■過去記事


現在「磐余」という地名はほとんど残っていません。

桜井駅から南への「磐余通り」、
さらにその先の「磐余橋」、
そして石寸山口神社(いわれやまぐちじんじゃ)。

地図で見るとわずか一画。

ところが昔はもっと広い地域を指していたと言います。
ここでもう一度、この書が発行された大正時代の地図を。



当書では「磐余」の地を
北は東光寺山、南は上ノ宮、高田(式内大社 石寸山口神社の論社、高田山口神社が鎮座)
西は橋本、池ノ内、吉備、池尻までとし、
「鳥見山に匹敵する一大山塊を成してゐた」と記されています。

またそこから西南方向に埴安池(磐余池、市磯ノ池とも)が広がっていたとするのが当書。

思うに「池ノ内」という地名は
やはり「池」の「内」側であると思うのです。

「池尻」も「池」の「尻」だと思うのです。

「島井」は池に浮かぶ「島」だと思うのです。

「橋本」は池に流れ込む川にかかっていた「橋」ではないのでしょうか。

元々池などというのは人工的にも自然的にも
大きくもなれば小さくもなるのであろうと思います。

堰堤跡が発見されたからといって
池の端がそこであるのは、その堤が造られたその時期だけのことであると考えます。

池の畔にあったとされる池辺双槻宮さえどこにあったのかが分かれば
当時の池の範囲の答えは出るのでしょうが。

ちなみに千田稔先生はその堤よりさらに東側を磐余池と想定されいるようです。

その理由までは知りませんが、ごく普通に、ごく素直に考えて「磐余」と言っている以上、千田先生の説が正しいのかもしれません。




御厨子神社の参道前から。