紫式部の夫・藤原宣孝。

宣孝のゆかりの岩倉の地にゆく。

京の都から遠く離れた此処は、

公家の隠棲の地であった。

 

岩倉川の下流の山住神社は、

神社の御旅所で、殿にかわ

って巖座(いわくら)があり、

これが岩倉の地名の由来なっ

ている。

 

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山住神社(旧石座神社)の磐座(いわくら)

 

万里小路中納言藤原藤房

大雲寺の入口隣には、南朝の後醍醐

天皇に仕えた、三大忠臣のひとりの

公家・藤原藤房の遺髪碑がある。

 

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藤原藤房卿の遺髪塔がある大雲寺(京都市左京区岩倉上蔵町)

 

藤原宣孝と紫式部

紫式部の父・藤原為時と夫の宣孝と

は縁戚関係にあり、藤原宣孝は20歳

ほど離れた紫式部と3年暮らし、長保

3(1001)年に死別する。

 

万里小路中納言藤原藤房は、式部の

夫・藤原宣孝の子孫になる。

 

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万里小路中納言藤房卿の遺髪塔

 

藤原宣孝(生誕不明ー1001)

宣孝は藤原為輔の子で、紫式部の夫。

円融天皇のもと六位蔵人兼左衛門尉

を務め、花山天皇が譲位し、一条朝

のとき筑前守に任じられ、筑紫に赴

任(990年)し、太宰少弐も兼ねて

いたが、998年宣孝は京に左衛門権

左として復官し山城守を兼ねる。

この頃に紫式部と結婚している。

3年後藤原宣孝は疫病のために長保

3(1001)年4月25日没。

このとき紫式部が詠む歌(『紫式部

集』)。

見し人の けぶりとなり 夕べより

 名ぞむつましき 塩釜の浦

 

藤原宣孝の父・藤原為輔

藤原宣孝の父・藤原為輔(920-986)。

父は藤原朝頼、祖父は右大臣・藤原定

方の孫になる。

為輔は寛和2(986)正月権中納言兼

大宰権帥に任ぜられ、同年8月27日没。

 

藤原宣孝の母(藤原守義の娘)

藤原宣孝の母は藤原守義の娘。

藤原守義は、醍醐朝の924年文章生

に、936年従五位以下・和泉守(9

36-941)に叙任される。朱雀・村

上・令泉・円融の四朝にわたり和泉

守のほか伊予・丹波・播磨守になり、

973年宮内卿に任ぜられる。

 

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和泉守藤原守義赴任地和泉國府廰趾(大阪府和泉市府中町5丁目2)

 

藤原定方

藤原宣孝の祖父・藤原定方。

藤原定方(873-932)は、内大臣

藤原高藤の次男。醍醐天皇の外叔

父。官位は従二位・右大臣・贈従一

位。三条に邸宅があったことから三

条右大臣と呼ばれる。

和歌・管弦をよくし紀貫之の後援者

であった。

藤原定方と妻・藤原山蔭の娘との子

に藤原兼輔の長男・雅正(藤原伊尹

家)に嫁いだ女房が紫式部の祖母に

なる。

藤原高藤

藤原宣孝の曽祖父・藤原高藤。

藤原高藤(838-900)は、藤原良門

の次男で藤原北家、左大臣・内大臣・

太政大臣。

藤原高藤の妻は宮道列子。

藤原宣孝の曽祖母・宮道列子は宮道弥

益の娘。

『今昔物語』

藤原高藤と宮道列子が出逢った経緯

が『今昔物語』に書かれている。

醍醐天皇誕生にまつわる噺が「今昔

物語」にある。

今は昔。ある日、都の藤原の高藤さ

ま(16歳)が南山科へ鷹狩にゆく。

途中、一天かき曇り雨が降る。山陰

に人家あり、「雨宿りに来た」とい

う。休んでいると、娘が高杯を持っ

て部屋を出てゆく。夜深くなるが

あの可憐な姿が焼きついて寝つけ

ない。「どうぞあの子を」とい

われ、お召になられる。

彼は別れ際に「どうか私を忘れない

で。他の男と結婚しないで。」と

都に帰った。

その後父君が亡くなり6年の歳月が

経った。梅の花が咲く頃。高藤さま

は、その娘を屋敷に迎えた。几帳の

傍の少女は大人びて、匂やかな輝く

ばかりの美しさの女性。

高藤さまは、生涯他の女人に目もくれ

ず男の子2人ができる。その後出世し、

大納言に上られる。

高藤さまとの雨宿りの娘とのあいだに

できた姫君・胤子は、宇多天皇の女御

に上がられ、醍醐天皇と敦仁親王をお

産みになる。

雨宿りの少女は、醍醐天皇の祖母にな

ったという噺。

 

藤原高藤━|

       |━藤原胤子・藤原定国・藤原定方

宮道列子━|  

(雨宿りの娘)

 

藤原胤子━|

       |━醍醐天皇・敦実親王

宇多天皇━|

 

紫式部『源氏物語』

ふたり(藤原高藤・宮道列子)の子

の孫になる紫式部は、『源氏物語』

で、光源氏と明石の御方らの恋の話

を高藤と列子をモデルにしている。

万里小路藤房と藤原宣孝

万里小路藤房(までのこうじふじふさ)

は、鎌倉時代末から南北朝時代にかけ

ての公卿で、御醍醐天皇の側近として

倒幕運動に参画。建武政権で恩賞方頭

など要職を担った。ところが、突如世

を儚んで出家した。

軍記物語『太平記』に載る唯一の公家

であるために、出家後の伝承や創作が

多くみかける。

万里小路藤房の本姓が藤原で藤原藤房

ともいい、藤原藤房の祖先をたどって

けば

藤原藤房→宣房→宣房→資通→吉田定経

→吉田経房→藤原光房→藤原為隆→

藤原為房→隆方→孝光→藤原宣孝

と、京都・岩倉の万里小路藤房の祖先が

藤原宣孝にいきつく。

 

大雲寺(紫式部・藤原宣孝)

大雲寺は、「源氏物語」の紫式部の曽

祖父藤原文範が創建し、園城寺(三井

寺)の別院であった。

また、南北朝時代を舞台にした「太平

記」にも大雲寺の名がでてくる。

織田信長の比叡山焼き討ちで大雲寺は

焼失する(1571年)。

のち江戸時代初期に実相院門跡義尊に

より再建されて井原西鶴「好色一代女」

に大雲寺が登場する。

ところが、昭和60(1985)年の火災

で寺は焼失し、現在石座神社の東の

移転している。

 

 

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石座神社(境内)

 

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大雲寺の本堂(京都市左京区岩倉上蔵町)

 

 

 

 

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