倒れた者が勝つ 10月24日 23:21

 

なにに祈るのか 10月23日

記録 人間でないもの 複数の可能性を想像する 半ば動物になる 単なる失敗だと思ったら許せ 

 

もともと違う人間 09月30日 15:50

〇神を受け容れる 09月27日 23:58

*誰でもじぶんのアウシュビッツを持っている 09月16日 02:46

*精神の松明イザベル・ルオー像  09月13日 21:22

*現代の神話ソラリス 09月13日 20:02

 

神への信頼 09月01日 01:45

〇 信仰と愛が集中してはじめて雑音は消える  07月31日 23:39

 

出られないトンネルは無い 07月15日 19:52

受け入れられるかぎりは 07月16日 22:45

 

なぜ文弱派は文化の本筋であることをやめないか 07月16日 01:15

 

百年一日のような初心な愛の実践をやめないことだ 07月11日 03:37

この世は神さまの作る演劇だと思ってみる 07月10日 22:15

 

和解という観念を否定してよい場合と感謝 07月04日 16:30

「心配」の同義語は「まだ希望が持てる」 演奏や翻訳は解釈という表現行為 

じぶんに納得のゆくことをしていればよい 07月03日 01:45

私記 06月29日 16:33

 

すべては神が為すと思うこと 06月28日 21:17

 

※ 他にも言ってやりたい訓  06月28日 14:45

※ 忘れたい記憶を忘れるために 06月27日 16:39

※ 演奏や翻訳は、解釈という表現行為である 06月27日 16:23

※ 裕美ちゃんの世界を尊敬する 06月25日 22:57

 

「感謝」は依存執着ではなく自由独立である 06月08日 23:52

伝わって来る思い 05月29日 22:20 

 

意志は欠乏を補うべく発動される | 〈悪〉には〈からくり〉があるのか 裏付けられたと思われる絶対的不信と、だからこその絶対的信頼 

 

”魂の思想を自分の内的展望になるまで理解する” 

”リルケの美しい言葉”  05月26日 01:32

じぶんの素な空白のために 選択的時効発動 05月20日 01:00

 

自由とは余裕である 「余裕の哲学」の創出 04月09日 01:09

本来的自己は常に気づかれる(自分へ) 04月05日 03:32

「正しい」と「決める」ことが出来るぼくの判断 04月03日 01:55

 

※私話  03月21日 23:10

自戒 じぶんだけは曇りのないように  03月19日 23:22

 

覚書 連絡させるものが無い場合…  03月16日 16:30

母の誕生日  03月16日 19:00

自分を再び見いだす力  03月17日 02:32

 

強化される 純粋自我への信仰  03月12日 

秘語  03月04日 23:25

 

じぶんの負けをじぶんの内で認めている相手には 殊更に不要な辛口を人間は利くものらしい 

自分を整える  03月01日 12:58

美と品格への意識はぼくにとって無条件でその他より絶対的に優先する 

目醒め 02月06日 22:16

*瞑想  01月26日 19:55

自尊心の強い人間に罰は存在しない 01月29日 11:57

実存と光明 II 01月20日 19:46

じぶんの訓 01月20日 18:22

仕事しさえすればよい

「高田博厚」 01月14日 23:23

 

じぶんの存在のための覚書 01月12日 22:52

訓 '24. 01月09日 23:15 

 

*創造することが生きることになる 23. 12月23日 23:25

創造の精神 「遠野」にちなんで 12月25日 23:50

 

信仰とは自分の核心に沿うこと 修道士の路 愛の修道士の路  23. 12月10日 00:23

 

*日本的な愛を卒業しているぼくは 神とともにある愛しか理解できない 

決意に基づいて神と関わる本心 10月10日 14:50

 

自分へ '23 08月18日 21:41

浮ついた事象への執着を無くすには  08月26日 21:11

・・・でゆこう  09月21日 15:08

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テーマとして見いだした大事で核心的な問題は、意識して繰り返し問い、つまり言表して、展開しなければならない。この言表展開をぼくはやろうと決意した。

 すなわち、

 

「〈愛〉と〈詩・芸術〉の人間存在論」 である。 

 

〔〈詩・芸術〉は〈美〉:

愛は美の存在根拠、美は愛の認識根拠 ””””(露西亜と仏蘭西) 美と愛について:主題 ”””” 

 

〔 人間の本質すなわち存在は、時空にたいする超越性。それを啓示するのが、〈愛と芸術〉あるいは〈愛と美〉である。この二つを相互根拠性(存在根拠・認識根拠)において相即的にとらえることによって、「逸脱した美」と「偽りの愛」を防ぎつつ、人間の存在すなわち本質を探求する。2023.4.29 

 

最初の覚え書き:

