魁!神社旅日記

魁!神社旅日記

神社を旅した日記感想等をつけていこうかと思ってます

継体天皇皇族説(けいたいてんのうこうぞくせつ、継体皇族説)は、継体天皇がそれ以前の皇統と何等かの血縁をもつ皇族であるという説。1950年代に提唱された継体新王朝論に反論する形で現在も幅広い分野で識者が唱えている。

応神五世または皇統に属する人物とするの各説

水谷千秋は「上宮記一伝」の「凡牟都和希王」を垂仁天皇皇子の「品牟都和希命」であるとする新王朝側の説に対し、「凡牟都和希王」が垂仁天皇皇子ならば始祖である垂仁天皇の名が男系系譜に記されていないのはおかしいと塚口義信氏の説をあげて反論している [注釈 2] [注釈 3]

また、ひとつの父系血族による王位継承が確立したのは継体天皇のあとの欽明天皇からであるという説には、坂本義種氏、武田幸男氏が倭の五王は「倭」が姓で「讃」や「隋」が名前であることを明らかにしたとし、初代の讃から武まで一貫して倭という姓を名乗っている。関和彦氏はこのことから、「珍」と「済」は続柄こそ記されていないが、同じ父系親族の一員であると主張したと反論した [注釈 4]

さらにもし五世紀の王権が血統よりも資質や能力を重視していたのならば、当時権勢をふるっていた葛城氏や吉備氏から大王が出ていないのはおかしいとも指摘している。

以上の見解からやはり継体はすでに単一の父系血族による世襲が確立していた時期に、当初から応神天皇五世孫という出自で即位した可能性が高いと考えられ、それが当時の支配層に説得力をもって受け入れられたのだとし、継体の現れた段階では、すでに大王は王族の出身でなければならないという血統観念が形成されていたと結論づけ、継体は応神天皇の血統を受け継ぐ王族の出身で「上宮記一伝」の系譜はおおよそ信じられるとし、地方豪族の王位簒奪(皇位簒奪)というものではなかったと結論づけている[11]

 

和田晴吾今城塚古墳の石棺は竜山石製であり、石棺は運ぶ段階で多くの人が目にし被葬者の政治的社会的位置を示す重要なものだとして、古墳時代の中期王権の最高位を示す長持形石棺竜山石製であり、このことは今城塚古墳の被葬者である可能性がきわめて高い継体天皇が古墳の形態、石棺の様子からも大和王権中期の大王位の正統な継承者であることを示しているという[12]

 

水野正好稚野毛二派王は二人の娘を皇后と妃に出した有力な王族であり、その継承者である意冨々等王も大きな権勢をもった王族であったであろうとし、その允恭天皇皇后となった忍坂大中姫の名前にも見える大和・忍坂の地(奈良県桜井市忍坂)が稚野毛二派王の「王家の地」であるとして、男大迹王は母・振姫の故郷越前高向に住む一方、成長しては王家の長として大和で王家の家政や執務に当たっていただろうと推測した。また稚野毛二派王の母ゆかりの近江坂田、彦主人王の別業である近江国高島郡三尾、継体天皇の妃に見られる茨田・和珥の地も深いえにしをもって流れて継体天皇にひきつがれてきた土地であるとし、継体天皇はたんなる土豪ではなく、これらの所領をもつ堂々たる王家の後継者として存在していたと述べている。また武烈時代の執政である大連大伴金村、大臣巨勢男人、大連物部̪麁鹿火の推挙を受け、かつ即位後もこの三人を大連、大臣に任命していることから所定の手続きを経た正当な王位継承者(皇位継承者)であるとし、皇位簒奪や新王朝説は資料、史料からして成り立たないと述べている[13]

 

大隅清陽は当時の王位継承は常に複数の候補者がおり、その背後に各候補者を要する在地豪族の複雑な利害関係により潜在的に即位の可能性のある「王族」を核として形成された派閥が利害関係で一つにまとまっているのが畿内豪族連合としての大和政権であり、かつ大王の側も「群臣」、「大夫」、和語で「マエツキミ」という畿内有力豪族らによる合議決定による推挙を必要としていたと分析し、継体天皇の即位に関しても億計王弘計王の例のように、前大王から見て傍系にあたる人物が、豪族たちの要請をうける形で王位を継承すること自体は、これ以前においても必ずしも珍しいことではなったとし、当時の近畿地方一帯には、大和の王家の聖なる血を引くと自他ともに認める人物が数多く存在し、状況によっては、それを支持する地元や中央の豪族たちと結んで王位継承争いに参加しうる可能性をもっていたと述べている[14]

 

吉村武彦は『日本書紀』には応神天皇5世とあるだけで具体的な名前が記されていないため系譜の信憑性を疑う意見があるが、『日本書紀』の撰上には『系図一巻』が付随していると『続日本紀』養老四年五月条に記されているとし、五世孫は事実だと述べている[15]。また古墳研究の成果によれば同じ墳型の採用は同一の儀礼を伴う葬制の継承を意味しており、儀礼には首長権の継承儀礼が付随するとされるので、同じ王墓形式をとっていることは前代の王ないし王権を継承しているという事実も指摘している[16]

 

