを冷静にさせている。ただし嵐の前の静けさである。
「どうした、かかってこないのか」
ラニオはいやらしく言う。
「うるせぇ、負け犬」
知子は吼えるが、いかんともしがたい。
「さて、次は無いぞ」
ラニオはのたりと立ちあがった。
「もう何度も聞いたよ。単細胞」
「おぉ、悪い悪い。じゃあ死ね」
ラニオは知子に飛びかかった。怪我の影響により、飛びかかったというには若干語弊があるが、思うよう体が動かないのは知子も同じ。避けることはかなわず、また相撲取りの習性として、真っ正面からぶつかることを余儀無くされた。
ボゴッ、
知子の腹にラニオの膝が突き刺さる。
ラニオは知子がこちらに向かって来るのを確認すると、残っている左足で方向をずらし、空(くう)に向かう知子の腹に大腿筋をフルに使って右膝を突き刺したのだ。
くらった瞬間、ラニオの膝を軸に宙返りするみたく身を翻せば多少なりとも衝撃は体を抜けていくのだが、知子はまともに受けてしまった。
崩れ落ちる知子。ついに地に伏す。
「俺は相撲じゃお前に勝てないんだろ?」
ラニオはうつ伏せになって悶絶している知子の髪を掴み、顔を上げさせる。そして、
ガチン、
コンクリートに顔面を叩きつける。知子の額は割れ、ボタボタ垂れる血潮。
「いやぁ、確かにその通りだったな。お前のほうが強かったよ。相撲はな。認めよう」
ガチン。
「さすがブタクマの弟子だ」
ガチン。
「でも、ま、俺は相撲で負けてもいいんだ。勝ったことより負けたことのほうが多かったからな」
ガチン。
「おい、まだ、生きてるか」
ガチン。反応は無い。
「さて…あまり俺のイライラは解消されなかったが、しょうがない。お別れだ」
ラニオはむんずと知子の首根っこを掴みと、持ち上げる。知子は漁師に担がれた蛸のようにだらりとして、額にはバラの花が咲いている。
知子は、言うに及ばず体は動かないのだが、意識はある。しかしその意識も、たとえていうなら、酔っ払って記憶を失い、その失った記憶の最中なんらかの行動をしている自我、あるいは、「思い出せない『思い出のアルバム』の内容」といったような、もはや意識とはいえないものだ。
その触れた端から消えてゆく粉雪のような意識の中、知子はラニオの背後の海が青白く光っていることが気になった。


“コスメティックもろざし”〈八十八〉

「あんたが遊びで闘えるほど器用とは思えないけどね」
知子は言いながらじりじりとラニオとの距離をつめる。
「なんとでも言え。お前はどうあがいても俺に勝てない。それだけが不動の事実だ」
ラニオも知子に近づく。
確かに知子はラニオを倒す術をもたない。殴っても蹴っても投げつけても関節を決めてもラニオには蚊に刺されたぐらいにしか感じないだろう。しかし為す術がないわけではない。この海に、信蔵や根来やブタクマ、それに運転手を飲みこんだこの海に落とすことだ。なんとかしてラニオをこの“土俵”の外に出せれば。知子はこのことだけを考えていた。
しかし思い浮かぶのは多分に希望的観測を含む、机上の空論。しかも答えをだすには時間がない。
だが逃げるわけにはいかないのだ。
やるしかない。なにを?なんでもいい。ラニオを海に落とせるならば一緒になって落ちていくのもいとわない。
知子は駆け出した。
向かってきた知子にラニオは拳をふるう。一発、二発。一発目は身をかがめてなんとか避けたが、二発目を首筋にくらった。が、幸いにして浅い。ラニオの拳は知子の首筋を滑っていった。それでも体ごとぶっ飛ばされそうな衝撃が知子を襲う。痛みはない。アドレナリンが痛みを感じさせない。ただ一瞬意識が飛んだ。
数瞬のち、気がつくと知子はラニオの左足にしがみついていた。体は意識を失っていたことを感じさせないかの如く、自然に力を込めてラニオの左足を崩そうと動く。だが押しても引いても、内膝に肩を当ててもびくともしない。
「おら」
ラニオは知子のわき腹を殴りつけた。
重いハンマーでぶん殴られたような衝撃。腹を押さえうずくまりたい衝動をなんとか抑える。
一発だけでは終わるはずもなく、二発、三発。
知子は吐いた。血か胃の内容物かはわからないがとにかく吐いた。
このままの体勢ではもれなくやられる。知子はラニオの左足を離し、ラニオの腰、ベルトを掴み、体をくっつける。これなら威力のあるパンチはとんでこない。だがしかし、この体勢。先程ジャイアントスイングでふり回されたように圧倒的に知子不利だ。
知子もただ掴んでいるわけではない。なんとか崩そうと知っている限りの方法を試してみるのだが、いかんせんラニオには通じないようだ。
「ふん、もういいだろ。お前はなにやっても俺には勝てないんだよ」
ラニオは知子の顔を掴むと一気に体から遠ざけるように押した。ラニオの腕は知子より長い。よって知子の手は抵抗する間もなくベルトから放れる。上体が一気に後ろに仰け反らされた。あまりの勢いに下半身が浮き、飛ぶ。反動により脚はラニオのほうへ。知子のかかとがラニオの右膝へ。
カツッ。
それは軽い打撃だった。
知子の顔からラニオの手が離れ、飛ばされながらもなんとか体勢を立て直し着地に成功。
「もうお前には飽きた」
ラニオが知子に一歩近づく。踏みだしたのは右足。
その右足、体重が乗った瞬間、がくりと力無く膝から折れた。ラニオがブタクマを捕まえている時、知子により蹴られ続けていたラニオの右膝はさっきの、軽い、しかし無防備にくらった衝撃で限界を超えたのだ。
よろりとふらつくラニオ。左足を前にだし、バランスをとる。
その時、電光石火。好機と見た知子はラニオの左足を捕らえた。先程とは違って足は軽く持ちあがり、しっかりわきに抱える。ラニオに残された右足は使いものにならない。
知子はラニオを押す。ラニオはケンケンして後退。
後ろは海。


