“コスメティックもろざし”〈八十六〉 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

“コスメティックもろざし”〈八十六〉

「ふん、いいだろう。遊んでやるよ」
ラニオは憎々しげにブタクマをゴミのように投げ捨てた。もちろん魔の海へ。
知子の心は決まっている。ブタクマが海に落ちようとも動揺などしない。それがブタクマに対する、受けとめたメッセージに対する返答だから。
「てめぇ、ぶっ殺してやるからな、ちょっと待ってろ」
知子はそう言ってくるりとふり返る。いくら心を決めても、ラニオの挑発如きにはびくともしないが、さすがにキツい。愛する者達の死や圧倒的な恐怖、これから訪れる死闘に対する絶対的な死の予感。ブタクマは勝てると言ったが、知子はそんなの無理だと思う。ブタクマが何故あんなことを言ったのか、理解はできないが、わかる。感覚が直接わからせる。ましてやこの悔しさを引きずったまま生きることなどできない。
私は勝たねばならない。たとえ死んでも勝つ。ならば、恐怖や死、ひいては今までの人生をなんとかして乗り越えなければならない。後悔することのないよう。そして勝利の可能性を増やす為、否、ラニオに負けない為、ラニオに勝った気分を味あわせない為といった方が適当であるかもしれない。
後ろ向きのまま知子は静かに息を吐き、そのマスカラの効いたまつげを震わせ瞳を閉じた。こんな時にも関わらず、いや今だからこそ、深く深く自分に潜り込む。
瞼の裏にあの頃の大嫌いな、相撲やブタクマに出会う前、暴飲暴食しかできなかった精神的にどん底な頃の自分の姿が見えた気がした。
「ごめんね、信じてくれなくて構わないけど、今、すごく好きになれたよ」
つぶやきながら再度マスカラまつげを震わせた。アクリルの中にいるような透き通る夜空いっぱいに輝く満月があの頃の自分の笑顔に見えた。
「ありがとう。今ならわかるよ、笑ってもいいんだ」
なんだか背中が軽くなったような気がする。ガチガチの体にリラックスがやってきたのだ。それはすなわち体が戦闘態勢になったということ。
と、同時に、知子の目にみるみる涙が溜まっていく。ふたりの父親の死。託されることのなかった意志と託された意志。
「いけない、パンダになっちゃう」
知子は涙がでるのをかろうじてこらえ、足元にあった、釣り人が忘れていった、もしかすると海にのみ込まれたのかもしれない、バケツに左手を突っ込み、まだ半分凍っているオキアミを“ゴソッ”と崩れ落ち無いことが不思議なくらい盛った。ふり返ると同時に夜を舞うオキアミ。満月の輝きはオキアミをキラキラとコスメティックに輝かせる程に。
もはや涙は引き、その目に闘志を輝かせたなら。

待ったなし

自然と知子は生臭い左手の“くぼみ”を舐めた。無性にしょっぱさが欲しかった。知らずしてそれはブタクマの現役時代、取組前の癖でもあった。
その瞬間、指の隙間越しにもの凄い勢いで自分に向かって突っ込んでくる肉の塊、ラニオを見た。
知子の存在全てを、そして存在証明をかけた闘いが幕を開けた。