大津透は継体天皇の出自は「記紀」ともに応神天皇5世の孫というだけで中間系譜を欠いているが、鎌倉時代の卜部兼方による「日本書紀」の注釈書「釈日本紀」に「上宮記」という聖徳太子の伝記を引用しており、そこにホムツワケに始まり「若野毛二俣王」以下中間四代の系譜、名前がが引用されており、黛弘道氏は用字法から「日本書紀」より古く推古朝遺文より新しいとしているとして、「上宮気」が7世紀の古い系譜の伝承と認めたうえで、父系二世の太郎子(意富々等王)の妹、「践坂大中比弥王」が允恭天皇のキサキ忍坂大中姫であり、安康天皇雄略天皇に対し有力な外戚であったこと、「古事記」中つ巻の末尾、応神天皇の段の最後にわざわざ若野毛二俣王の子孫の系譜が記されていることは継体天皇の一族が有力な皇族であったことを示しており、王朝交替や皇位簒奪の可能性を否定している [17]。また畿内の豪族が大王のもとに結集する核は「日嗣」つまり大王が皇祖神以来つながり、神話を背負っていることだろうと述べている[18]。したがって武烈のあと。大伴金村らが継体を迎えたのは決して唐突なことではなかった。「古事記」中つ巻の末尾、応神天皇の段の最後に、わざわざ御子の一人、若野毛二俣王の子孫の系譜が記されるのは、この一族が有力な皇族であったことを示しているのであろう。継体が越前・近江から突然入って王権を簒奪した豪族だと考えるのは誤りであろう、と結論付けている[19]

 

河内春人は、オホド王(継体天皇)は即位に際して大伴物部巨勢という大豪族が推戴し、継体大王も即位直後に彼らの地位を承認していることからオホドが即位以前から一定の勢力を持ち、ヤマトの豪族も認めていたことを意味するとして継体天皇は王族出身と認められるとしている。[20]。が、同時に彼は5世紀の倭王権はホムタワケ(応神天皇)を始祖とする讃グループ、済グループ、北陸グループの王族集団があり、その間での政権交代が行われたとする王族説と王朝交替説のハイブリッド説を唱えている[21]。なお、「記紀」が応神天皇を『ホムタワケ』、「上宮記」が『ホムツワケ』としており微妙に名前が異なることに関しては各王族集団が別個に系譜を作成し、時間の中で微妙に変化して伝承したものと判断している[22]。また下垣仁志氏の研究から考古学的立場の研究から防御集落、武器、殺傷人骨、武器の副葬、武器型祭器、戦土・戦争場面の造形などから弥生時代には高地性集落や矢じりの刺さった人骨など戦争の痕跡が多く発見されるが古墳時代に入るとそのような遺跡・遺物が見えなくなっている事実を挙げて古墳時代に日本列島で大きな戦争は確認できないという論を挙げて考古学的な事実を尊重すべきだとも述べている[23]

 

大橋信弥は、彦主人王の近江高島の拠点が文字どおり「別業」で、本拠は近畿中枢にあったと考え、隅田八幡神社人物画像鏡銘の「大和忍坂宮」がその本拠であったとし、摂津三島古墳群を継体一族の奥津城とみた。即位前の継体が大和忍坂宮にあり百済武寧王の奉仕を受けていた事実は、この時点で継体が大和政権の主要な構成員であったとし、であるならば継体天皇の出自は「王族」か山尾説の「畿内首長連合体」に擁立された存在のどちらかであるとした。ただ、近畿中枢に基盤をもたない地方豪族が政策的に大王位に擁立される必然性はきわめて薄いことから王族説をとり、摂津、南山城など畿内外縁に勢力をもっていた傍系王族の継体が和邇氏大伴氏の支持を背景に三尾氏の協力を得て、越前、美濃、尾張などと結び大和政権における地位を確立したとの説を提示している [24]

 

遠藤慶太は「日本書紀」によれば継体天皇が倭王権の王にふさわしと考えられた理由は三つあり、それは、血筋、資質、群臣推戴であるという。「日本書紀」撰者は継体天皇の即位に問題がなかったと判断し、「継体」の漢風諡号を献呈したとし、漢語「継体」は「漢書」外戚伝上の顔師古注に「継体、位を嗣ぐに謂うなり」、「史記」外戚世家の索隠に「嫡子にして先帝の正体を継ぎて立つ者なり」と注釈があるとし、古代の日本では君主の位を受け継いだ正統な継嗣であることが、継体天皇の本質と考えられていたとしている [25]

 

高森明勅は「継体天皇は「皇族」として即位」したとして、和歌山県の隅田八幡神社に伝わる人物画像鏡(国宝)の銘文に記されている「癸未年(きびねん、みずのとひつじのとし)」という年紀を何年に比定するか、長く見解が分かれていたが、近年、ようやく西暦503年と見る立場でほぼ一定したとし(山尾幸久氏・平野邦雄氏・車崎正彦氏など)ならば、同銘文に出て来る「男弟(おおど)王」は、即位前の継体天皇を指すと理解する他ない(その即位は507年)、と述べている。そのうえで、ここで注目すべきは、確かな同時代史料に、“王”という称号を付けて呼ばれていた事実であり、これは男弟王その人が、紛れもなく君主の血筋を引く人物であり、しかもその一族としての身分を認められていた事実を示す、と述べている[26] 。


また、上記以外にも、作家などから以下の見解も提示されている。

 

関裕二は「3世紀後半から4世紀にかけてヤマト大王家に断絶はない」と述べ、前方後円墳というヤマトの象徴的埋葬文化が守られていること、国王が変われば王の姓と国名が変わるのが東アジアの常識だったのに変わっていないことを挙げたうえで、王朝交替説は戦前の皇国史観への反発で、そろそろ新しい視点が必要になっているのではないかと提議した[29]。さらに継体天皇の先帝武烈天皇の悪行とそれに続く継体天皇の擁立は中国の易姓革命を意識したものであること。にもかかわらず継体天皇を「応神天皇の五世の孫」と位置付けた意味はけっして小さくないと指摘する。また王朝交替が実際にあってその王家が今も続いている皇室に続いているというのなら、『日本書紀』は新王朝の始祖として継体天皇を絶賛していなければならないはずだとも指摘している[30]

