稚桜神社 (桜井市宮地)


大和国城上郡(中世に十市郡に編入)
奈良県桜井市字宮地1000
(P無し、一の鳥居前に2台程度まで停められそうです)

■延喜式神名帳
城上郡 若櫻神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
気息長足姫命
出雲色男命
去来穂別命(イザサホワケノミコト、履中天皇)


「磐余池」推定地とされる地の東端、丘陵の頂に鎮座する社。
◎式内 稚櫻神社の論社、同市の谷に若桜神社がありいずれも論社。第17代履中天皇の「磐余稚桜宮跡」ともされ、当地(論社のうちのいずれかと推定)で即位されています。
◎紀の履中天皇三年十一月の条に、天皇が両股船(ふたまたのふね)を「磐余市磯池(いわれいちしのいけ)」に浮かべて后と遊宴している際に、奉られた酒盃に桜の花びらが舞い落ちました。季節外れの不思議な桜にどこから飛来したものか、物部長真胆連(モノノベノナガマイノムラジ)を呼び出し探させました。長真胆連は「掖上室山」でそれを探し出して来たとあり、それが縁で「磐余稚櫻宮」と名付けられました。また長真胆連は稚櫻部造、酒盃を奉った膳臣余磯(カシワデノオミアレシ)は稚櫻部臣と名乗るようになったとされています。
◎「掖上室山」については室宮山古墳が有力候補地とされるものの、諸説あり確定はされていません。「掖上」から少々離れていることもその理由の一つ。そもそも桜の花びらの飛来が史実であるとするのであれば、「掖上」というのが誇張表現であるのか、或いは「御所市掖上」以外に「掖上」という地があったのか、解釈に迷うところ。
◎ご祭神に見える出雲色男命(イズモシコオノミコト)は饒速日神の三世孫、そして色男神の四世孫が物部長真胆連。
◎問題は谷にある若桜神社と当社とどちらが実の式内社なのか。これについて大胆に推測をしていきたいと思います。
◎まず地理的なところから。当社(桜井市宮地、池ノ内の稚桜神社)は橿原市との市境に近いところに鎮座します。桜井市谷の若桜神社はそこから1km余り東側に鎮座。「磐余(いわれ、石寸)」と呼ばれる地域はこの2社の間辺りです(明確な区画は分かりません)。ちなみに、この中間辺りに中心地とも考えられている石寸山口神社(いわれやまぐちじんじゃ)があります。
谷の若桜神社のご祭神は伊波俄加利命(イワカカリノミコト)と大彦命。伊波俄加利神は四道将軍の一人 大彦命の後衛でもあり、またその後衛の伊波俄牟都加利命(イワカムツカリノミコト)の後衛でもあります。ムツカリ神は料理神として崇敬の篤い神で、料理などを天皇に奉る膳氏(後に高橋氏)。
ここで見えてくるのは、池ノ内の稚桜神社は桜を探し出してきた物部長真胆連系の神を祀る神社であり、谷の若桜神社は花びらが落ちた酒盃を奉った膳臣余磯系の神を祀る神社ということ。つまるところ異なる氏族がそれぞれに祀った神社ではあるものの、同じ説話に基づく神社でもあります。
◎次に現存しない「磐余市磯池」をどこと見るかですが、近年の発掘調査で断定はできないものの桜井市と橿原市の市境で池の水をせき止める堤跡が発掘されました(『「磐余池」を訪ねて』の記事参照)。これは池ノ内の稚櫻神社のさらに西側、往古の神域は不明ですが隣接していたのかもしれません。ということは谷の若桜神社からはかなり離れています。
さらに地名は「池ノ内」。おそらく当地に宮が営まれ、神社(式内社)も建てられたとみるべきでしょうか。谷の方は関連社、または別宮的な意味合いもあったのでしょうか。

◎参考記事
*鳥見山・多武峰郷土史 (磐余 埴安池 その1その2)
稚櫻神社(池之内)

*写真は過去数年にわたる参拝時のものが混在しています。





花びらが舞っています。

開花から1週間後辺り。散ったばかりが美しい境内です。

以下は2021年2月参拝時のもの。樹がほとんど伐採されてしまいました。もう花びらが舞うことは無いのかも。


部分的に改修されたようです。


拝殿とご本殿との間の磐座。

以下は長い坂道の参道途中の境内社の一部。