於美阿志神社
大和国高市郡
奈良県高市郡明日香村檜前594
(社前に1台程度のスペース有り)
■延喜式神名帳
於美阿志神社の比定社
■旧社格
村社
■祭神
阿智使主神夫妻 二柱
南東から張り出した明日香村「檜隈」(日前、ひのくま)の丘陵地の先端部に鎮座する社。
◎東漢氏(ヤマトノアヤウジ)の始祖である阿智使主(アチノオミ)を祀る社とされます。彼らの氏神であり、境内には氏寺の檜隈寺もあったとのこと。
◎東漢氏は後漢の霊帝の血を引くという(創作か)帰化系渡来人で、この辺りを拠点にした氏族。
応神天皇二十年、倭漢直(ヤマトノアヤノアタヒ)の祖である阿智使主と都加使主(ツカノオミ)親子が十七県の党類を率いて帰化、「高市郡檜隈村に住した」と紀の応神天皇二十年の条にあります。
また続紀の延暦四年(785年)六月条には、後漢の霊帝の曾孫であり、七姓漢人とともにやって来たとあります。これは東漢氏の裔である坂上苅田麻呂が述べています。
◎古墳時代頃に続々と渡来してきた渡来人が、共通の祖神伝承のもとに、次第にまとまったものとする説があります。つまり阿知使主は創作された人物ではないかという可能性があるということに。またおそらくは朝鮮半島から来たのであろうが、自ら権威を示すために東漢氏を名乗ったのではないかと。
◎現社地にはその阿知使主の住居があったとされ、7世紀後半頃には東漢氏の氏寺である檜隈寺が創建、当社はその鎮守社として創建されたものとみられます。
「於美」が「使主(あち)」、「阿志」が「阿知」と音が類似するということからのようです。
◎当社旧社地は現在より西側にあり、明治四十年に遷座されたようです。道路を隔てた西側とされることから、現在は民家が建つところでしょうか。
◎檜隈寺は昭和五十五年に奈文研により発掘調査が行われ、講堂は7世紀末頃に造られたものとし、瓦積基壇は国内では希少、朝鮮半島に多く見られる手法であることから、渡来人が建てたものと分かりました。
紀には朱鳥元年(686年)八月条に「檜隈寺」という記述が見えます。
◎なお鎮座地「檜前(檜隈、ひのくま)」は、紀伊国の日前神宮(ひのくまじんぐう)との何らかの関連が十分に考えられます。そちらは紀氏(紀伊国造家)が奉斎した社。氏族同士の関連は無さそうに思います。
◎また境内は第28代宣化天皇の「檜隈廬入宮跡」ともされています。「大和志」は宣化天皇の崩御直後に創建がなされたとしています。
◎一方で「五郡神社記」はまったく異なる見解を示しています。「於美阿志神社は磐橋神社とも称し、高市郡久米郷にあって高市連・奄知造等の祖天目一箇神を祀る」とあります。
「久米郷」は現在の橿原市久米町に比定され、久米氏(紀伊国造家と同族)が拠点とした地。久米寺や久米御縣神社は見えますが、「磐橋神社」は存在が確認できません。「雲梯郷(うなてごう)」には類似名社として、「曲川村(まがりかわむら)」に金橋神社(かなはしじんじゃ)、「真菅村(ますげむら)」に磐余神社(いわれじんじゃ)がありますが。
「五郡神社記」の記述には根拠が示されておらず、何を以ての「磐橋神社」なのかは分からないまま。
◎寛政四年(1792年)九月ハ日付の御湯釜の銘に「御霊大明神御湯釜大根田村檜前村氏子中敬白」とあり、江戸時代には「御霊神社」も称されていました。当時の御祭神が大和国宇智郡で多く祀られる井上内親王か、都を中心に多く祀られていた崇道天皇なのかは不明。
*写真は2018年2月と2024年11月撮影のものとが混在しています。
*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。