〈人間は愛なしでは生きられないのは、人間は時空を超えたものであるから。それを愛と芸術は知らせる〉

 

 

テーマ:

 

人間は愛なしでは生きていられない、とよく言われる。それは、人間が本来、時間・空間を超えた本質を有しているからであり、時空を超えたものへの参与なしには自分の本質と一致しないからである。それを最もよく啓示してくれるのが愛の経験なのだ。最も内面的であるがゆえに外部的なもの(時空)を超えている人間本質、それは主体性と間主体性という両極性において現われる

 愛は本来、時空を超えた形而上的なものである。そしてそれは人間の本質と一致する。ゆえに人間は愛なしには、つまり時空を超えた自らの本質なしには、人間らしく生きていられない。

 このこといっさいは、真剣に真面目に受け取められねばならない。

 そしてここに詩と芸術の意味がある。愛の、形而上次元の、扉を開くもの、確かめるもの、として、詩と芸術はあるのである。詩と芸術によって人間は人格的な愛に直接に目醒めもするのである。

 ゆえに愛と詩・芸術には、人間の存在論が懸っているのだ。

 

 

 

 

 

テーマ:

 

戯曲は、人間の心に寄り添う(あまりに濫用されている言葉だが)訓練と快楽であり、まさに親密性の実現ではないか。親密性とは間主体性が意味するところのものである。ただの二人称関係ではなく、超関係的な境位である。そこには神的なものがある。たとえその描くものが壊れた世界であっても、それを描く行為は間主体性の境位のみから出来るのであり、戯曲の経験そのもののなかにその境位の感得はあるのだ。

 

演劇創作でも、彫刻でも、通常の自我を超出したメタフィジックなもの(それを魂の境位と呼べば、純粋自我でもあるもの)への行為が、芸術行為であるとは言えないだろうか。

 

 

3.7

 

3.23 記録

 

〈愛〉のために時を使うときこそ、じぶんは居るのであって、ほかはすべて自己満足、自己放棄だということは、教育はけっして教えない。〈詩人や芸術家〉は、それを知っている者でなければならないだろう。そのことを思いだすために、週休日はあるのであって、これは深い知恵である。神を思う日というのは、自分の魂を思う日、じぶんの愛するひとに集中する日、ということと同じである。すべての社会的拘束を離れる日。これはすばらしいことである。日本人はまだそのことに充分目醒めていないことが、日本人につよい「甘え」の原因にもなっていると言える。土居健郎の「甘えの構造」は、甘えを否定しているのではなく、人間には自立と甘えのバランスが必要だと言っているのである。このバランスを得ることは、魂の秩序あってはじめてできるのだというのが、ぼくの変わらぬ思いである。このことは、人間の生活におけるメタフィジックな次元の必要に覚醒させるものであり、これが、知性である。

 

 

3.26

彫刻のような孤独な行為も、魂に向かって単なる主体性を超える行為であるかぎり、本質的には間主体的な行為であると言えないだろうか。意図を超えた行為。だから宗教的な、メタフィジックな行為であると高田博厚によっても言われるのだ。

 

「神」と言うにはじぶんの力が足りないゆえに「メタフィジック」と言うと高田博厚は言っている。これは「形而上日記」とじぶんの思索帳を言うマルセルと同じである。自分が自分の魂に行動することは本質的に間主体的な行為であり、ゆえにメタフィジックな、宗教的な行為なのである。マルセルの演劇創作と本質は変わらない。

 

 

超越者は、俯瞰できないほど多様な形態において自らを啓示する、というヤスパースの言葉を、これに重ねることもできる。 マルセルの間主体性という観念は、メタフィジック一般を広義に示すものと解することができる。

 

 

ぼくのすきな高田博厚とマルセルをつなぐ一本の糸が見いだされたと感じられるだけでこれほど温かい満たされた気持になれる。 人間行為に関する具体的かつ普遍的な形而上的観点が浮き立ってくるからである。

 

間主体性こそは、美 と 愛 と 信仰 の本質である。

 

 

 

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マルセルの言葉より 芸術と愛

 

 享受においては、媒介するものと媒介されるものとの同一性が存するように思われる(「汝」が「彼」と混ざっているのであり、汝が両者の一つの表現でしかないどころではない)。私は物の記号とではなく物そのものと「交わり」 3〈3. 一九二五年の覚書。— この、交わり[communication]という術語は、もっと後で見るように、全くもって不適切である。〉の状態にあるのであるが、このこと自体によって、物は単に理論的意味での物であることをやめるのである。〔つまり〕物は意味されるものであることをやめるということである。この意味においてこそ、芸術は、愛と同様に、啓示なのであり、芸術は〔神的な〕賜(たまもの)を内包しているのである。(つづく)

 

 

「形而上的日記」 144頁