『野蛮な進化心理学』著 ダグラス・ケンリックのレビュー第2弾です。

 

『『野蛮な進化心理学』ダグラス・ケンリック 著 レビュー①~思想とカルチャーの規定要因について~』

 

この本では第7章「マズローと新しいピラミッド」という章において、進化心理学の考え方をベースにしてマズロー心理学の欲求階層説の修正を行っています。一応、確認しておきますが、マズロー心理学では人間の欲求を低次の生理的欲求から高次の創造性に関する欲求まで5段階のピラミッド型の構造を成していると説明しています(晩年には6段階目の「自己超越」という概念を提唱していたそうですが、ここでは脇に置いておきます)。

 

 

著者のダグラス・ケンリックはこの章で、マズローの考え方はいくつかの点では正しく、他方でまた別のいくつかの点では間違っていると述べています。具体的には、正しい点は、人間は誰にでも共通するいくつかの基本的な欲求(生理的欲求や安全欲求等)を共有している点、特定の状況においてある欲求がそれ以外の欲求の強さを凌駕して優先される点等であり、一方で、間違っているのは、仮にある人物の中により高次の欲求(自己実現の欲求等)が芽生えたとしても、それよりも低次の生理的欲求も消えてなくなるワケではなく常に潜在し続けるという点です。また、著者は「マズローは人間の一生のうち生殖の重要性を理解しなかった」という如何にも進化心理学者らしい(?)批判を述べた上で、創造性の発揮に関連する「自己実現の欲求」は「生殖の欲求」より具体的には「承認欲求」の枠内にきっちり収めながら説明が可能であるとしてつぎのような新しいピラミッド構造を提案しています(日本語の図が見つからなかったのです英語ですが・・・)。

 

 

マズローのピラミッドの一番の問題は、人間の一生において生殖がもつ中心的な重要性を彼が理解していなかった点にあるように思える。たしかに、著書の中でセックスについて時折言及しているが、たいていの場合は、単純な生理的欲求としてしか扱っていない。つまり、クラシックギターを弾いたり詩をつくったりといった、もっと重要で高次の段階に移行する前に解消しておくべき卑俗な問題として扱っているのだ。(中略)

 

動機のピラミッドはまた、その設計図にもうひとつ根本的な問題を抱えている。マズローによれば、ピラミッドの頂点にある動機は生物学とは関係がなかった。実際マズローは後年になると、下位にある四つの欲求をまとめて「欠乏欲求」と呼び、基本的な生物学的プロセス(飢え、肉体損傷、社会集団からの追放を避けることで私たちの命を守るもの)と結び付けている。そして、知的好奇心と自己実現を「存在欲求」、あるいは「成長欲求」と呼んで区別し、生物学的欲求よりも上位の、より高い次元においた。

 

繰り返しになりますが、このような観点からマズロー心理学の問題点を整理したうえで再構築したのが2つ目のピラミッドになります。

 

私たちの新しいピラミッドは、従来のものと比べると三つの重要な違いがある。まず第一に、頂点という聖域から「自己実現」が追放されている。人間はそんな高尚な努力をしないなんて言っているのではない。実際、クラシックギターを弾いたり、エッセイを書いたり、あるいは水彩画をキャンパスに描いて腕試しをしているときの私は、純粋にものづくりの喜びを求めているように感じる。だが進化機能という観点から考えると、マズローが「自己実現」という言葉で伝えようとしたこと(完璧を求める詩人、芸術家、音楽家など)の大半は、「承認」というカテゴリーにきっちり収まるのだ。

 

創造的能力を極めたり、知的能力を誇った人びとは、歴史的に見ればたいてい高い地位を得ており、それがしばしば生殖成功の確率を高めることになった。多くの人間主義者にとって、こではサンタクロースがいないと言うに等しいのかもしれない。でも結局のところ、クリスマスツリーの下にプレゼントが届くのは事実だとしても、それはファンタジックな過程を経て届けられるわけではなく、サンタほど陽気ではない普通の人間が、クレジットカードを手にトイザらスにステーションワゴンで乗りつけた結果だ。「自己実現」という動機だって、実はもっと俗っぽい目的に基づいている。(中略)

 

承認欲求の機能上の利益は何だろうか?他人からの高い評価は、集団内での地位の確立につながり、井戸やラズベリーの茂みへ特権的にアクセスできるなど、多くのメリットをもたらす。女性ならば、子供たちに与えるごちそうが増えるし、男性ならば、それに加えてさらなる利益がある。これまでに見てきたように、高い地位にある男性は、もっと多くの女性とお近づきになれる可能性があるのだ。だから、男性は各種の自己アピールに励むことになる。ピカソやリベラのように何千枚もの絵を描き、パブロ・ネルーダのように大量の詩をつくり、ジョン・レノンやデューク・エリントンのように耳に残るメロディーを作曲し、あるいはその他得意なことがあれば何でもやるというわけだ。

