(磯城「鳥見山」の「霊畤拝所」)






神武天皇が大和を平定、即位後間もなく「大孝」を述べ、天神地祇を祀った「鳥見山中」の「霊畤(まつりのにわ)」。初めての「大嘗祭」。

前回の記事でも冒頭に示したように、「鳥見山」のそれまでの見聞録といった内容とは一線を画し、著者の「私見」が述べられています。

・「鳥見山」は長髄彦神の別居地であったこと
・「岩船山」は饒速日神と登美屋姫の別居地であったこと

今回はその続きとなります。


~*~*~*~*~*~*~*~*~*~


いよいよ榛原(はりはら、現在は「はいばら」)「鳥見山」説と、磯城(桜井)「鳥見山」説との、激しいバトルが繰り広げられます。

けっこう辛辣な表現もあり、読んでいて面白い。
そもそも私自身は榛原「鳥見山」派であり、反対意見を高見の見物をするようなものですし。


今回は地理的な考察を行って私見を述べられています。

◎榛原派
磯城「鳥見山」は「皇軍激戦の中心地故にして流血腥臊(血生臭い)の地であるから大孝を申べ給ふべき司祭を行はせられた地ではない」と言っている
◎著者(磯城派)
「皇軍の大和聚楽占領は皇祖神の加護に依る処であるとの強き信仰に終始された天孫としては、寧ろ激戦の中心地即ち最後の勝利を獲得した名誉ある巷を霊地として皇祖神を祀り、一つは大孝を申べ二つには皇威を張られたに違ひ無い」

こればかりは水掛け論にしかならないでしょう…。

◎榛原派
「(鳥見とは)外山村(とびむら)方面より榛原地方一体に至る広範な名称であり、特に『霊畤を鳥見の山中に立つ』と『山中』の二字を加えてあるのは鳥見山系中の鳥見山中即ち明らかに宇陀鳥見(宇陀郡榛原)を語れるもので、磯城鳥見は鳥見山口又は鳥見山頂でなければならぬ」

何を言っているのかと言うと…
神武天皇は、鳥見山中に「霊畤(まつりのにわ)」を立てたと記されているが、「山中」とあるからにはそのような地形でないといけない。榛原の方は外山村(とびむら)からずっと丘陵地であり「山中」と言えるが、磯城の方は独立峰であり「山中」とはならないと。

さらに榛原派の意見が続きます。

◎榛原派
「更に注意すべきは大和地方の口碑として『クンナカ』『サンチュ』の語あり。『クンナカ』は畝傍地方を中心とする平坦部、『サンチュ』は宇陀郡を指し、神聖なる古語から流出伝称せるものだと」

「クンナカ」とは畝傍地方、つまり飛鳥の都があった「国中」ということ。

◎磯城派
「外山地方より宇陀郡榛原地方迄を仮に鳥見地方と見る時は上古より伝へたる忍阪山、長谷山も鳥見でなければならぬ。殊に此の地勢を見るに幅十町内外にして長東西三里余、地形をなさず、水源からいふても宇陀、磯城の両地は錯雑せる地点無しと」

私個人の意見を述べると…
榛原の鳥見は外山村からではなく、もっと東の方から鳥見山まで。具体的には長谷山の東側辺りから。なぜ外山村や長谷山まで含める必要があるのか甚だ疑問。

(宇陀郡榛原の鳥見神社)



ここからしばらくは省略しても差し支えない部分ですが、あまりに面白いので掲載しておきます。

◎著者
「両論者共に磯城鳥見山を孤立の山と認めていながらも宇陀説論者は広漠たる鳥見山脈を説く日本紀事跡抄及古事記傳作者の説に賛意を表してゐるのである」

句読点が無いのは勢い余ってのこと?
「日本紀事跡抄」とは江戸時代の国学者 岡田正利が著したものと思われます。大和出身だから?「古事記傳」はもちろん本居宣長。

◎著者 続き
「此の点私は宇陀説論者に賛成するものである。何となれば磯城説論者の地勢説明はあまりに御苦労に過ぎて上古の地文的知識の幼稚であつた事を前提に傾があるからである」

「ご苦労に過ぎて…」「幼稚であつた…」
ちょっと笑ってしまいました。

◎著者 まだ続きます
「然し私の磯城鳥見山説に毫も(少しも)動揺は来さない。抑も宇陀説論者の『サンチュ』の解釈が誤つてゐる古の磯城鳥見山は今日の如く丸裸同様の雑木林ではなく老杉鬱として暗くその前面には磐余山塊遠く埴安池を湛え両者の間には榛木原の渓谷があつて、橿原の平坦部から見れば確かに『サンチュ』であつた」

これにははっきりと否定意見を述べておきます。まず「磐余山」というのはあまりの低山であり、かつては剥き出しの岩山であったとされています。また南にはメスリ山古墳もあります。
当時の墳丘は地面が露出していたはずで、また周囲も築造のために木は刈り取られていたはず。神武東征時にはそうだったかもしれませんが、記紀編纂時に「老杉鬱…」なはずはありません。
また「渓谷」などという表現を使っていますが、おそらくわずか2~3mほど、多く見積もっても4~5mほどの高低差で「渓谷」とは見当外れもいいところ。この地を「山中(サンチュ)」と呼ぶのは明らかに間違っています。

(南西方向から見た、磯城「鳥見山」。これを「サンチュ」と言うのか…)



◎著者 もうちょっと続きます
「而も千四百年の大和文化、更に大きく云へば二千五百年の日本文化は『サンチュ』の語を漸次東方宇陀の地に駆逐し得たのである。宇陀説論者は自説の論証に一寸好都合な点を発見してつい図に乗ったといふ貌であらう」

そこまで言ってしまいますか…
図に乗ったのは宇陀説論者だけではないと思うのですが…。

この後、紀に記される「其地上小野榛原 下野小榛原」というのは両地ともに立証できるが、神武天皇の橿原宮からの距離の問題を上げています。あまりに根拠薄弱、滑稽と言わざるを得ませんが。



《次回へ続く》