“コスメティックもろざし”〈八十七〉

今の知子の体力は、相撲をやめてからほとんど運動をしていないので、たまに思い返すよう腕立て伏せやぶら下がり健康器を使っての懸垂をする程度、最大限に見積もっても男子中学生の平均ぐらいだろう。ましてや体重は50キロをきっている。
その知子にブレーキの壊れたダンプカーの如く突進してくるラニオ。優に100キロを超え、150キロはあるだろう。その差、実に3倍。体重だけではない。握力、脚力、背筋力、およそ身体能力に関していえば身長以外は3倍、部位によっては5倍から6倍はあるだろう。大人と赤子、ブラックバスとメダカ、イージス鑑とお椀の船、核爆弾と線香花火。いかに技術で勝っている、と思われる、としても如何ともしがたい圧倒的な体力差。
真っ正面から大人気なく隙をつき突っ込んでくるラニオに、知子は受けて立つ構えだ。知子も体勢不十分ながらラニオに突っ込む。
横に逃げる、なんて考えは浮かばない。まず向かってくる人間をとっさに横へと避けるのは簡単に見えてその実、かなりの技術、身体技法がいる。ましてや闘争、相手はラニオ。横に避けるだけならできたとしても、その後闘う体勢を保つことが果たして出来るか。出来なかったとなれば崩れた体勢のまま為す術なく捕まり、死ぬことになるだろう。そしてなにより、ブタクマの相撲に立会の変化は無い。ただでさえしないのに“格下”相手にすることは選択肢にすら含まれていない。
ゴスッ。
かといって頭からラニオにぶつかれば戦闘不能状態に陥るのは必定。知子は地面に膝がつくぐらい低い体勢でラニオの手をかいくぐり、ラニオのどてっ腹に衝撃を受け流すよう右肩と顔をぶつけた。衝撃は背骨を通じ足に伝わる。知子は無理に足をつっぱらない。そんなことをしたら体がアコーディオンの蛇腹の如くぐしゃぐしゃになってしまう。必然的にラニオの勢いを止めることはできない。まぁそれが目的ではないのだが。たたたたっと足をもつれさせないよう後退する。衝撃は最小限に留めたが、それでも知子の首はミリミリと音をたて、曲げることができなくなり、右肩の感覚はなくなった。ラニオの突進を真正面から受け止めた割に被害は少ないと、知子の技量を誉めるべきかもしれない。
いつまでも知子を押しているだけでは埒があかない。ラニオは腰にしがみつく知子のベルトを奥襟を掴むよう握り、力任せにふり回した。しかし知子はラニオを離さない。あまりに知子がしつこくしがみつくのでジャイアントスイングみたくぐるぐる回るラニオ。遠心力により知子の足が浮く。
「ったく、目が回っちまうぜ」
回りながらラニオが言った。と、同時に知子をひっぺかそうとする力が強くなった。
まずい、肩がはずれる。
知子は腕を離した。
後ろ足から、まるでスライディングをビデオで逆回ししたように飛ぶ知子。強烈な勢いは知子が着地した瞬間知子を弾く。
知子は再び飛んだ。今度は横方向ではなく斜め上方向。知子は産まれて初めてバク宙を決めた。
「おいおい、そんなんで俺に勝つ気か?ははは、相撲の枠内ですら俺に勝てないじゃないか」
高笑いするラニオに対し、
「はぁ?勝てない?なに勝ちを気取ってるんだ?私がいつ土をつけたよ?私がいつ負けたよ?むしろ勝ちを気取りたいのは私の方だわ。お前はまさにでくの棒。うんざりするほど相撲をわかってねぇ。私は自分が強いとは思わないけどね、あんたに負けるほど落ちぶれちゃあいないわ」
と、言い放った。
知子は決して虚勢を張っているわけではない。相撲なら負けないな、と組み合った瞬間わかった。それは実際の勝ち負けではなく、絶対的な戦力差を認めないほど知子はバカではない、感覚的に、相撲に関してこいつには一切劣っていないということだ。
「…………もう遊びは終わりだ」
ラニオはピクピクとこめかみを震わせている。