 

八幡和郎は『日本書紀』はこの継体天皇についていかなる英雄らしい逸話も語っていないことを指摘し、『日本書紀』のもとになった資料が文字化され始めたのは推古天皇の頃からとされているが、その推古天皇の祖父が新王朝の創始者であるとすれば、記憶が曖昧なほど昔の話ではなく、天皇の祖父の英雄物語を忘れるなど、あり得ないことだと指摘し、また、継体天皇はたしかに男系では遠縁だが、一方で『日本書紀』では2世代ほど前の雄略天皇が近親者を盛んに誅殺した結果であることも記録されているという事実を指摘したうえで、継体天皇の生家は、雄略天皇の母親の実家であり、女系では比較的近い皇族であるため、継体天皇の即位は唐突でなく、王朝交代の可能性は低いようだ、と述べている [31]

 

出典

  1. a b c d http://manyoug.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/03/manyo_147.pdf
  2. ^ 黛弘道「継体天皇の系譜について : 釈日本紀所引上宮記逸文の研究」『学習院史学』第5巻、学習院大学史学会、1968年12月、1-14頁、hdl:10959/901ISSN 0286-1658NAID 110007562716
  3. ^ 成清弘和『日本古代の王位継承と親族』(岩田書院、1999年)
  4. ^ 『古代文化』第52巻 第5号(六一書房、2000年)[1]
  5. ^ 『古事記』継体天皇記
  6. ^ 塚口義信『継体天皇と南山城』〔『ヤマト王権の謎をとく』所収,東京,平成5年9月〕
  7. ^ 塚口義信『継体天皇と息長氏』〔同氏『神功皇后伝説の研究』所収,大阪,昭和55年4月〕
  8. ^ 河内春人『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』(中央公論新社、2018年)
  9. ^ http://www.baika.ac.jp/~ichinose/kita/kitaosaka.pdf
  10. ^ 『古代文化』第52巻 第5号(六一書房、2000年)[2]
  11. ^ 「謎の大王 継体天皇」文藝春秋 平成13年9月20日 91‐101頁
  12. ^ 「継体天皇の時代」2008‐7‐1 95ー97頁
  13. ^ 「継体天皇の時代」吉川弘文館 2008‐7‐1 124‐138頁
  14. ^ 「古代天皇制を考える」 講談社学術文庫 2009‐3‐10第一刷 35‐43
  15. ^ 「ヤマト王権」 岩波新書 2010年11月19日第一刷 117頁
  16. ^ 「ヤマト王権」岩波新書 2010 49-50
  17. ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017‐12‐11第一刷 182‐183頁
  18. ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2017 208頁
  19. ^ 「神話から歴史へ」講談社学術文庫 2018 183頁
  20. ^ 「倭の五王」中公新書 2018年1月25日初版 223頁
  21. ^ 「倭の五王」中公新書 2018年1月25日初版 194頁
  22. ^ 「倭の五王」中公新書 196頁
  23. ^ 「倭の五王」中公新書 155‐156
  24. ^ 「継体天皇と即位の謎」<新装版> 吉川弘文館[2007‐12‐20] 2020‐3‐1
  25. ^ 史学雑誌 2020年129巻10号 p.55-76「歴史叙述のなかの「継体」」遠藤慶太
  26. ^ 高森明勅公式サイト2020年5月21日 継体天皇は「皇族」として即位
  27. ^ 「継体天皇は新王朝ではない」新人物往来社 平成5年7月30日 34‐40頁
  28. ^ 「継体天皇は新王朝ではない」新人物往来社 127‐143頁
  29. ^ 「継体天皇の謎」PHP文庫[2004]2006‐1‐25 126‐128頁
  30. ^ 関裕二「継体天皇の謎」PHP文庫[2004]2006‐1‐25 190‐193頁
  31. ^ 「皇室のルーツ」どこまで知ってる?教科書では学べない“万世一系”の真偽 DAIAMONDonline 2023.10.22 5:05

 

ご無沙汰しております。

皇位継承問題における「旧宮家養子案」について新たに老舗民族派団体の「大東塾」から新たな提言がありました。

 

令和5年10月25日発行の「道の友」第863号において代表の福永氏より我が国の歴史と伝統に配慮した「旧宮家養子案」が提言されました。

 

以下、提言のまとめ箇所から引用させていただきます。

 

①天皇陛下御自ら養子をとられるのが歴史的に適ひ正統性が保たれる最善策

②皇室典範第九条は「天皇及び」の部分を削除し、この改定の上で特例法を制定すべき

③仮に宮家が養子を取る制度が設けられた場合は、天皇陛下の勅許を得ることが条件に組み込まれなければならない

④「門地による差別禁止」は「皇位の世襲」が優先されるため適用不可とし、憲法に抵触しないと考えるべき

 

以上

Comfort Women: The North Korean Connection

慰安婦:北朝鮮とのつながり

J. Mark Ramseyer

Harvard Law School

Tetsuo Arima

School of Social Science, Waseda University

Date Written: August 8, 2022

 

(引用元URL)

https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=4185081

 

(以下、部分的に抜粋引用)
 They initially settled them in 1965. The
Japanese government paid South Korea reparations totaling $300 million. The amount came to
ten percent of the Japanese national budget at the time, and Japan lent Korea long-term (at very
low interest) another $500 million besides. In exchange, the South Korean government explicitly
waived all private and public claims arising from either the war or Japan's earlier occupation.
彼らは1965年に最初に彼らに定住した。
日本政府は韓国に総額3億ドルの賠償金を支払った。金額はこうなりました
当時の日本の国家予算の10パーセントを負担し、日本は韓国に長期(非常に高額な)融資を行った。
低金利)さらに5億ドル。その代わりに韓国政府は明確に
戦争または日本の以前の占領から生じるすべての私的および公的請求権を放棄した。


