若桜神社 (桜井市谷)


大和国十市郡
奈良県桜井市大字谷字西浦344
(P無し、周辺に停め置く場所も無し)

■延喜式神名帳
若櫻神社の論社
[境内社 高屋安倍神社] 高屋安倍神社三座 並名神大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
伊波俄加利命
[高屋安倍神社] 大彦命 屋主彦太思心命 産屋主思心命


式内社 若櫻神社の論社であり、もう一社(比定社)の稚桜神社(池ノ内)とでどちらが本来の式内社なのか、活発な論争が繰り広げられています。論争の詳細は稚桜神社(池ノ内)の記事を参照(ご祭神についても)。
◎境内は履中天皇の「磐余若桜宮」の伝承地(「【書紀抄録】磐余池と若桜」の記事参照)。これは当社創建に大きく関わること。
概略は履中天皇が宴を催していたとき季節外れの桜の花びらが酒を献上したときに舞い降り、物部長真胆連(モノノベノナガマイノムラジ)の功により原因が判明、宮の名を「磐余若桜宮」に。そして長真胆連に「若桜部造」、酒を献上した膳臣余磯(カシワテノオミアレシ)の姓を与えたというもの。
◎桜井市大字「谷」字「西浦」に鎮座。現在の地形からは「谷」と呼ばれる要素はありません。「西浦」は「寺川」の西側という意味になるのでしょうか。或いは「磐余池」がすぐ近くまで迫り、その船着き場ということだったのでしょうか。ただし仮に「磐余池」が迫っていたとしても、池からは北東方向となります。そもそも「磐余池」の推定地からかなり離れてはいますが。
◎境内社の高屋安倍神社は元々すぐ隣にあったようです。こちらが名神大社であり、本来はこちらの方が優位にあり当社はその関連社または別宮的な扱いだった可能性も。そもそも若桜神社は、個人的な推測から稚桜神社(池ノ内)の別宮でもあったと考えていますが。→◆鳥見山・多武峰 郷土史(5.稚櫻神社)を参照。
◎ご祭神の伊波俄加利命については、下部の高屋安倍神社の中で触れます(池ノ内の若櫻神社も参照)。

◎高屋安倍神社は原初は「松本山」に鎮座していたとのこと。霖雨で社殿が崩壊し若桜神社の隣に遷座されたと伝わります。
その「松本山」については「桜井市史」が「南方400mの字松本山に鎮座」としており、おそらくは史跡「土舞台」がある周辺となりそうです。そこから南裾に艸墓古墳、さらに南方すぐに谷首古墳、すぐ西方に安倍晴明を祀る御門神社、さらに安倍文殊院や安倍寺跡など、一帯は権勢を誇った安倍氏の本貫地。社格から一族の氏神であったように思います。
ところが石寸山口神社の旧社地もこの辺りではないかと考えられています。「式内社の研究」の志賀剛氏の説を借りるなら、式内社同士は半里(約2km)を隔てねばならず、おそらくこの法則に合致しません。どちらかの伝承が間違っているように思います。
◎安倍氏は安倍晴明を輩出したことがもっとも知られているでしょうか。皇位継承論争のとりまとめ役を行ったり左大臣にも着任した安倍内麻呂、蝦夷征討に名を馳せた安倍比羅夫、留学生として遣唐使の一員となった安倍仲麻呂なども、教科書でもお馴染みの顔ぶれかと。
◎ご祭神の大彦命は安倍氏の遠祖。第8代孝元天皇の第一皇子で、物部氏系の欝色謎命(ウツシコメノミコト)との間に生まれています。
四道将軍の一人(一神)で北陸に派遣されたことでも知られます。後裔は安倍氏を始め阿閇氏や伊賀氏、高橋氏(膳氏)など数多あり。
◎大変興味深いのが若桜神社のご祭神が伊波俄加利命(イワカカリノミコト)であること。「新撰姓氏録」には「右京皇別 若桜部朝臣 安倍朝臣同祖  大彦命孫伊波我牟都加利命之後也」と。
「若桜部]とは上述の履中天皇の宮名由来となった、桜の花びらが舞い降り…の中で賜った姓。そして「姓氏録」では大彦命の後裔であると。
一連のことから当社と若桜神社は、やはり密接に関連する社であることが窺えます。現在は主従が逆転してしまいましたが。
◎他のニ神 屋主彦太思心命(ヤヌシヒコフトシタマノミコト)、産屋主思心命(ウモヤヌシオモイ)についても大彦命の後裔ではないかと思われます。神名から知性に富む氏族だったように思います。
ご祭神は他に建沼河別命、安倍倉橋麻呂(安倍内麻呂のこと)、兄姫などとする資料も。いずれも安倍一族であり、やはり安倍氏の氏神であったと考えて良さそうです。

※写真は2018年4月と2021年1月撮影のものとが混在しています。





ご本殿は閉ざされて見えません。



「桜井市」の地名由来となった「若桜の井戸」。履中天皇が汲んだ清水とされています。