◆鳥見山・多武峰 郷土史( 21.多武峰街道)


今回をもって最終回とします。

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「多武峰街道」とは、「多武峰」にある談山神社(たんざんじんじゃ)へ通じる街道のこと。

談山神社とは、「乙巳の変」(いっしのへん、我々の頃は「大化の改新」と言った)を起こす画策が練られた場所。

中大兄皇子と中臣鎌足が、蹴鞠をしながら蘇我氏を滅ぼしてしまおうかと…。


この社だけは行ったことがなく、
またこれからも行くことはないかと。

勉強のために春日大社へは参っても、
談山神社にだけはさすがに行こうとは思わない。


だから、大鳥居(一の鳥居)がどうのこうのとか書かれていますが割愛。

書では談山神社の方へは向かわず、東南の下る方向へ。「浅古(あさご)」「倉梯(現在の倉橋)」方面へ。

ここでもまた聖林寺。もちろん割愛。


…の前に。


九頭神社・九頭龍神社を飛ばしたか…。
これこそ知りたかったのに。


続いて下居神社と崇峻天皇について書かれています。

冒頭石碑通りに式内比定社ですが、

この書においては、この山を「天満山」と称していたとあり、明治の比定前は天満神社と称されていたことが裏付けられました。

そして境内は崇峻天皇の「柴垣宮跡」であったと記しています。

これは知らんかった…。

記事に修正を加えねば!


ただし、現在は別の地が比定地とされているようですが。



ちなみに境内は、ここから400~500mほど歩いた山頂。

写真は舗装された道路ですが、ほとんどは畦道。民家の庭の中を通らねば辿り着けません。

おばあちゃんの洗濯物が干されたところを避けて通らねば…(笑)

そもそも「大字下居」はもっと南方であり、比定自体に問題有りなのですが。


この一の鳥居からさらに下ったところに崇峻天皇陵があります(未参拝)。


この後、この書では「下居橋」を過ぎ、「音羽道」に分かれる標石が、
「高七尺餘(余)で、上古迷信の遺物であらう」としています。

現在もあるのかどうか不明。
近くを通る時は探さねば!


さらに奥地へ進むと「百の市」の聚村へ。



「破不動」と「不動延命の瀧」を載せています。

残念ながら修験者たちの仕業なのか、磨崖仏が彫られてしまったもの。
上古からの磐座だったのだろうと思います。

村人たちは反対しなかったのか…。


ここから先は神武東征時の「女坂」。
宇陀郡の「宮奥」へと続きます。

ここが数少ない路だったのでしょうが、
やはり瀧と磐座があったからではないかと考えています。

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長々と長期に渡り綴ってきた『鳥見山・多武峰 郷土史』。

残すは「多武峰」の章のみであり、
これについては触れたくもないので、今回をもって閉じます。

遠く離れた地にお住まいの方も多く「いいね」をして頂きました。

ま…記紀神話の重要な舞台でもあることですし、敢えてテーマ化したわけですが。

とにもかくにもありがとうございました!


等彌神社の佐藤宮司には、あらためて御礼をせねば!

等彌神社 上ツ尾社