III. The Genesis of the Sex-Slave Account A. Introduction: The contemporary comfort-women dispute concerns the perception, ubiquitous in the West, that Japanese soldiers captured women at gun-point and forced them to work as sex slaves. Largely unknown in the West is the fact that this account began with a 1983 Japanese book eventually shown to be a fraud. It was only after the author published the book but before he admitted to the fraud that several Korean women sued the Japanese government for conscripting them at bayonetpoint. It was during this interval (in 1993) that the Japanese government issued its famous "Kono declaration." And it was during this interval (in 1996) that the U.N. issued its scathing attack on Japan. Within Japan, this is common knowledge. Among scholars in the field, it is common knowledge in South Korea as well. In the U.S., the New York Times carried articles about the fraud and its unraveling.48 Yet presented with the way she had relied on the fraud for her 1996 report, the author of the U.N. Report refused to retract it.49 And perhaps most troubling of all, Western scholars of the comfort women consistently fail to acknowledge the origin of the sexslave narrative in fraud. 
Ⅲ.性奴隷アカウントの起源
A. はじめに:
現代の慰安婦論争は、西側諸国に広く見られる認識に関係している。
日本兵は女性たちに銃を突きつけて捕らえ、性奴隷として強制的に働かせたという。大体
この記述が最終的に 1983 年の日本の本から始まったという事実は西洋では知られていない
詐欺であることが判明した。それは著者が本を出版した後であり、彼がそのことを認める前のことでした。
数人の韓国人女性が銃剣を突きつけて徴兵されたとして日本政府を告訴したという詐欺事件。この期間中(1993 年)、日本政府は有名な「河野外務大臣」を発表した。
と宣言した。」そして国連が痛烈な攻撃を行ったのはこの期間中(1996年)であった。
日本。
日本国内ではそれが常識です。この分野の学者の間ではよくあることですが、
韓国でも知識が豊富。米国では、ニューヨーク・タイムズ紙が次のような記事を掲載した。
詐欺とその解明.48
 それでも、彼女が1996年の生活のために詐欺に頼った方法を提示されました。
報告書を作成したが、国連報告書の著者は撤回を拒否した49。
 そしておそらく最も厄介なことは、
慰安婦に関する西洋の学者は一貫して、性奴隷の物語の起源が詐欺にあることを認めていない。


C. The North Korean Connection: By blocking any reconciliation between South Korea and Japan, the Korean Council directly promotes a key North Korean political goal -- and that seems to be the point: the Korean Council is an organization that works deliberately and relentlessly on behalf of North Korea. Sociologist Lew Seok-choon describes the Council as "working in collaboration with North Korea" on the comfort-woman issue.153 Historian Park Yu-ha writes that the Council "has used the comfort women issue for its political purpose, which is to drive a wedge into U.S.-Japan-South Korea security partnership.” 154 "Formed by South Korean communists," according to Park, the Council is fundamentally a North-Korean-allied organization that deliberately sabotages reconciliation between Japan and South Korea. It seems to do so precisely because that sabotage advances the North Korean agenda. The origins of the Korean Council lie in
C. 北朝鮮とのつながり:
韓国と日本の和解を阻止することで、挺対協は
北朝鮮の重要な政治目標を直接促進する――そしてそれが重要な点のようだ:韓国人
評議会は北朝鮮のために意図的かつ執拗に活動する組織です。
社会学者のルー・ソクチュン氏は評議会について「北朝鮮と協力して活動している」と評している。
韓国」慰安婦問題について.153
 歴史家のパク・ユハ氏は、評議会が「
慰安婦問題は、日米韓にくさびを打ち込むという政治的目的のためのものである。
韓国の安全保障パートナーシップ。」
154
 パクによれば、「韓国の共産主義者によって結成された」
評議会は基本的に北朝鮮と同盟関係にあり、意図的に妨害活動を行う組織である
日本と韓国の和解。まさにあの妨害行為があるからこそそうなるようだ
北朝鮮の政策を前進させる。

