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魁!神社旅日記

神社を旅した日記感想等をつけていこうかと思ってます

 

紀子妃殿下
いつも日本国民としてお世話になっております

さて世間では悠仁親王殿下の教育について心配する声が
あがっております
(どうするんですかね?」眞子さま“駆け落ち婚”で秋篠宮家の
教育に疑問の声《悠仁さま15歳でも帝王教育が始まらない》
https://bunshun.jp/articles/-/48347)
(悠仁親王殿下にすみやかな「帝王学」を
https://note.com/kouki2680/n/n721f09cae4a9)
(天皇陛下がご憂慮する「悠仁さま」帝王学の危機 “学習院を選んでいれば…”のご学友不在
https://www.dailyshincho.jp/article/2019/01140800/?all=1)

なかには秋篠宮家や悠仁親王殿下に対する妬みからやっかみ的な
意見もあるとは思いますが、それでも多くの国民が将来の天皇に
対して帝王教育がなされない現状を心配しております。

現在、戦後皇室のあり方はターニングポイントにきております。
それは戦後のいままでの皇室のあり方が正しかったのか、それを
多くの国民が眞子内親王殿下のご結婚問題であらためて考え直す
ようになってきたからです。
天皇とは、皇室とは、どのようにあるべきなのか。
「開かれた皇室」という方針の下、もっぱら庶民化へと方向性を
進めてきたいままでの皇室の方針に多くの国民は疑問を感じ
始めています。

そのような国民感情を前提として、現在の象徴としての天皇
という在り方も将来も今のままであるとは限らなくなってきて
おります。
国家元首として国家国民の命運をかけた政治判断の決断を
迫られるような機会が訪れる可能性も否定できません。
また海外の王族や国家元首との対応もしていかねばならない
でしょう。

いままで秋篠宮皇嗣殿下、紀子妃殿下が立派な教育をされて
こられたことは間違いなく、悠仁親王殿下は立派に成長されて
おられます。
しかし、悠仁親王殿下の定めの将来を見た時、これからは家庭教育
や学校教育だけでは将来の殿下の宿命を果たすための教育には
不足しております。

政治的素養だけでなく、宮中祭祀の意義や東洋、西洋の君主の
基本的素養、日本文化の中核として和歌、古典、漢籍の教養は
家庭教育や学校教育だでは補えないのではないでしょうか。

また帝王教育を通じて家庭や学校以外の大人と触れ合い
その道の一流の人物に学ぶということも将来の成長にとって
必ずいい影響ともなるはずです。

天皇、君主としての教養不足のまま成人されて苦労され恥をかくのは
悠仁親王殿下だけでなく、その時代の日本国民も同じ目に遭うという
ことです。
戦後皇室のあり方は今、変わりつつある変わらなければならない時期に
あるということを踏まえて、未来の日本国と日本国民のために
悠仁親王殿下に帝王教育を受けていただきたいとの国民の声を
ご検討いただけないでしょうか。
よろしくお願い申し上げます。

 

 

(一)神人合一より神人不二

 

宗教とは神人合一、神人不二の意義を表白したる祭祀的形式を云う。

 

即ち神より言えば、神が人をまねぎて合体したふのである。人より言えば、人が神に進み、

 

神に合し、神と一体たるので、言い換ふれば神人合一より神人不二に達するの意味形式を

 

称して宗教といふべきである。

 

人は常に神と相離れ相隔たり居ると思うが故に、相近よりて合一せんことを望む、

 

合一して見れば本来同一のもので二つあるものでない事を自覚する。即ち始めは神と人と

 

二つありと思うが故に神人合一と謂い、合一すれば二つあるものでなく、一つなるが故に

 

神人合一と謂うものである。

 

(二)日本の祭祀と神人合一

 

日本の祭祀は神人合一である。上天皇陛下一世一代の大嘗祭、四方拝、元始祭、新年祭、

 

