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気づいたことを書いておこう。ぼくと他の書き手(広範の)を分けるものは、美意識や品格の有無なのだ。美意識と品格といっても、意識してぼくが則っているわけではない。いわば無意識的にもそれにぼくは則っているのだ。そして、そういう無意識的にもぼくにある感覚に、他の人々は則っていない。他の広範な人々の書くもの制作するものは、記事の内容の質の相異にかまわず載せる新聞に似ている。ぼくの書くもの制作するものは、どういうものであれ美意識や品格意識に必然的に制御されている。この必然性は、ぼくの本性から出てくる、ぼくの自由意識以前の、ぼくの自由そのものを拘束し、ぼくの好き嫌いを根源的に決定するものだから、ぼくの自由と本来一致するものだ。ぼくの美意識と品格意識、それがぼくの自由そのものの正体だ、と言っていい。ぼくの自己反省や探求以前に、「そこに既にあるもの」なのだ。だからぼくは文士たちに必ず付きものであるらしい酒飲み話には絶対合わせられない。臨席して観察するくらいはできるが、参加することはない。そういう素質も傾向もぼくには無いのだ。無かったし、それでよかったとぼくははっきり いま確かめている。それこそがぼくをあらしめてきたもの、あらしめているものなのだ。ぼくは、人々とよりも、ぼくの神とどんなときでも一緒にいる。慇懃無礼といえばぼく以上にそういう者はいないだろう。それでよかったし、よいのだ。

 

 ほかのことも書こうとしたが、この根本から必然的に結果するものだ。その根本に気づく契機として、そのことを書いておこうとしたのだが、ぼくの本質論となった。つまり、品格や美意識が一片でも欠けているものは、その全体がぼくから拒否される、という結果である。全体を文字通りぼくが拒否しているというわけではありません。一片の欠如のゆえに、全体をぼくは排除するのです。たとえ内容を肯定できても。だって、そういう書き手にはどこか品格や美の欠如があるのです。ぼくにとって論より先に大事なのはそれですから。

 

 

これがあなたのでこぼこね。

 

まさに、神経症と言いたければ言っていいほどの素地だよ。ぼくはそれを直そうとはおもわない。一度くらいそれを宣言しておいていいと思ったんだ。