The origins of the Korean Council lie in an international anti-nuclear conference held in Hiroshima and Nagasaki in August of 1987. Sumika Shimizu of the Japanese Socialist Party later recounted the history in the official publication of the North-Korean allied Japanese group Soren. That August, Shimizu had met with the chair of a South Korean church group, Lee Wu-jong. To avoid observation from the KCIA, they met secretly aboard a boat in Nagasaki harbor.155 "She held my hand tightly and said," Shimizu recalled, "Tell me about Chairman Kim Il-sung. Tell me about our brothers and sisters in the North!" "Make it possible for me to meet our Northern sister Lyuh Yeon-gu [Ryo Yon-gu; a prominent member of the North Korean ruling elite]. You could do it."156 A
コリアン評議会の起源は、2016年に開催された反核国際会議にあります。
1987年8月の広島と長崎。後の日本社会党の清水澄香
北朝鮮と日本の同盟団体「総連」の公式出版物で歴史を詳しく語った。
同年8月、清水さんは韓国の教会団体の会長、イ・ウジョン氏と会談していた。に
KCIAの監視を避けて、二人は長崎港の船上で密かに会合した[155]。
 "彼女
清水さんは私の手をしっかり握って、「金日成主席について教えてください。教えて
北の兄弟姉妹のことを!」「私たちの北の姉妹に会えるようにしてください!」
リュ・ヨング[リョ・ヨング]北朝鮮の支配エリートの著名なメンバー]。あなたは出来る
やってみろ。」156
Aboard the boat, Shimizu and Lee Wu-jong discussed how best to start their collaboration with the North. More specifically, they began to plan a joint project that would involve the North
船上で清水氏とイ・ウジョン氏はコラボレーションを始める最善の方法について話し合った。
北とともに。より具体的には、北朝鮮が関与する共同プロジェクトの計画を開始した。
Korean group known as the Democratic Front for the Unification of Our Country.157 In time, their project would become the Korean Council. Shimizu and Lee's teamwork soon led to a Symposium on Peace and the Place of Women in Asia. Held in May of 1991 in Tokyo, the Symposium included a representative of the newly formed Korean Council. Lyuh Yeon-gu arrived from North Korea. By 1992, the Symposium would hold its conference in Pyongyang.158 There, the first chair of the Korean Council (Yun Chung-ok) met with Kim Il-sung. Yoon Mee-hyang joined the Council management in 1992. The Council had its roots among the Korean Christian elite, and Yoon brought that background. Born in 1964, she had attended Hanshin University, and then Ewha Womens University. Lee Wu-jong (who met with Shimizu on the boat) had been a professor at Hanshin; Yun Chung-ok (who met with Kim Il-sung) had been a professor at Ehwa Womens. Prior to joining the Council, Yoon had worked at the South Korean Christian Elders Association. Note the class-tension that inhered in t
祖国統一民主戦線として知られる韓国のグループ。157
 やがて、彼らの
プロジェクトは韓国評議会になります。
清水氏とリー氏のチームワークはすぐに、平和と女性の地位に関するシンポジウムの開催につながった。
アジアで。 1991 年 5 月に東京で開催されたこのシンポジウムには、新任の代表者も含まれていました。
韓国評議会を設立。リュ・ヨングさんが北朝鮮から到着した。 1992 年までに、シンポジウムは
平壌で会議を開催する予定だった158。
 そこに初代韓国評議会議長(ユン)が
チョンオク)金日成と会談した。
ユン・ミヒャン氏は 1992 年に評議会の運営に加わりました。評議会のルーツは次のとおりです。
韓国のキリスト教徒エリートの間で、ユン氏はその背景をもたらした。 1964年生まれの彼女は、
阪神大学を経て、梨花女子大学に進学。イ・ウジョン氏(と会談)
船に乗っていた清水さんは阪神大学の教授だった。尹正玉氏(金日成氏と会談)
梨花女子大学の教授を務めていた。ユン氏は評議会に参加する前に、
韓国キリスト教長老協会。
tに内在する階級的緊張に注目してください。
Note the class-tension that inhered in the Council from the start. Ewha is a school for women from what mid-20th century New Yorkers might have called "good families." Think of it as the Korean Wellesley. The recruiters in 1930s and 1940s Korea did not hire their comfort women from families that would eventually send their daughters to Ewha. They hired their comfort women from the most destitute of the rural poor. The social distance between Ewha and the comfort women probably resembles the distance between a dinner for Wellesley alumnae at the New York Yacht Club and lunch at a diner in the fentanyl-laced hills of Appalachia. Although Yoon came from within the South Korean church bureaucracy, she simultaneously brought deep ties to North Korea's network within the South. The very year that she joined the Council leadership, South Korean police arrested her husband Kim Sam-seok (Kim Sam-suk) and his younger sister for spying for the North.159 The two had gone to Japan, met with a North Korean agent, passed documents, and received money. The courts convicted both, and sentenced Yoon's husband to 4 years in prison and his sister to 2 years. The Supreme Court affirmed.160 K
当初から評議会に内在していた階級的緊張に注目してください。梨花はのための学校です
20世紀半ばのニューヨーカーが「良い家族」と呼んだであろう家庭の女性たちだ。考えてみてください
韓国のウェルズリーのように。 1930 年代と 1940 年代の韓国の採用担当者は、慰めを求めて採用しませんでした
最終的に娘を梨花に送ることになる家庭の女性たち。彼らは彼らを雇った
最も貧しい農村部の貧困層出身の慰安婦たち。梨花とのソーシャルディスタンス
慰安婦はおそらくウェルズリー大学の同窓生のための夕食会の距離に似ているだろう。
ニューヨーク ヨット クラブに行き、アパラチアのフェンタニルで覆われた丘にあるダイナーで昼食をとります。
ユン氏は韓国の教会官僚組織の出身ではあるが、
同時に、韓国内の北朝鮮のネットワークと深いつながりをもたらした。まさにその年
彼女は評議会指導部に加わったが、韓国警察は夫のキム・サムソク氏を逮捕した(キム氏)
サムソク)と彼の妹が北朝鮮のためにスパイしたとして.159
 二人は日本に行って会いました
北朝鮮の工作員として書類を渡し、金銭を受け取った。裁判所は両方に有罪判決を下し、
ユン氏の夫には懲役4年、妹には懲役2年を言い渡した。最高裁判所
肯定された。160
Kim demanded a retrial, and upon a new trial the court vacated his conviction for spying. The court confirmed that he had indeed passed documents to a North Korean agent, however, and upheld his conviction for violating the National Security Act (albeit with a two-year suspended sentence). It vacated the specifically "spying" charge on the ground that prosecutors had not shown the elements of the crime in South Korea -- that he had passed "state secrets" under orders from the North.161 Do note that judicial independence has a troubled history in South Korea: the Korean
金氏は再審を要求し、再審理で裁判所はスパイ罪での有罪判決を取り消した。
しかし裁判所は、彼が確かに北朝鮮の工作員に書類を渡したことを認めた。
国家安全保障法違反の有罪判決を支持した(2年間の執行猶予付きだが)
文)。検察が証拠を示さなかったことを理由に、具体的な「スパイ」容疑を無効にした。
韓国における犯罪の要素――彼が政府の命令を受けて「国家機密」を漏らしていたこと
北.161
 韓国では司法の独立には問題のある歴史があることに注意してください。

