■過去の記事


前回の記事は、なぜこの書に出会えたかの経緯についてのことを書いたのですが、少々興奮気味で脱線。

気が付くとまったく中身の無い記事になってしまっていたことを反省。






さて、等彌神社の宮司さん直々にご案内頂いた春日神社
ごくありふれた神社でした。

春日神社や八幡神社は中世以降に祭神変えされているのがほとんどであり
祭神変え前の痕跡を探る作業が必要となります。

くまなく探し回ったものの
ところがそういった痕跡は見当たらず仕舞い。

帰ってネットを中心に探っていると
かつては「岩船神社」と呼ばれていたことが分かりました。


古代史好きの方なら、これだけでもうピン!とくるはず。

鳥見山、等彌神社には饒速日神の伝承があり
その饒速日神は「天磐船」に乗り降臨してきたのです。

降臨地は「河内河上の哮ヶ峯(たけるがみね)」であり、有力候補地は生駒山。

拠点は「トミ」であったとされています。
付近にはそれを由来とする神社や地名が多く残っています。
登美神社、鳥見町、富雄、登美ヶ丘など。

また磐船神社を始め、饒速日神を祀る神社が数多くあります。

もう一つの候補地として上がるのが、桜井市の鳥見山なのです(宇陀市の鳥見山も候補地の一つ)。


この「岩船神社」と呼ばれていることを確認するために
再び等彌神社へ伺い宮司さんとお話をすることになりました。

そしてお話の中で話題に上ったのが当書だったのです。


当書に書かれている内容は、
春日神社のあるところを、かつては「岩船山」と称していたそうで、春日神社は「岩船大明神」と称していたと。

さらに降臨したのは生駒であるが、
当地に宮殿を作ったとしています。

また長髄彦(ナガスネヒコ)の娘である登美屋媛を娶り、可美眞手命(ウマシマデノミコト)が生まれた地であるとも。


しかもこの辺りの地名「上宮」は、饒速日神の宮があったことからとしています。
※「上宮」で生まれた聖徳太子は上宮太子とも呼ばれています。

したがって当初は岩船大明神(饒速日神)を祀る神社であったのです。
そして「上宮」と呼ばれる謎も解けました。

なお春日神は江戸時代に勧請されてきたと、当書には書かれています。


これまで桜井の鳥見山に関しては、
後世に部族の移動があったのかと大して研究も行わずに漠然と考えていました。

饒速日神や長髄彦神が拠点の一つとしていた以上、洗い直す必要が出てきました。

そしてこれまであまり深くは関わって来なかった、神武東征に関して踏み込まなければならないことに。
ということは、宇陀郡にまで遡らないといけないことに。

古代史解明への扉が大きく開いたような気がします。