[大和国高市郡] 牟佐坐神社



■表記
身狭村主青(ムサノスグリアオ)
*身狭青 …「村主(すぐり)」は姓
*氏は続紀や「日本紀略」、「新撰姓氏録」などで「牟佐」と表記される


■概要
5世紀後半頃に活躍した官吏。生没年不詳。
渡来系帰化人であり、東漢氏(ヤマトノアヤウジ)の配下。呉国からの渡来人とされます。

◎「新撰姓氏録」には「左京 諸藩 漢 牟佐村主 出自呉孫権男高也」とあります。「呉孫権男高」とは呉国を建国した皇帝 孫権のこと。

◎同じく東漢氏配下であり、史部(朝廷の書記官)であった檜隈民使博徳(ヒノクマノタミノツカイハカトコ)とともに、雄略天皇の御宇に二度に渡り呉国に派遣されています。

◎雄略天皇の唯一の寵臣がこの二人。
紀の即位二年十月の条に、━━史戸と河上舎人部を設置した。天皇は自身を絶対だとし誤って人を殺すことが多く、天下はそれを誹謗し「大悪天皇だ」と言っていた。唯一寵愛したのが史部身狭村主青と檜隈民使博徳等である━━とはっきり記されています。

◎一度目の派遣は雄略天皇八年のこと。
二人の派遣の背景には、即位以来、新羅からの朝貢が無かったことに端を発します。
二人を呉国に派遣することにより、呉国からの圧力を畏れた新羅は高句麗(高麗)と友好関係を結び、高句麗から100人の防衛兵が送られてきました。ところが高句麗は新羅を滅ぼそうとしていました。それを知った新羅は任那の日本府に救済を求めます。結局は日本から救援軍が派遣され高句麗軍を退けています。

◎雄略天皇十二年に、二人は再び呉国へ派遣されます。そして帰還したのは十四年。呉国が献上した手末才伎(手工業技術者、ここでは機織技術者)とともに。
連れ帰ったのは漢織(アヤハトリ)・呉織(クレハトリ)・衣縫(キヌヌイ)の兄媛・弟媛。そしてこれら呉人を「檜隈野」に置いたとあります。
おそらくは史部という重要な職種を担っていたものの、外交官といった職種においてもいかんなく実力を発揮したのであろうかと。

◎これら渡来人たちを支配していた東漢氏は、応神天皇の御宇に渡来した阿知使主(アチノオミ)を始祖とする氏族。後に次々と渡来する人々も合わさっていった複合氏族であったとされます。そのうちの一つに牟佐村主もあったとされています。

◎身狭村主青が創祀に携わり、また東漢氏の本拠地と考えられているのが大和国高市郡の式内大社 牟佐坐神社

◎壬申の乱(672年)の段で身狭社(=牟佐坐神社)が記されます。
━━高市郡大領高市縣主許梅が突然話すことができなくなり、3日間口を閉ざした。3日後に神が取り憑き「吾は高市社(河俣神社に比定)にいる事代主である。また身狭社にいる生霊神(イクタマノカミ)である。… 神日本磐余彦天皇陵(神武天皇陵)に馬と種々の兵器を奉れ。吾は大海人皇子の前後に立ち不破まで送り奉ってから還った。今また官軍の中に発ってこれを守護する。西道より群衆(大友皇子郡)が至ろうとしているので警戒せよ」と言った。そこで大伴吹負(オオトモノフケヒ、大海人皇子軍)が許梅を神武天皇陵に遣わせ、馬と兵器を奉った。また幣を捧げて高市社身狭社を祭った━━(大意)

◎呉孫権男高(孫権、呉津孫)を祀る社として後述のように式内社 呉津孫神社があります。比定社は呉津彦神社、論社は小嶋神社



■祀られる神社・関連社等
[大和国城下郡] 村屋坐彌冨都比賣神社

[大和国高市郡] 牟佐坐神社
[大和国高市郡] 生國魂神社(橿原市大久保町) … 式内大社 牟佐坐神社の論社

[大和国高市郡] 呉津彦神社 … 本来は呉津孫尊(孫権)を祀る

[大和国高市郡] 小嶋神社 … 本来は呉津孫尊(孫権)を祀る
[大和国高市郡] 於美阿志神社 … 阿知使主を祀る

[大和国高市郡] 与楽乾城古墳 … 東漢氏首長級墓
[大和国高市郡] 与楽鑵子塚古墳 … 東漢氏首長級墓

[大和国高市郡] 新沢千塚古墳群 … 被葬氏族不明ながら東漢氏たちの可能性有り



[大和国高市郡] 小嶋神社