「そしてそこ琉球国においては、祭政二重主権が行われている国であった。聞得[美称、万能の]大君がいて、大君を姉妹にもつ王がいた。

 

その事実と「鬼道の道に事え」(神に仕え)る卑弥呼がいて、「男弟あり国を佐治す」(弟が国を治めることをたすける)というこの『後漢書』や『三国志』の邪馬台国の政権の記述があまりにも類似しているので、鳥越は迷うことなく、これを二重主権と判断した。姉(妹)は神との交信を通じて、国全体の方針を表示し、兄(弟)は、その大方針にもとづき、日常の政治をつかさどるというのが二重主権の意味である。

 

したがって鳥越の解釈では、卑弥呼や台与を王と言っても、祭事権者であって、政事権・軍事権をもつ日常世界の王もいたことになる。それをひとりの男性の王をいただく漢人が理解できなくて(『三国志』23の解説)、弟が佐治すなわち「国を治めることを“たすける”」と表現したのである。たしかに、卑弥呼は『三国志』26によると、ひとりの男子が飲食を給し、辞を伝えて出入りするだけであったから、一般的に考えられている王の仕事である政事と軍事の統率は不可能であったろう。すなわち、中国正史では、おそらく珍しがって、邪馬台国をなんども“女王国”と言っているが、漢人が想像する王とは異なっていたのである、というのが鳥越の解釈である。

 

この男女による二重主権が時代を経て、「祭事権者としての長男と、政事権・軍事権者としての次男との組み合わせに移行する」(『三国志』11の解説)。そのため、『三国志』11で「狗奴国あり、男子、王となり、その官に狗古智卑狗あり」という文章の狗古智卑狗は政事・軍事権者であったろうと解釈をする。

 

時代が少しくだって、『随書』の開皇二十年(六〇〇年)に、倭国の使者が隋で自国の説明をする。「倭王は天を以て兄となし、日を以て弟となし、天未だ明けざる時出でて政を聴くに跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う、我が弟に委ぬ」(『隋書』9の解説)。

 鳥越は解釈して、兄の天も弟の日もともに、わが国では王にあたる者を意味するが、天は現人神的であり、弟は実際の政務をつかさどる者であり、使者は大和朝廷の祭政二重主権を説明しているのだという。」

(「倭人・倭国伝全釈 東アジアのなかの古代日本」鳥越健三郎著)

 

 

この邪馬台国の祭政二重主権論は昭和一七年には久高島の秘儀とも言われるイザイホウの行事を研究者としては最初に観察し、『琉球古代社会の研究』(昭和一九(1944)年)、沖縄の歌謡集『おもろさうし』の全釈をした琉球国研究の

泰斗、鳥越憲三郎氏によるもの信憑性の高い説である。

 

沖縄、琉球国が記紀万葉などの日本最古典に見える上代語や、古俗信仰などの日本の古俗が残る地域で

あることは折口信夫をはじめ多くの民族学者が指摘してきた学術的な事実であるが、最近は中国やその勢力

のネット工作によるものかネット検索にもなかなか出てこなくなってしまった。

 

この祭政二重主権については日本本土においてもその名残が見られ、伊勢の斎王、またその系譜を

引く神宮祭主は現在でも皇族ご出身の女性が務めておられます。

ちなみに、卑弥呼の時代から祭政二重主権が姉(妹)と兄(弟)という、あくまで兄弟という

同族で構成されており、夫婦にはなっていないことも現代人は留意しておく必要があろう。

(皇族同士の夫婦の場合はのぞく)

つまり現代のように結婚だけによる配偶者は皇族とは認められず、統治者の一族とは認められない

のが日本古来の文化だったということである。つまり、美智子さまも雅子さまも古代日本の伝統文化

によれば皇族とは認められないのであり、現行の法制度によってのみ認めれた皇族に過ぎない

という事実は日本人なら理解しておかなければならない歴史的事実であり、この点を勘違い

すると皇位継承や天皇、皇族という御存在の本質を誤りかねないので注意すべきである。

 

つまり邪馬台国の「女王の国」とは、日本に旅行に来た中国人がたまたま

神宮祭主の黒田清子様を見かけられて、「ここは女王の国だ」と勘違いして中国本国に

報告したものが歴史書に残ったものという可能性が高いということです。

日本文化を知らない外国人にとっては無理もないことでしょう。

 

また我が国がアジアにおいて比較的早く女性天皇を輩出したことも、この祭政二重主権

の伝統から解明されます。

つまり一方の主権者の欠損をもう一方の主権者が代行、または預かっていたというのが

女性天皇の実態であり、女性天皇が「中継ぎ」であると言われる所以でしょう。

さらにこの祭政二重主権の伝統が形を変えて中世以降の天皇と将軍の二重統治という

この国の統治のあり方として残っていったとも考えられることから

邪馬台国や古代日本社会において祭政二重主権が存在した事実の可能性は非常に高いと

考えれらます。

ちなみに天皇の政治力、軍事力が将軍に移っていった時期と天皇自身が祭祀王になっていく

時期が一致することもこの説の信憑性が高いことを裏付けています。

 

現在の女性天皇論はこのような日本の伝統を踏まえたものはなく、ジェンダーや

女性権力者指向、さらには皇統断絶や皇室廃止なども企む国際的な勢力を背景とする

圧力によるものであるからまったく賛同できません。

 

