“コスメティックもろざし”〈八十九〉 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

“コスメティックもろざし”〈八十九〉

「うおぅうぁ」
このままでは落ちる。
そう思ったラニオは右足で体を支えることをやめた。なまじ足があるから後退するのだ。足さえ取っ払えば。すなわち大地に身を置けば、知子に俺を動かす能力は無いのだ。
ラニオはグレイシーが寝技に持ち込むが如く、背中から豪快に受け身をとった。
「ざまぁみろ!」
知子は叫んだ。相撲であるなら勝負あり。知子の勝ち。
その知子の腹をラニオは蹴っぽる。その蹴りは知子を宙に浮かすには十分であった。
尻から着地する知子。ゆっくり立ちあがる。
「言い訳は聞かないぞ」
知子は言った。
まさしく「アクシデントだ」と言おうとしたラニオは奥歯を噛みしめる。
ラニオは上体を起こし、右足を曲がったまま伸ばす。
ゴキン、
と、知子に聞こえるほどの音がした。骨が折れているわけではない。ねじくれた半月板が膝関節に引っかかり、それが元に戻る音だ。
かくかくと膝を曲げ伸ばしするラニオ。なんとか動くものの力は入らないな、と認識する。
その間、知子はラニオを黙って見ている。手出しできないのだ。ラニオが思った通り、知子にはこの一見して無防備な体勢のラニオを攻めることができない。蟻地獄のよう、吸い込まれたなら地獄。知子にはラニオを組伏せる体力も技術も無いのだ。体力といえば、知子はすでに限界。ほとんど運動していなかった者が自身の三倍ある相手とやりあっているのだ。あまつさえ死闘。体にかかるストレスは想像を超える。膝はがくがくと震え、吐き気がするほどの疲労感。そして首と腹にくらったダメージは深い。朦朧とする意識。
ラニオはそんな知子の状態を見破った。まぁ誰が見てもわかるほど知子は憔悴しているのだが。この余裕が激情に浸るラニオを冷静にさせている。ただし嵐の前の静けさである。
「どうした、かかってこないのか」
ラニオはいやらしく言う。
「うるせぇ、負け犬」
知子は吼えるが、いかんともしがたい。
「さて、次は無いぞ」
ラニオはのたりと立ちあがった。
「もう何度も聞いたよ。単細胞」
「おぉ、悪い悪い。じゃあ死ね」
ラニオは知子に飛びかかった。怪我の影響により、飛びかかったというには若干語弊があるが、思うよう体が動かないのは知子も同じ。避けることはかなわず、また相撲取りの習性として、真っ正面からぶつかることを余儀無くされた。
ボゴッ、
知子の腹にラニオの膝が突き刺さる。
ラニオは知子がこちらに向かって来るのを確認すると、残っている左足で方向をずらし、空(くう)に向かう知子の腹に大腿筋をフルに使って右膝を突き刺したのだ。
くらった瞬間、ラニオの膝を軸に宙返りするみたく身を翻せば多少なりとも衝撃は体を抜けていくのだが、知子はまともに受けてしまった。
崩れ落ちる知子。ついに地に伏す。
「俺は相撲じゃお前に勝てないんだろ?」
ラニオはうつ伏せになって悶絶している知子の髪を掴み、顔を上げさせる。そして、
ガチン、
コンクリートに顔面を叩きつける。知子の額は割れ、ボタボタ垂れる血潮。
「いやぁ、確かにその通りだったな。お前のほうが強かったよ。相撲はな。認めよう」
ガチン。
「さすがブタクマの弟子だ」
ガチン。
「でも、ま、俺は相撲で負けてもいいんだ。勝ったことより負けたことのほうが多かったからな」
ガチン。
「おい、まだ、生きてるか」
ガチン。反応は無い。
「さて…あまり俺のイライラは解消されなかったが、しょうがない。お別れだ」
ラニオはむんずと知子の首根っこを掴みと、持ち上げる。知子は漁師に担がれた蛸のようにだらりとして、額にはバラの花が咲いている。
知子は、言うに及ばず体は動かないのだが、意識はある。しかしその意識も、たとえていうなら、酔っ払って記憶を失い、その失った記憶の最中なんらかの行動をしている自我、あるいは、「思い出せない『思い出のアルバム』の内容」といったような、もはや意識とはいえないものだ。
その触れた端から消えてゆく粉雪のような意識の中、知子はラニオの背後の海が青白く光っていることが気になった。