教員時代、よく生徒に聞かれました。
「先生、何のために勉強するの?」
おそらく、先生方は、この答えに十人十色でしょう。
同様に、親においても十人十色でしょう。
子どもが学習に対して単純に抱くこの疑問に、大人が十人十色なのです。
おかしくないですか?
こんな疑問に対して、大人達が、明快な統一見解を持てていない。
ということです。
結局、子どもが根っこが納得して動かないから、
大人たちは、次のような手段にでるしかなくなるのです。
・プレッシャーをかける → 心身症へ
・馬の前に人参で、ご褒美をあげる。
「何番になったら、〇〇買ってあげる」
「何番になったから、焼き肉のご褒美」
→ 社会人(大学生)になると無気力か遊び三昧へ
こんな空気を読み取って、教師も「ここテストに出すぞ」を殺し文句にする。
こういった、体(てい)たらくが現実です。
この大問題については、学校もPTAも喧々諤々、議論すべきです。
親はよく言います。
「誰のためでもない、お前の将来のためだ、」
と、本当に将来のためですか?
高学歴が皆、幸せになってますか?
私は、いろんな教え子の例をいっぱい見てきました。
・親から、将来〇〇になれとプレッシャーかけられ、
その仕事についた途端に、目標達成したので
「これでいいでしょ」と自殺してしまった子
・高学歴で社長になったものの、能力があり自分で全部できるので
すべてを背負い込んで心身症になった子
・高学歴で将来が親にも嘱望されながら、勝手に大学をドロップアウトして
海外に逃げた子
なぜか高学歴者の失敗談は後を絶ちません。
その反面、学校の成績も学歴も良くなかったが、私も見習いたいくらい
バイタリティ-も人間味も豊かに、雄々しく生きている子もします。
むしろ、
与えられた問題を解く能力に長けた人間よりも
あらたな問題点を見出し、解決する能力や決断力に長けている人間の方が
社会では必要とされている
ということです。
さて、話題がそれましたが
本題の
「何のために勉強するのか?」
この大問題に、答えはあるのか?
あります。
「人の役に立つために勉強するのです」
人の役に立って、人の喜びを我が喜びとするために勉強するのです。
知らない人が多いのですが、
実は戦前は、日本の親も教師もこのことを鉄則かの如くに伝えていたのです。
前後は省きますが、伝書にも
「・・・人は心を尽くし ぞんずべし。
そうじて、身にそうたほど分際にしたがい徳を諸人にほどこすべし・・・」
と伝え、自分の得手不得手を心得て、得意な分野をもって、多くの人に徳を施し
喜ばれ、その喜びを己の喜びとしなさい
ということです。
再三再四、これを教えてきたのです。
詳しくは記しませんが、
この発想で万人が仕事にかかわれば
詐欺や横領といった社会問題もなくなり、全ての巡りが良くなるのです。
ここが抜け落ちたので
人参をぶら下げるかプレッシャーをかけるしかなくなり
しまいには
利益(ご褒美・金)にならないことは何もしない若者にあふれかえっているのです。
名ばかりの自由と権利に翻弄された
戦後教育の大失敗です。
人の役に立つため
このことを教師も親も声高に語り
ここが子供の根っこに、ストン と入ると成功です。
この時やっと子どもは
「オレ(私)に何が出来るかな?」
を初めて考えるようになり、人助けが加速するのです。
そして、人生の中で
「あなたに出会えて本当に良かった」
と言ってくれる人が1人でもいたら
その人生は、ハッピーの極み、
大成功なんだと教えてあげて下さい。
どうぞ今日から
このことを子供たちに伝えて下さい。
これが、教育の根っことなり。
子どもの「やる気」の源泉となります。
「プレッシャーとご褒美」の付け焼刃教育では無気力になるのが当たり前、むしろ、素直な子なのかもしれません。
人の喜びを我が喜びとして、そのために、
頭を鍛えよう
体を鍛えよう
ということです。
これは、天が望む、理に叶った願いだから
知らず知らずに
フツフツと不動のやる気が湧き上がってしまうのです。
よろしくおねがいします。
安部浩之