石寸山口神社
(いわれやまぐちじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県桜井市谷502
(P有)

■延喜式神名帳
石村山口神社 大 月次新嘗 の比定社

■旧社格
村社

■祭神


大和国十四所山口社の一であり、その比定社。比定されてはいるものの、少々難があると言わざるを得ない比定社。他に論社として高田山口神社がありますが、こちらも比定するには決定的なものがない神社。
◎当社を考うるに「磐余(いわれ)」という地がどこからどこまでを指すのか、それが焦点となるかと思います。現在は知り得る限り当社名と「磐余通り」、「磐余橋」の3ヶ所のみ。それらから察するに、現在のJR・近鉄「桜井駅」から「天香山」までの広範な地域であったように思います。仮にそうであるとするなら、当社は北東部に位置しています。
◎そもそもは神武東征において、兄磯城(エシキ)軍と対峙した地。即位前の神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)に「磐余」が含まれています。また神功皇后以下5代に渡り宮が営まれた地でも。ここには巨大な「磐余池」があったとされ、いずれもその界隈に営まれたのであろうとされています。
◎当社は「山口社」であるにもかかわらず、ごく小さな丘の上に鎮座。朝廷の用材を切り出す「山口神社」とは到底考えられません。旧鎮座地と考えられる「磐余山(コモ山)」も同様(おそらく「土舞台」の周辺と思われます)。
高田山口神社の方は「多武峰」の麓にあり、この点だけを考えれば「山の口」として該当。その場合はあくまで「磐余山」を、「多武峰」まで含めての場合。大規模な土木工事を行った斉明天皇の、渠(みぞ)を穿ったのが「天香山」の西から石上までというものを、「石上」を「石寸」の誤りと考えるという前提付きのもの。
◎「大和志」には「雙槻神社(ふたつきじんじゃ)」と称したとあるのですが、これは用命天皇の「池邊雙槻宮」によるもの。「池」の「邉」とはもちろん池の畔ということですが、「磐余池」の堤と考えられるものが桜井市と橿原市の市境の「池尻」から出土しました(「東池尻・池之内遺跡」)。これは双方の神社から離れているため、いずれも該当しません。
◎以上からいずれでもない別の神社が本当の比定社であり、現在は廃社等になっているのかもしれません。

◎参考記事


*写真は2017年6月、2018年4月、2021年1月のものが混在しています。








境内から社前を。白い車が見えるのが駐車場。私は周辺の様子を見るため歩いて来ました。

鳥居前の祓戸社と「薦池」。