長髄彦軍の拠点となったという伝承のある磐船明神(春日神社)




◆ 「土蜘蛛」 七顧 (長髄彦)




この記事は『椎根津彦命(倭宿禰)考 ~1~2』の記事を 書き終えた直後に起こしています。


この2記事作成のために消費した時間・気力・体力が、思いの外激しかったようで…

人生の一区切りを終えたほどの脱力感(笑)

ギアを入れ直さねば!
こちらも力を入れてやらねばならないテーマなので。




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等彌神社 下ツ尾社の「金鵄」の彫刻



長髄彦神(記では登美毘古)が再び登場します。

前回は「難波碕」の「白肩津」から上陸した神武東征軍が、眼前に聳える「生駒山」で決戦をした時のこと(→ こちらの記事にて)。

東征軍は大敗を喫し、紀州を経て遥々と熊野から再上陸、奥深い吉野を越えて菟田へ。「磐余(いわれ)」の地で再決戦を 行うというもの。

これが事実上の最終決戦となります。





紀の記述は以下の通り。
━━戊午年十二月、長髄彦と何度も戦うが勝てません。ところが突然雨氷が降り、「金色の靈鳥」が飛来し天皇の弓の先端に止まりました。その時鵄(靈鳥のこと)が稲妻の如くまぶしく光り、長髄彦軍は目を眩まされ戦うことができない状態に━━(大意)

有名なシーンですね。神武軍は目を眩まされなかった?という野暮なツッコミは、この際置いておきましょう。紀の記述らしからぬファンタジードラマのような1シーン。

この後、長髄彦神が拠点としていた「長髄邑」が「鵄邑(とびのむら)」(転訛し「鳥見邑」)と呼ばれるようになったと記しています。そして続けて…

━━長髄彦は使者を遣わし天皇に告げました。「昔、饒速日命という天津神の子が天磐船に乗って降臨しました。私はその方に仕えています。どうして天神の子が二人もいるのか?どうして私たちの国を奪おうとするのか?偽物では?」これに対し天皇は「天神の子は多くいる。お前の君主が本当の天神なら表(しるし)があるはず、それを見せなさい」と言いました。
天皇と長髄彦はお互いの表(しるし)を 見せ合い確認しました。ところが長髄彦は反抗を やめようとはしません。饒速日命は天神が丁重に接しているのは天孫であることを知っています。長髄彦にそれを教えても理解できそうにないので、殺してしまいました━━

なんとまあ酷い話しなのですが。
長髄彦神は主君の饒速日命の手により最期を 迎えました。

ここで少々ややこしいのが「天孫」と「天神」。紀の記述を見る限りちゃんと区別できていなさそうにも思います(こんなんでええの?)。

「天孫」はもちろんヤマト王権を作った神々。天照大神以下、降臨した瓊瓊杵尊の子孫のこと。一方「天神」は高天原にいる神々。または高天原から降った神々のこと。

神武天皇は「天孫」であり、饒速日命は「天神」。「先代旧事本紀」の記述を真に受けて、天火明命(天孫)と饒速日命とを同神であるとしてしまっている方々は、この違いをちゃんと理解されていないようですが。「新撰姓氏録」においては明確に区分されています。


奈良市三碓 添御縣坐神社のご本殿と背後の長髄彦神の墳墓(伝承地)




一方で記の記述には長髄彦神(登美毘古)との争いの様子がまったく描かれていません。登美毘古を討とうと…としておきながら「久米歌」が歌われ、続いて饒速日命が天皇の元へ参上。そして天津瑞(あまつのみしるし)を献上するという記述のみ。

紀のあまりにファンタジーな神話めいた話、そして記においては一切記述がないという事実。本当に最終決戦が行われたのか?このような疑いを持つわけです。

最終決戦が行われたという「磐余」周辺に、饒速日命や長髄彦神(登美毘古)の痕跡、伝承があまりに少ないのも事実。彼らが大和盆地北西部の偏狭地のみを治めていたのではないかというのが個人的な考えです。ましてや決戦などは行われていなかったと思うのです。


■関連する史跡等(訪問済みのみ)
春日神社(磐船明神) … 長髄彦軍の拠点(伝承)

等彌神社 … 最終決戦地(伝承)
鳥見霊畤 … 最終決戦地(伝承)