“コスメティックもろざし”〈八十三〉 | からだに恥をかく体操〜えんぴつみがき〜

“コスメティックもろざし”〈八十三〉

信蔵の体は一度も浮かび上がることはなかった。
「ふぅ、じゃラニオ君、あとは任せたよ。こう見えてあまり人が死ぬのを見るのは好きじゃないのでね。まぁしかし天敵ぐらいは自ら手を下さなくては、ねぇ、いずれ私が世界の秩序になるのだから」
根来は運転手を先導にすたすたと堤防を歩き、車へと向かう。
「では、任されたことをするか…」
ラニオは知子の首を絞めた。
「万が一、海に落ちてから逃げられたんじゃあ、な。お前もこっちのほうが苦しまないよ」
ラニオがにやにやしながらささやく。
知子の視界が次第に、円を縮めるよう黒くなっていく。己の心、ぺんぺん草一本生えぬ荒れ果てた心には心地よささえ感じる苦しさの中、
「あー、なんかもう、ダメだ」
と思った。
「ラニオ君、待て」
ふいに根来が叫んだ。
ラニオの手から条件反射で力が抜ける。
どっくんどっくん、知子の頸動脈は意識とは反対に生きるため激しく脈動する。
「ん、あれは」
ラニオが目を凝らした場所、堤防の入口に黒塗りの車が一台停まった。
「加藤か…」
車の扉が開く。と、同時に出てきた人物は脱兎の如く駆け出す。目指すは知子。堤防は袋小路。人物はもちろんブタクマ。
「な、ブタクマか!?」
ラニオは驚き桃の木。
その言葉に知子はぴくりと反応した。荒れ果てた荒野に湿った風、恵みの雨の気配。
「加藤!」
根来は叫んで逃げる。当然ラニオの方、堤防の突端へ。走り方がなんともいえぬ滑稽さ。走っているのかスキップしているのか。
根来につられて運転手も逃げる。
「き、君は来るな!足止めぐらいしろ!」
根来の言葉に運転手は逃げるのをやめる。懐から取りだすはピストル。
バンバンと二度引き金はひかれた。一発は空をきったものの一発は見事、ブタクマの耳をかすめた。
ピストルの有効距離はここまで。ブタクマは既に近接戦闘の間合いに足を踏み入れている。なおかつ止まらない。
「ごふぇ」
運転手はブタクマのアメリカンフットボールのようなタックルを胸に受け、そのまま担ぎ上げられた。
運転手はもはや為す術なし。意識も朦朧。
ブタクマは走りつづけ、カーブにさしかかると運転手を海に投げ捨てた。
根来はまだカーブの途中、ラニオは堤防の先で動いていない。
ブタクマはすぐに根来に追いつき、片手で首根っこを掴むと、猫を扱うように持ち上げる。人間、空中ではほぼ無力。バタバタする根来のベルトを握り完全に動きを掌握した。
「ラニオ!その娘を!知子を離せ!」
ブタクマが走るのをやめ、歩きながら叫ぶ。
「ブタクマぁ!」
実際には「ふがふがぁ」との発音だが…。
知子の口から言葉が、目から鼻から尿道からは液体が。そして心には乾季の終わりを告げる豪雨が降りそそぐ。
「根来さん…」
ふたりとふたりの距離はもはや10メートルもない。ラニオはどうしていいかわからないのだろう。根来に請う。
「ひぎう、ひぎう」
根来はズボンを尻の割れ目に食い込ませて声にならない声をあげる。
「ラニオ!知子を離せ!こいつがどうなってもいいのか!!」
ブタクマは首根っこを掴む手に力を入れた。
「はぅお」
根来は天使画の天使のように体をくねらせる。
「ラ、ラ、ラ、ラニオ君、その娘を離しなさい。人質交換だ」
痛みに耐えかね根来が叫ぶ。この場さえ乗り切れば…そういう希望的観測もあるのだろう。
「おい、知子の縄をほどけ」
「ラ、ラニオ君、縄をほどきなさい」
もはや操り人形。その操り人形の操り人形であるラニオは言われたとおり知子を縛る縄を解いた。