◆鳥見山・多武峰 郷土史( 16.宗像神社と鳥見山山麓 ~その2)




ずいぶんごぶさたな記事となりました。

忘れていたわけではないけれど、他にも丹後国などシリーズ記事を起こしており、あれにも手を付けたいこれにも手を付けたい…と浮気性なもので。。。

最後にこのシリーズの記事を書いたのはおよそ1年前のこと。

大変ごぶさたなのでこのシリーズを起こしたいきさつを。

桜井市史(奈良県桜井市)を探る上でバイブルとなるような書があります(正確にはありました)。

これを等彌神社の宮司さんが持っておられ、
社務所にて拝読させて頂けるという夢のような機会を得ました。

大正時代に書かれた書。

この書が古代史研究者たちの間でバイブルともなっているのは、著者ご自身が現地に隅々まで足を運んだ見聞が基になっていること。そこに少し著者の考察が加えられています。

現在は失われてしまった史跡や伝承等が網羅されているからです。

(春日神社 別称岩船明神より「鳥見山」を)



…さて本題を。

記紀に記される「鳥見山」にはいくつか候補地があります。「鳥見山」とは、神武天皇が即位し鳥見山中に霊畤(まつりのにわ)を立て、天神地祇を祀り大孝を述べたところ。これは令和天皇即位で記憶に新しい「大嘗祭」のこと。つまり初めての「大嘗祭」が行われた地。

紀には「(神武即位四年の記述)乃立靈畤於鳥見山中 其地號曰上小野榛原 下小野榛原 用祭皇祖天神焉」と記されます。
神武東征ルートからは桜井市(城上郡)の「鳥見山」と宇陀市(宇陀郡)の「鳥見山」の二つに絞っていいかと思います。桜井市の「鳥見山」はこれまで再三記してきたように等彌神社の背後の山。宇陀市の「鳥見山」は「榛原」にある山。
この二つの候補地を巡り古来より激しい論争が繰り広げられていますが、未だ決着を見ません。

当書において、桜井市の等彌神社の背後の山を「鳥見山」とする根拠が上げられています。これは既に現在は消失している地名であり、大変貴重なものです。

「等彌神社参詣道は古く榛原道と云ひ此の附近一帯は榛の木原で寺川の左右は大きな谿谷をつくつてゐた」(※「寺川」とは鳥見山西方を南北に流れる川)とあり、
さらに「河西の聚落に近い東南の小字歌見田のほとりを流るゝ細流の分かるゝ處は小野堰といふて日本紀神武大帝四年の條の上小野榛原、下小野榛原の小野は流れつきせず堰にのみ名残をとどめてゐる」(※「河西」は鳥見山西方の地名)と記されています。

「榛原道」、「小野堰」ともに現在は失われた地名。「榛原」と言えば現在は宇陀市(旧宇陀郡)の榛原)しか残っていません。また奈良県民なら「榛原」は誰でも知っている地名。失われた地名がこの書に残されていました。

*宇陀市榛原の「鳥見山」の参考記事

(九頭龍神社前の寺川、当日は雨で濁流となっています)


桜井市の「鳥見山」周辺の史跡等についていろいろ記されており、前回の記事にも掲載しましたが、まだまだあるので主だったものを列挙しておきます。

◎「伏拝の芝」
「鳥見山」の北西に「小字伏拝の芝」という地名があったようです(詳細地不明)。これは神武天皇が皇祖天神を祀った時に、聚落の民衆がこの芝にひれ伏したものであろうという考察を加えられています。

◎「金ヶ崎」
「鳥見山」麓の北西方向に「金ヶ崎」という地名が当時は残っていたとのこと。これは筑前国の「金ヶ崎」をここに移したものであり、かつては「鳥見山」山頂、現在は外山(とび)に鎮座する宗像神社の名残であろうとのこと。



《続く》
なるべく次回は早めに記事を上げます。