“コスメティックもろざし”〈八十六〉

「ふん、いいだろう。遊んでやるよ」
ラニオは憎々しげにブタクマをゴミのように投げ捨てた。もちろん魔の海へ。
知子の心は決まっている。ブタクマが海に落ちようとも動揺などしない。それがブタクマに対する、受けとめたメッセージに対する返答だから。
「てめぇ、ぶっ殺してやるからな、ちょっと待ってろ」
知子はそう言ってくるりとふり返る。いくら心を決めても、ラニオの挑発如きにはびくともしないが、さすがにキツい。愛する者達の死や圧倒的な恐怖、これから訪れる死闘に対する絶対的な死の予感。ブタクマは勝てると言ったが、知子はそんなの無理だと思う。ブタクマが何故あんなことを言ったのか、理解はできないが、わかる。感覚が直接わからせる。ましてやこの悔しさを引きずったまま生きることなどできない。
私は勝たねばならない。たとえ死んでも勝つ。ならば、恐怖や死、ひいては今までの人生をなんとかして乗り越えなければならない。後悔することのないよう。そして勝利の可能性を増やす為、否、ラニオに負けない為、ラニオに勝った気分を味あわせない為といった方が適当であるかもしれない。
後ろ向きのまま知子は静かに息を吐き、そのマスカラの効いたまつげを震わせ瞳を閉じた。こんな時にも関わらず、いや今だからこそ、深く深く自分に潜り込む。
瞼の裏にあの頃の大嫌いな、相撲やブタクマに出会う前、暴飲暴食しかできなかった精神的にどん底な頃の自分の姿が見えた気がした。
「ごめんね、信じてくれなくて構わないけど、今、すごく好きになれたよ」
つぶやきながら再度マスカラまつげを震わせた。アクリルの中にいるような透き通る夜空いっぱいに輝く満月があの頃の自分の笑顔に見えた。
「ありがとう。今ならわかるよ、笑ってもいいんだ」
なんだか背中が軽くなったような気がする。ガチガチの体にリラックスがやってきたのだ。それはすなわち体が戦闘態勢になったということ。
と、同時に、知子の目にみるみる涙が溜まっていく。ふたりの父親の死。託されることのなかった意志と託された意志。
「いけない、パンダになっちゃう」
知子は涙がでるのをかろうじてこらえ、足元にあった、釣り人が忘れていった、もしかすると海にのみ込まれたのかもしれない、バケツに左手を突っ込み、まだ半分凍っているオキアミを“ゴソッ”と崩れ落ち無いことが不思議なくらい盛った。ふり返ると同時に夜を舞うオキアミ。満月の輝きはオキアミをキラキラとコスメティックに輝かせる程に。
もはや涙は引き、その目に闘志を輝かせたなら。

待ったなし

自然と知子は生臭い左手の“くぼみ”を舐めた。無性にしょっぱさが欲しかった。知らずしてそれはブタクマの現役時代、取組前の癖でもあった。
その瞬間、指の隙間越しにもの凄い勢いで自分に向かって突っ込んでくる肉の塊、ラニオを見た。
知子の存在全てを、そして存在証明をかけた闘いが幕を開けた。