祈年祭、年々の神嘗祭、新嘗祭を始めすべての祭が悉く神人合一でないものはない。

 

現人神としての天皇が神を祭り、神と合し、神と成りて神の心を政治に施すものなるが故に、

 

祭政一致、神人不二といふ。是れぞ世界に類なき日本伝統の信仰信念である。

 

(三)日本の神社と神人不二

 

日本の神社は神を祭り、神と合し、神と成りて神の御心を国民に告げ、氏子に告げ、

 

その氏子国民をして神のまま実生活に現はさしむるのである、故にこれを顕幽一致、

 

神人不二の生活という

 

(四)神の心と実生活

 

産土の神を祭り、氏の神を祭るのも亦同一で、神を祭り、神と合し、神の心を、実生活に

 

行い表すのである。産土の神の如く氏の神の如くこの村を守護し、この一族一村民を

 

守護する如く、その産土氏子たる身は又神の心をもってこの村民この一族を守護

 

しまつるのである

 

(「みいづ」(御稜威会会報)令和3年9月1日号より)

問、女系及び女天皇を認めない理由如何

 

答、皇統は男系により統一することが適当である。我が国多年の成法も亦然りである。

女系が問題になるのは、その系統の始祖たる皇族女子に皇族にあらざる配偶者が

入夫として存在しその間に子孫がある場合であって、この場合女系の子孫は仍皇族

にあらざる配偶者の子孫で臣下であるということが強く感ぜられ、皇統が皇族にあらざる

配偶者の家系に移ったと観念されることをも免れない。

かやうな点を考えて女系を認めないのである。

 

女帝は配偶者があることを想定しなくてはならぬばかりでなく、その配偶者が皇族でない

者から出ていることが多いことも考慮に入れなければならぬ。かやうな場合に皇族でない

配偶者の実際上の立場が問題となることを懸念される。而かも女帝が独身ならば子孫は

あり得ないし、配偶者があって子孫があっても、前述の理由で女系を認めないとすれば

女帝は皇位の世襲相続ということからいえば、既に初めからその子孫によって継承

されないことに定まっている。よってこの関係から見れば女帝を他に男子の皇位継承

資格者があるにかかわらず、認めることは皇位世襲ということに添わぬことであり、

他に男子の皇位継承者がなくて女帝を認めることは、天皇制を一世だけ延命させるだけに

過ぎない。配偶者の問題と皇位継承の問題から女帝はこれを認めないことを適当と

考えたのである。

 

 

問、日本国憲法第14条は、すべて国民が、法の下に平等であって、性別により、

政治、経済、社会の関係において差別を受けない旨を規定している。この憲法の下では

皇統を男系に限ることは憲法違反とならないか

 