古代において政治、軍事を司っていた男王が天皇の原型であったことは間違いないので

天皇の基本型は男性であることは間違いありません。

女性天皇というのは一方で祭祀を司っていた女性祭祀王の姿を

天皇像に投影したもので天皇本来の姿ではありません。

また実際に存在した女性天皇は皇族女性が仮に天皇を代行したものにすぎず、

女性天皇を本来の姿とすると皇族女性が歴史上はたしてきた本来の役割を

見失ってしまうことになります。

 

現在の女性天皇論はまるで魏志倭人伝を記した中国人のように日本文化や

その歴史、伝統をまったく勘違いした間違った論であることを指摘しておきたいと思います。

旧宮家養子案による

皇室典範改正箇所

 

第2条、皇位は「全て実系により」、左の順序により、皇族がこれを伝える。

 

第9条、(調査中)

 

第15条、

「ただし、昭和22年10月14日に皇籍離脱した旧皇族男子の男系の男子が次の

各号に該当する場合は、この限りではない

 

一、第9条ただし書きの規定により、皇族の養子となった場合

二、内親王又は女王と婚姻した場合

②第9条ただし書きの規定により、皇族の養子とななった者及び、内親王又は女王と婚姻して

皇族となった旧皇族男子の男系の男子と、その以上の男系において最近親の皇族との間の男子

には、没後、親王号を追号する」

 

歴史上の女性天皇成立の事情についてよく「中継ぎ」であるとか「ピンチヒッター」であるとか

書かれているが、それは女性天皇に気を遣っての抑えた表現であることがわかった。

 

実際には女性天皇のほとんどは皇位を独占したり簒奪したりするための悪意ある政治的野望の

ための道具であった。しかも、他の正統な皇位継承者の多くの犠牲を出している。

 

以下考察してみよう。

 

・推古天皇(第33代)

異母兄の敏達天皇(第30代)皇后

第31第、用明天皇の妹

第32代、崇峻天皇は異母弟

崇峻天皇が蘇我馬子に殺されるという非常事態を収拾するために、蘇我馬子本人の

要請を受けて、即位。推古天皇としては自身の子である竹田皇子への即位の目論見があった。

 

 

・皇極天皇(第35代)

皇極天皇と斉明天皇は同一人物。

はじめ第34代舒明天皇の皇后

舒明天皇が亡くなると女帝として即位し、舒明天皇の時から

対立する有力な皇位継承者であった山背大兄王(聖徳太子の子供)を

蘇我入鹿と組んで攻め滅ぼした。

 

山瀬大兄王(やましろのおおえのおう)

厩戸皇子(聖徳太子の子)、蘇我入鹿大臣の従兄弟

上宮王家当主、人々からの人望も厚く有力な皇位継承者と見られていた

 

・斉明天皇(第37代)

皇極天皇と同一人物

先代の36代孝徳天皇を追放して重祚。

有力な皇位継承者である先代孝徳天皇の息子である有馬皇子を捕らえて絞首刑にした。

 

・持統天皇(第41代)

天武天皇皇后

679年、天武天皇と6人の皇子達に我が子の草壁皇子を次の皇位継承者にすることを吉野にて

誓わせる(吉野の盟約)。

天武天皇亡き後、我が子の草壁皇子の強力な皇位継承者としてのライバルである

大津皇子(天武天皇三男)に謀反の疑いをかけて自殺に追い込んだ。

が、草壁皇子は即位前に逝去したため草壁皇子の子である軽皇子(のちの文武天皇)

を後に即位させるために自身が即位した。

この時には他に少なくとも4人以上の男性皇族(天武天皇の子2人、天智天皇の子2人)が存在したが

自身の子供の系統に皇位を継がせるために自身が即位して他の皇位継承者の皇位継承を

排斥したのである。以後この系統の女性天皇の即位理由はこの皇位を独占するためである。

 

・元明天皇(第43代)

草壁皇子の正妃

文武天皇(第42代)の母

自身の子供である文武天皇が25歳の若さで亡くなると、文武天皇の子である

首(おびと)皇子(のちの聖武天皇)を後に即位させるために自身が即位。

持統天皇の時と同じ手口である。

首皇子の異母兄弟で皇位継承者となりかねない広世王(母・石川刀子娘)と

その兄弟を皇籍離脱させる

首皇子を皇太子とした後に皇位を娘の元明天皇に譲り崩御した

 

・元正天皇(第44代)

草壁皇子の長女

皇太子の首皇子(のちの聖武天皇)がまだ若かったために即位した。

右大臣の長屋王は元正天皇のいとこであり有力な皇位継承者であったが聖武天皇が

即位すると左道による謀反の疑いをかけられて自殺に追い込まれた。

 

長屋王

天武天皇長男の高市皇子の長男。つまり天皇天皇系直系長子の最有力な皇位継承者にして

元明、元正の二代の天皇を補佐した有能な政治家でもあった。

女性天皇がなければ彼が即位していた可能性は高い。

聖武天皇、藤原四兄弟により自殺に追い込まれた。

なお、彼を死に追いやった藤原四兄弟は737年に相次いで病死したため

長屋王の祟りとして恐れられた。

 

・孝謙天皇(第46代)

聖武天皇と光明皇后の子

自身が即位すると聖武天皇の遺詔により皇太子とするようされていた

天武天皇の孫にあたる道祖王を廃した。

代わりに大炊王(のちの淳仁天皇、第47代)を皇太子に立てた。

橘奈良麻呂の変が起こり皇位継承候補者の黄文王(長屋王遺子、天武天皇玄孫)、道祖王らが

捕らえられて杖で何度も打たれる拷問を受けて二人とも獄死した。

天武天皇孫の塩焼王は親戚降下させられた。

 

・称徳天皇(第48代)

