播磨方面へは行こう行こうとして
もう10年近くが過ぎました。
私にとっては難所である阪神地区を越さないといけないため。
都心部を通過するのにはかなり勇気がいりますね~
またこのまま10年ほどが過ぎてしまうのでしょうか…まだこの世で生きながらえているのでしょうか…。
前回の記事では、天目一箇神を奉斎した鍛冶氏族として菅田首を上げました。播磨国賀茂郡(現在の小野市)の「菅田村」に居て、菅田神社にて祖神の天目一箇神を奉斎していたと。後に近江国蒲生郡(菅田神社→後に竹田神社)や大和国添下郡(菅田神社)へ移住したと記しました。
その播磨国の菅田首は「東条川」沿いに居ましたが、これは「加古川」の支流。一族はこの「加古川」を舟途に利用したと考え、鍛冶氏族たちの痕跡を追及しています。
◎多可郡多可町の青玉神社
第3回目の記事で、西脇市大木町に鎮座する天目一神社が登場しました。こちらは「加古川」のさらに上流で、支流の「杉原川」沿い。陰暦十一月八日に「ふいご祭」が行われると。
旧社地には旧坑が多くあるようです。「杉原川」の源流に近いところされます。
*青玉神社
多可郡多可町加美区山寄上に青玉神社が鎮座。ご祭神は天目一箇命と五百筒磐石命(イオツイワシノミコト)。少し川を下った加美区鳥羽にも青玉神社が鎮座。こちらは天戸間見命(アメノトマミノミコト)と大歳御祖神。
かつては「三国岳」山上に祀られていたという伝承があるようです。「杉原川」の源流となる山。播磨国多可郡の北端であり、氷上郡の青垣町へ抜け、朝来郡の山東町や和田山町に入り、養父郡の八鹿(ようか)から但馬国出石郡へと通じる道が開けていたとのこと。出石は既出の通り、天日槍神が最終的に鎮まったという地。
*「多可郡誌」が伝える青玉神社
━━伝説によると但馬一円に海水が満々とたたえられていたのを、彦火火出見は天戸間見命と協力して、津居山のところで排水した。そのあと、天戸間見命はこの三国岳のところにとどまって開拓にしたがった。今も三国岳の中腹に鉄碪(かなしき)と称する場所があるが、それは天戸間見命が農具を鋳造した所だろうとされている。天戸間見命はいつも青色の宝珠を愛好していたので、青玉神社と名づけたという━━
開鑿(かいさく)に使用した鉄器具は、鉄原料を「金鈷山(かねとこやま)」から得て麓の「畑」という集落で鍛えた…と重なり合っています。
*天戸間見命とは
また同書に「右京 神別 天孫 朝来直 火明命三世孫天礪目命之後也」とあり、天礪目命(アメノトメノミコト)と通音であることを指摘しています。「礪目(トメ)」は「砥目」でもあって砥石とつながりがあるのかもしれないと。
ここは谷川健一氏が指摘だけしておいて、さらっと流していますが、そうもいかない!ここでは天戸間見命の基礎情報を示しておきます。
尾張氏の遠祖とされる人物(神)。尾張氏の系図には天礪目命が天斗目命として、海部氏系図には天登目命として登場します。
天忍人命(天村雲命の子)と葛木出石姫との間の子。始祖 天火明命からの尾張氏の嫡流であったと思われます。子は建斗目命(建登目命)。さらにその子の建田勢命が丹波国造・但馬国造となっています。天礪目命(天斗目命、天登目命)の事績等は知り得る限りありません。
いくら通音であるからと、天戸間見命と天礪目命(天斗目命、天登目命)を同神とみなすのはかなり無理があるかと思います。ここは通説通に「天戸間見命=天目一箇命」で良いのではないかと。
◎「円山川」河口、「瀬戸」の開拓神
ところが本書では取り上げられていないもう一つの伝承が存在します。時代が大きく異なるためともに史実であるのか、或いはもう一つの伝承が天日槍神や天戸間見命(天目一箇命)に仮託されたものかもしれません。もう一つの伝承を簡潔に紹介しておきます。
「円山川」河口、豊岡市「瀬戸」に西刀神社(せとじんじゃ)が鎮座します。「西刀=瀬戸」のようです。ご祭神には西刀宿祢がみえます。海部直命の子。父子ともに城崎郡司。仁徳天皇の時世に西刀の水門を切り開いて干拓したと伝わります。
[但馬国] 西刀神社
◎「気比川」流域出土の4体の銅鐸
「円山川」の河口近くの「気比(けい)」からと銅鐸4体が出土しているとあります。正確には「円山川」の東方500m~1kmほどの「気比川」流域。
(→【丹後の原像】第83回 但馬の弥生文化と古社)
4体のうち1体は、和泉国「陶邑」出土と同笵。もう1体は摂津国島下郡の「東奈良遺跡」出土と同笵。
和泉国「陶邑」は、崇神天皇が探し求めた大田田根子が居たという伝承地。宮司をしていたという式内社 陶荒田神社が鎮座します。
摂津国島下郡の「東奈良遺跡」は銅鐸大工房が発見。すぐ近くに式内社 佐和良義神社が鎮座します。「さわら」は「銅器」の古語であるという説も。
この2例とを谷川健一氏はどう繋げたいのか、その意図は見えませんが、和泉国や摂津国と但馬国と、これほどまでに離れた地とを往来していたということでしょうか。

[摂津国] 佐和良義神社
◎多可郡多可町加美区の荒田神社
「杉原川」を少し下ったところ、多可町加美区的場に鎮座するのが式内社 荒田神社。播磨国二ノ宮。第2回目の記事に登場しました。
「多可郡誌」はご祭神を少彦名命・素戔嗚命・木花咲耶姫命としていますが、当社側は少彦名命の代わりに天目一箇命を入れた三座としています。
「播磨国風土記」の記述を再掲載します。
━━道主日女命が父無し子を生んだ際に盟酒(うけいざけ)を作るために田七町に稲を植えると七日七夜の間に稲が実った。諸神を集め宴会を開くと、道主日女命の子は天目一箇神に酒を捧げたので父親が分かった。後に田が荒れたので荒田村と名付けた━━
道主日女命とは、天火明命の妻 天道日女とは別の土着神であろうと思われます。そして天目一箇神の妻であると。この後、当社及び付近には鍛冶関連の地名が多いことが挙げられ、天目一箇神が鍛冶神であることを伝えていますが、既にそれは氏により証されたこと。ここでは省略します。
◎「荒田」の意味
「播磨国風土記」には「田が荒れたので…」と地名由来が記されています。製鉄のために田が荒れたのかもしれません。
和泉国「陶邑」に、式内比定社 陶荒田神社が鎮座すると先に記しました。この「陶邑」は須恵器製作を日本でもっとも早く始めたところとして知られています。
陶荒田神社は大田田根子が宮司であったとされます。そして「田田」は「タタラ」と解されているとのこと。「地名辞書」は祀られているのは大田田根子の祖父 陶津耳命としています。いわゆる「耳族」。一方で「神祇志料」は荒田直の祖である高魂命と剣根命を祀るとしています。
以上から製陶或いは製鉄にかかわる人(神)たちを祀る神社であろうと推量しています。

[和泉国] 陶荒田神社
今回はここまで。
この企画物記事もおよそ1/3ほどのところまで進めることができました。
まだまだ先は長いのですが…。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。