 

マズローは、自己実現は生物学的な機能をもたないと考えていた。しかし、自己実現を承認欲求の延長上にあるものと見るなら、そこには明確な機能があるー音楽や美術や文章の能力をきわめれば、それによって他人から尊敬と賞賛が得られ、さらにそこから生じるあらゆる利益を享受できるのである。

 

と、まあここまでが著者による創造性の発揮や自己実現欲求に関する説明なのですが、ここで一点重要な補足をしておきたいと思います。

 

まず、人間の自己実現欲求が進化生物学的な観点から生殖行動と密接にリンクした欲求であるとしても、では現実にある人物がギターを弾いたり文章を書いたりしている時に、「この能力を皆に披露して承認を得て、その承認から様々なリソースを引き出してセックスに持ち込んでやろう!!」などとややこしい(?)ことを考えているわけではないということです。おそらく、多くの場合には、ギターを弾いている人は純粋にギターを弾く楽しみを味わっているし、文章を書く人も少なくともその瞬間においては文章を書くことに楽しみを見出しているでしょう(まあ、職業作家などは別かもしれませんが・・・)。

 

どういうことなのかというと、要は創造性の発揮や自己実現欲求と生殖の欲求の関係性は単に進化心理学上のプログラムに過ぎないということです。つまり、人類進化の永い年月を経て、より高い創造性を発揮した人物は多くの人々の尊敬を獲得し生殖において有利な競争条件を獲得してきた。人類(あるいは人類以前の存在)がそのような歴史過程を経ていいく中で、人類は創造性の発揮と快楽の感情をリンクさせてきたということ。要は、進化の過程で、創造性を発揮することに喜びを感じる種が生き残った、あるいは創造性を発揮することで脳の快楽神経が刺激されるような回路を発達させて生きたということです。

 

そして、私が思うに一旦創造性の発揮や自己実現の欲求と快楽の回路が結び付けられると今度は、そこから生殖の欲求という過程がショーットカットされた純粋な創造の喜びのような独立した回路が生まれたのではないかと思います。

 

つまり、初期の段階では

 

創造性の発揮⇒生殖行為⇒快感

 

といったプロセスであったものから、生殖行為の過程がショートカットされて

 

創造性の発揮⇒快感

 

という回路が生まれてきたのではないかと思うのです。

 

そして、ここでようやくタイトルのテーマに掲げていた「進化心理学が理解されにくい理由について」という問いを回収するのですが、人間が意識するのは先のようなややこしい進化心理学的なプロセスの方ではなく、純粋な創造性の発揮の喜びの方だけなのですね。どういうことかというと、進化心理学上の欲求、つまり、サッカーをしたり、ギターを弾いたり、絵を描いたりするような欲求は常に生殖行動を有利にするための目的であるという動機の方は意識化されず、単にクリエイティブや仕事をすることを楽しむという分かりやすい動機の方が常に意識化されるということです。

 

そうなると、当然、人間による自己の主観的な感覚ではマズローのピラミッドの方に近い実感となる。要は、「アナタが今文章を書いているのは、他者から承認され、女にモテてあわよくばセックスに持ち込むことが真の目的なのだ!!」などとどんなに頑張って進化心理学者が説いてみたところで、ほとんどの人にとっては「は?何言ってんだ?」となってしまうでしょう。このような人間の意識的な感覚の素朴な実感との乖離こそが、まさに進化心理学が理解されにくい最大の理由の一つなのであって、これこそが進化心理学的な説明が理解されずに人々の素朴な実感によりフィットしているマズローの心理学が支持され続ける理由だと思うのです。

 

それから、最後に次回以降の記事の予告と、この著者の理論の問題点を指摘して終わりにします。著者の理論ではこのような社会的な賞賛に伴う「承認欲求」と「自己実現の欲求」をリンクさせたまでは良いのですが、しかしこれだけでは、そもそも「何故、創造的な仕事をする人物に対して社会は賞賛と承認を与えるのか?」という問題を説明できません。少し考えれば分かるように著者の主張は次のような循環論法に陥ってしまいます。

 

創造性の発揮と自己実現の欲求は、承認欲求に基づいている

⇒社会は創造的な仕事に価値を認めて称賛する

⇒社会が創造的な仕事に価値を認めるのは、創造的な仕事は社会的な賞賛の獲得を可能にするからだ

⇒創造的な仕事を社会が賞賛する理由は・・・

 

つまり、この創造性と社会的賞賛との関係性を論じるには、どうしても承認から独立した創造性の価値について論じることが出来なければ片手落ち(というか循環論法の袋小路)になってしまうということです。この点を踏まえて、次回のレビュー記事(多分この本のレビューは次回が最後)では、「そもそも創造性とは一体どのような価値があるのか?」という問題について考察しようと思います。

 

 

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