孝謙天皇と同一人物。孝謙天皇は淳仁天皇に皇位を譲った後も上皇として君臨していたが、

道鏡を溺愛していることを指摘されていたこなどから淳仁天皇に不満を持ち始め、

太政大臣藤原仲麻呂を殺害し、淳仁天皇を廃位して淡路に島流しの刑にして、

自身が再び女性天皇として即位した。

再び大嘗祭を行ったが本来禁止のはずの僧侶を大嘗祭の場に出席させた。

766年には道鏡を「法王」に任命した。

あらに769年には道鏡を天皇にしようと画策したが、和気清麻呂らに阻止された。

同年、生涯独身のまま崩御した。

多数の女性天皇を輩出して繋いだ天武天皇、持統天皇系の皇統はここに断絶した。

以後800年間、江戸時代になるまで女性天皇が誕生することはなかった。

 

本年、令和4年(2022年)7月5日に天皇陛下の勅裁により

伊勢神宮大宮司に今上天皇の再従兄弟で香淳皇后の御実家である久邇宮家(旧宮家)

の久邇朝尊様がご就任されました。

 

 

久邇 朝尊(くに あさたか)様

1959年〈昭和34年〉生まれ

伊勢神宮大宮司

学習院大学法学部卒

今上天皇の再従兄弟(またいとこ)

上皇の従兄弟

 

ご就任にあたり靖国神社を参拝される久邇朝尊様

 

ご就任にあたり伊勢神宮内宮参道を歩かれる久邇朝尊様

 

神嘗祭にあたり天皇陛下の妹である黒田清子祭主とともに

歩かれる久邇朝尊様(清子様左後ろ)

 

 

*安定的な皇位継承問題の解決には皇祖皇宗のご子孫で現皇室の親族であられる旧宮家ご子孫の

皇籍復帰以外ありません。これに反対しているのはいかなる理由をつけていようとも

反皇室、反天皇の左翼勢力か外国勢力と考えて間違いありません。

最新の調査でも国民の半数以上が旧宮家からの皇室への養子に理解を示しています。

悠仁親王殿下をサポートするためにも一刻も早い旧宮家の皇籍復帰または皇室への養子の

実現が望まれます。

 

天皇陛下、秋篠宮殿下、悠仁親王殿下
こんにちわ。いつもお世話になってます。
皇居の桜はきれいに咲いていますか?


私も今、仕事やプライベート
ででかけるとどこに行っても満開の桜がきれいに
咲いています。
その満開の桜を見ていてこう思いました。
「来年もまた同じようにきれいに満開に咲いて欲しい」
そんな思いを抱いた時に、もしかしてこの気持ちが
伝統を大事にしたい気持ちなのではないかと思いました。
歴史的観点から見た天皇の歴史とくらべると
戦後の皇室はあまりに伝統を嫌いすぎてきてしまった
傾向がある気がしてなりません。
人々が天皇、皇室の存続を願ってきた気持ちの一つ
にはかつて人々が目にした先代や先々代の
立派な天皇の姿をまた次の世代にも見せて欲しい、
そんな気持ちがあったのではないかと思うのです。
たとえ時代は変わっても変わらぬ姿を見せて欲しい、
日本人の中にはそんな伝統に対する愛着もあると
思います。
伝統に縛られすぎるのもよくないと思いますが
人々が愛してきた伝統に対する気持ちも考慮して
今後の皇室を運営していっていただきたいと
思います。
特に歴代にわたって天皇、皇室とともに歩んで
きた家柄の人たちや神社、仏閣などとの絆や交流を
もう一度取り戻して、今後の皇室文化を伝統の上に
発展させていっていただきたいと思います。

菊栄親睦会は昭和天皇のご意向により、戦前からの「皇族親睦会」を改称してスタートした。

 

天皇、皇后両陛下、成人の内廷皇族が名誉会員

その他成年皇族及び旧宮家当主夫妻、結婚で皇籍を離れた内親王、女王夫妻が会員

慶事に合わせて「大会」が定期的に行われる

大会幹事は旧宮家当主などが交代で務める

旧宮家が皇籍離脱した一か月後の11月15日に当時の内廷庁舎(現宮内庁庁舎の一部)

で第一回目が開催された

平成時代にも平成26年までにほぼ5年に一度のペースで開催された

令和もコロナ終息後に行われる予定

 

宮中祭祀にも皇籍離脱時に皇族だった方について大祭や崩御された天皇の式年祭参列に

招かれている

 

明治以降の皇族方の墓所である豊岡墓地には旧宮家の方々が約20名埋葬されており

平成31年に74歳で亡くなった旧皇族の東久邇信彦様も埋葬された

 

本年、令和3年度に行われた政府の皇位継承に関する有識者会議では

「旧宮家の方々は長い歴史の中で皇族でずっといらした」櫻井よしこ氏

「旧宮家に関しては外からの強制で離脱となったわけだから、それ以前に降下された

方と同じに扱うことはできない」新田均氏

「旧宮家男系男子子孫は皇室典範にある『皇統に属する男系の男子』に該当する」八木秀次氏

「旧宮家男系子孫は潜在的に皇位継承権をもっている」百地章氏

「女系容認論者は男系とか女系の一貫性の部分はわかっていない」曽根香奈子氏

「旧宮家復籍はこれまでの伝統に整合的」綿矢りさ氏

「旧宮家復籍は皇統の安定継承のため、また悠仁親王殿下のご相談相手確保のためにも

すぐにでも行うべき」半井小絵氏

「旧宮家の皇籍離脱はまだたったの70年、復籍すべき」田中智子氏

 

という旧宮家の皇籍復帰に関し肯定的な意見が多数見られた。

 

(以上、「日本の息吹」令和3年12月号、十一宮家物語、宮田修一氏の文章より

抜粋編集させていただきました)