(下居神社)
◆鳥見山・多武峰 郷土史( 21.多武峰街道)
過去の記事
1.小序 2.櫻井町の起こり 3.磐余埴安池 ~その1 4.~その2 5.稚櫻神社 6.岩船山 ~その1 7.~その2 8.石寸山口神社 ~その1 9.~その2 10.磯城の二つの宮跡 11.赤尾・忍坂 ~その1 12.~その2 13.鳥見山 ~その1 14.~その2 15.宗像神社と鳥見山山麓 ~その1 16.~その2 17.茶臼山古墳と外山18.問題の鳥見山霊畤 ~その1 19.~その2 20.~その3
今回をもって最終回とします。
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「多武峰街道」とは、「多武峰」にある談山神社(たんざんじんじゃ)へ通じる街道のこと。
談山神社とは、「乙巳の変」(いっしのへん、我々の頃は「大化の改新」と言った)を起こす画策が練られた場所。
中大兄皇子と中臣鎌足が、蹴鞠をしながら蘇我氏を滅ぼしてしまおうかと…。
この社だけは行ったことがなく、
またこれからも行くことはないかと。
勉強のために春日大社へは参っても、
談山神社にだけはさすがに行こうとは思わない。
だから、大鳥居(一の鳥居)がどうのこうのとか書かれていますが割愛。
書では談山神社の方へは向かわず、東南の下る方向へ。「浅古(あさご)」「倉梯(現在の倉橋)」方面へ。
ここでもまた聖林寺。もちろん割愛。
…の前に。
九頭神社・九頭龍神社を飛ばしたか…。
これこそ知りたかったのに。
続いて下居神社と崇峻天皇について書かれています。
冒頭石碑通りに式内比定社ですが、
この書においては、この山を「天満山」と称していたとあり、明治の比定前は天満神社と称されていたことが裏付けられました。
そして境内は崇峻天皇の「柴垣宮跡」であったと記しています。
これは知らんかった…。
記事に修正を加えねば!
ただし、現在は別の地が比定地とされているようですが。
ちなみに境内は、ここから400~500mほど歩いた山頂。
写真は舗装された道路ですが、ほとんどは畦道。民家の庭の中を通らねば辿り着けません。
おばあちゃんの洗濯物が干されたところを避けて通らねば…(笑)
そもそも「大字下居」はもっと南方であり、比定自体に問題有りなのですが。
この一の鳥居からさらに下ったところに崇峻天皇陵があります(未参拝)。
この後、この書では「下居橋」を過ぎ、「音羽道」に分かれる標石が、
「高七尺餘(余)で、上古迷信の遺物であらう」としています。
現在もあるのかどうか不明。
近くを通る時は探さねば!
さらに奥地へ進むと「百の市」の聚村へ。
「破不動」と「不動延命の瀧」を載せています。
残念ながら修験者たちの仕業なのか、磨崖仏が彫られてしまったもの。
上古からの磐座だったのだろうと思います。
村人たちは反対しなかったのか…。
ここから先は神武東征時の「女坂」。
宇陀郡の「宮奥」へと続きます。
ここが数少ない路だったのでしょうが、
やはり瀧と磐座があったからではないかと考えています。
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残すは「多武峰」の章のみであり、
これについては触れたくもないので、今回をもって閉じます。
遠く離れた地にお住まいの方も多く「いいね」をして頂きました。
ま…記紀神話の重要な舞台でもあることですし、敢えてテーマ化したわけですが。
とにもかくにもありがとうございました!
等彌神社の佐藤宮司には、あらためて御礼をせねば!
等彌神社 上ツ尾社