■過去記事


そもそも埴安池(磐余池、市磯長池)の範囲が重要になるのは、
「磐余稚櫻宮」をどこに比定するかにおいて。

候補地は2箇所あります。
池之内に鎮座する「稚櫻神社」と谷に鎮座する「若櫻神社」。いずれも式内社 稚櫻神社の論社。

その「磐余稚櫻宮」は書紀に以下のような記述があります。
「(意訳)第17代履中天皇3年11月、天皇が后などとともに磐余市磯池に両枝船を浮かべて遊んでおられました。膳臣余磯が天皇に酒を献じると桜の花が舞い落ちてきます。不思議に思った天皇は物部長真胆連(モノノベノナガマイノムラジ)に命じて探させます。連は遂に掖上の室山(御厨子山南室 )で見つけ出し献上します。天皇は大いに喜び磐余稚櫻宮と命名、また長真胆連の姓を稚櫻部造に余磯を稚櫻部臣を改めさせました。」

雅な貴族社会の説話。
式内社の比定はもちろんのことですが、伝説の地を探し求めて往時の気分に浸ってみたいと感じるのも性でしょうか。

当書においては池之内の稚櫻神社がその式内社であると断じておられます。
ちなみにこちらを式内社であるとする意見派は、当書を基にしています。

当書が池之内の稚櫻神社とする理由は、
谷の若櫻神社が「稚櫻」姓を賜った物部長胆連が姓とともに、その地も下賜されたからというもの。

したがって稚櫻部造(物部長胆連)の後裔が、
祖神である物部長胆連を氏神として祀った神社であるとしています。

社務所裏の巨木(未確認)は、伝説の稚櫻の子孫木であるとも。

ところでその神社の東北民有地にある井水を履中天皇が賞せられ、「櫻井」の地名が起こったとされています。

※冒頭の写真は稚櫻神社(池之内)境内。
(2018 4月中旬に撮影)