答、

(一)右の第十四条は、性別による差別を否定すると共に、社会的身分又は門地による

差別をも否定しているのであるから、これを極めて厳格に解すれば、皇位の世襲という

ことも、この条文の関する限りでは否定されなければならないことになる。

しかるに皇位の世襲については、日本国憲法第二条が、明らかに、第十四条の例外を

なしている。それゆえに皇族女子に皇位継承資格を認めるかどうかということは、

それが皇位世襲の原則から見て、どうなるかと云うことを明らかにした上で決定しなければ

ならぬであろう。

(二)抑も世襲という観念は、伝統的歴史的観念であって、世襲が行われる各具体的場合に

よってその内容を異にするものであろうと思われる。場合によっては血統上の継続すら

要件としない世襲の例も存し得るのである。然らば皇位の世襲という場合の世襲は

どんな内容を持つか。

典範義解はこれを (1)皇祚を踏むは皇胤に限る (2)皇祚を踏むは男系に限る 

(3)皇祚は一系にして分裂すべからざること の三点に要約している。そうしてこれは

歴史上一の例外もなくつづいてきた客観的事実に基づく原則である。世襲という観念の

内容について他によるべき基準がない以上これによらなければならぬ。さうすれば

少なくとも女系ということは皇位の世襲の観念の中に含まれないと云えるであろう。

(三)然らば女系は別として女子の継承資格は如何。女系を否定しても女子の継承

資格は自ずから別な問題だからである。しかし女帝を認めるということはその御一代

丈男子による皇位継承を繰り延べるという丈の意味しか持ちえない。歴史上女帝は

存するけれどもそれは概ね皇位継承者が幼年にいます為その成長をまつ間の一時の

摂位にすぎないのである。

かやうに考えると女帝の登極ということは、むしろ恋の不安定を意味すると言えるので

ある。

(四)さらに男女同権ということは、国民のすべてに適用する法律上の問題について

言い得らるることであって、皇位継承資格者が国民の一部にすぎないのに、その一部に

於ける不平等は、必ずしも男女同権の原則の否定とは言い得ないと思われる。

又、男女平等原則は、あらゆる場合に徹底的にこれを実現し得られるかというに、

文明の程度、生理上の差異等によって、それは不可能に近かろう。

現に女帝を認めている英国の立法例でも性別を完全に否定して長幼の順に

よっている訳ではなく、男女同親等のときは長幼をとはず男は女に先つことにして

いるのである。

(五)以上の諸点を考えると皇統を男系に限ることは、必ずしも憲法違反とは言い得ない

と考える。

 

日本立法資料全集1皇室典範

資料54,皇室典範案に関する想定問答

 

*日本国憲法第2条については単なる「世襲」について規定されているのではなく

「皇位の世襲」について確認した文章であり、皇室典範の男系男子の規定も

それを踏まえて制定されたものである。

然るに、近年の政府や内閣法制局による「憲法第2条は単に『世襲』を定めたもの」、

という従来解釈の恣意的変更は憲法は政府の解釈次第でいかようにも運用でき、

憲法を実質的に空文化させるものであって、

明治時代以来の日本の立憲主義を崩壊させるものになるであろう予測されるものである。

 

藤岡寛次氏の研究により皇室内における旧皇族の現行のお立場の取り決めがどのように

 

なっているか明らかになったのでご報告いたします。

 

「近く臣籍降下する宮家に対する降下後の宮中における取り扱い方針」

昭和22年2月御聴許、御裁可(昭和天皇)

 

<拝賀>

・新年

・天長節

・紀元節

・明治節

・皇后宮御誕辰

・皇太后宮御誕辰

・臨機の皇室関係御慶事等

 

<祭典>

・春季皇霊祭

・秋季皇霊祭

・春季神殿祭

・秋季神殿祭

・その他大祭

 

<拝謁>

・随時の参内拝謁

・結婚等の際の挨拶のための拝謁

 

<御陪食・賜茶>

・春<定期>(「菊栄親睦会」)

・秋<定期>(「菊栄親睦会」)

・皇室関係の御慶事

・その他の御慶事(随時思召し)

 

<その他>

・園遊会への招待

園遊会における旧皇族(旧宮家)の「位置づけは皇族の次、諸員の上」

(昭和22年10月21日、昭和天皇の御裁可(「昭和天皇実録」)

・菊栄親睦会大会(皇室の慶事があった際に親睦会の主催で特別に催される会)

天皇皇后両陛下、皇族、旧皇族及びその親族

 

(以上「祖国と青年」令和3年5月号より)

 

(昭和34年、東久邇邸にて)

 

国常立尊(くにのとこたちのみこと)、国常立神は近代以前は特に重視された神である。

 

「伊勢神道では天之御中主神、豊受大神とともに根源神とし、その影響を受けている吉田神道では、国之常立神を天之御中主神と同一神とし、大元尊神(宇宙の根源の神)に位置附けた。その流れを汲む教派神道諸派でも国之常立神を重要な神としている。」

(Wikipediaより)

 

