■過去記事
2.櫻井町の起こり


この古書の中で個人的に関心の高い記事が
「磐余」に関して。

この古書をどうしても拝読したいと願ったのは、その内容についてを知りたかったから。

その中核を成すのが「埴輪安池」。
「磐余池」とも「市磯池(いちしのいけ)」とも。

この池がどこからどこまでであったのか
大きく意見が別れており、それにより「稚櫻宮」がどこにあったのかが変わります。

「イワレ論争」とも。

この「磐余(伊波礼)」になんと5代にも渡り、宮が営まれました。どれほど重要な地域であるかが分かります。

神功皇后 → 若櫻宮(稚櫻宮とも)
17代 履中天皇 → 稚櫻宮
22代 清寧天皇 → 甕栗宮
26代 継体天皇 → 玉穂宮
31代 用命天皇 → 池辺双槻宮

神武天皇(神倭磐余彦命)が兄磯城の大軍を負かしたのもこの地。
神名にまで「磐余」の文字。

この「イワレ論争」の行方が
式内社 稚櫻神社の比定、石寸山口神社(いわれやまぐちじんじゃ)の比定にもつながります。

当書ではその池を天香山の麓から安倍の辺りまでとしています。
その辺りはいくつもの池が点在、それがすべてその池の名残であるということです。

これに真っ向から反論しておられるのは
千田稔先生。

さらに平成23年の発掘調査において、池の水を止める堰堤跡と考えられるものが
稚櫻神社の西200mほどのところで発見されました。

つまりそこから西側が伝説の「埴安池」ではないかとする説が有力になります。


(続く)