寛永13年、伊勢神宮の神官が新年に江戸城に拝賀の挨拶に行く際に内宮が先か外宮が先かの問題が起こった時、

幕府は時の後水尾上皇に裁定を願い出ました。

後水尾上皇は神道元締めの吉田家と五摂家に意見を求めると、吉田家は「御礼の順番は不明」と答えたのに対し

五摂家側からは摂政の二条康道から

「内宮は天照大神、外宮は国常立尊である。国常立尊は天神であり、天照大神は地神なのだから、外宮を先とすべきである。

また、嵯峨天皇の弘仁のときから、祠官任命の院宣はもっぱら外宮を第一としてきた。内宮を第一とする証拠はない」

との返答があったという。

結果的には幕府が内宮第一説に立っていたため、上皇が伝奏に過去の歴史資料から内宮第一の資料を探させて

幕府の意向に沿って内宮第一として落着させたという(間瀬久美子「神社と天皇」)

 

当時、国常立尊は天神の筆頭、天地初発の神(「日本書紀」)として、あらゆる神の根源に位置する神ととらえられて

いました。天御中主神を絶対的な根元神とするのは「古事記」を偏重するようになった明治以降の思潮とのこと

(「天皇の仏教信仰」)

 

先日偶然にも江戸時代後期に木曽御嶽山の麓にあった尾張藩祈願所護摩堂に関する資料を拝見した際に

「御嶽山護摩講縁起」

「本地大日大聖不動明王、垂迹は国常立の尊なり」の記述を発見した。

中世以来より多くの行者が本尊と拝んできた密教系の明王である不動明王の垂迹が国常立尊

であったという説は現代ではあまり聞かないが、当時は国常立尊が重視されていた神格である

ことの現れであろう。

尚、現在でも御嶽教の祭神は国常立尊であるが、現在の一般的な学者の見解ではこれは

神仏分離以降、神道国教化政策の際に従来の御嶽座生大権現に変えて取り入れたもの

との見解が一般的であるが、上記資料によりその起源は近世まで遡ることが明らかになった

と言えよう。

 

近代以降、国常立尊は大本教の出口王仁三郎により「艮の金神」は「国常立神」であると

表されるなどはしたが近代以降は近代以前の重要視から比べると半ば封印されたような

存在に近くなっていると言えるのではないだろうか。

「審神者」(さにわ)についてさっそくスピチュリアル方面から反響があった。

 

宇宙人と交信してるとかいう人だが、審神者について否定的な見解を

 

述べていた。

 

強力な審神者が登場すれば神憑りの真偽、正邪、品格が判断されて

 

しまうので、今流の自問自答の神懸かり者には正体がばらされてしまう

 

脅威を感じるのであろう。

 

 

この審神者の役割は二者において行う神憑りの際の降りてきた神の判定だけが

 

役割ではない。二者以上において行う他感法による神懸かりにおいて

 

神を神主(霊媒)に降ろしているのはじつはこの審神者の力である。

 

 

したがってじつは神憑りにおいては神主(霊媒)の素質とともに

 

iいや、それ以上に審神者の霊力が必要なのである。

 

御嶽行法の帰神法である「御座」では審神者にあたる「前座」の方が

 

厳しい行を積まねばならないとも言われています。

 

 

女王卑弥呼の弟、竹内宿禰、本田親徳、長澤雄楯、浅野和三郎、佐藤卿彦など

 

は審神者の役割を主にしている。

 

優れた霊能力者には必ず優れた審神者がついている。

 

 

大本教で出口王仁三郎が存命中に鎮魂帰神法を危険として禁止にしたのも

 

浅野和三郎という優れた審神者を和三郎の退会という形で失ったからであろう。

 

王仁三郎は優れた霊能力者であったが審神者でなかった。

 

 

また渡辺勝義先生の後継者が育たず、本田霊学が絶伝してしまったと

 

見られるのも渡辺先生が神主(霊媒)であり審神者ではなかったからだ。

 

 

今後の我が国における霊学、霊性の復興のためにはこの優れた審神者の

 

再興育成が不可欠であろう。優れた審神者がいてこそ優れた霊能力者が

 

現れるのである。

 

 

この審神者たる者にはある身体的特徴がある。

 

それは眼光の鋭さだ。(常時とは限らない)

 

御嶽行法における神憑りの記録にも御嶽行法で審神者となる「前座」

 

は「目の鋭い」行者であることが研究者によって記録されている。

 

門弟一万、数々の霊能力者の産みの親である長澤雄楯も

 

「眼(まなこ)が異様な光を発する」のを目撃したと記録されている。

 

 

日本神話において神懸かり、審神者の方を現わしたのは

 

アメノウズメノミコトであり、その顕された神は猿田彦神であるが、

 

その猿田彦神の目はランランと輝いていたという話は役割は

 

反転しているのは顕幽の違いかもしれませんが、

 

何か審神者の特徴を連想させるものがあります。

 

 

優れた審神者が一人いれば多くの神主(霊媒、霊能力者)が養成

 

できることはすでに長澤雄楯翁に一万もの門弟とその後、霊能力者と

 

して名を挙げた数々の弟子の存在で証明済みです。

 

日本国の霊性復興、霊性回復のキーポイントは優れた審神者の登場

 

如何にかかっていると思われます。

 

 

本田霊学、鎮魂帰神法を継承されていた渡辺勝義先生が平成26年に亡くなられて

いたとのことで、近代以降、数々の古神道家を生み出してきた本田霊学の

帰神法(神憑り法)は絶伝している可能性が高くなった。

 

本田親徳(文政5年~明治21年)

長澤雄楯(安政5年~昭和15年)

稲葉大津(明治7年~昭和13年) 

佐藤卿彦(大正2年~昭和61年)

渡辺勝義(昭和19年~平成26年)

 

 

長澤雄楯には一万とも言われる門弟がいた

 

その中の二大高弟が

出口王仁三郎(当時、上田喜三郎)と宮城島金作だという

役割はいずれも神主(霊媒師)

 

長澤雄楯(審神者)

出口王仁三郎(神主)

浅野和三郎(審神者)

荒深道斉(神主)/友清歓真(神主)

 

神道霊学四大人のうち荒深道斉も独習の鎮魂の後に

長澤雄楯、稲葉大美津の弟子である若林耕七の審神者(さにわ)を

大正13年5月から同年暮れまで受けて、

その後、昭和元年11月30日に梅田新道、露天神で行われた

大坂心霊研究会で浅野和三郎の審神者の受けて道臣命を

顕したし、神道天行居の友清歓真も浅野和三郎の鎮魂帰神法

を受けて感激して大本教に入り、のち脱退して長澤雄楯に

直接入門している。

 

浅野和三郎は優秀な審神者で、彼の審神者により同時代の

多くの帰神法が行われ、霊能力を開花させた人物は多い。

大本教で帰神法が行われなくなったのも浅野和三郎の脱会

により優秀な審神者がいなくなったのが原因ではないかと

推測される。

 

本田霊学の帰神法が絶伝したと思われる現在において

2者構成以上による他感法による神懸かりを継承しているのは

本田霊学とは系統は異なるものの御嶽教などの御嶽信仰の一部の

講社のみになると思われる。

(御嶽神道での審神者は「前座」、神憑る神主に当たるのが「中座」)

 

一般の人には神憑りの神主に目を奪われがちだが、この日本古来からの

他感法による神憑りは神憑りの神主以上に、霊力の強い優秀な審神者の

存在が必要であることを渡辺勝義先生は著書で強調されておられる。

 

最近流行りのスピチュリアル系能力の人たちにも優秀な審神者が

付けばより正確な神からの啓示と霊能を発揮できるだろう。

 

今後の霊学の復興は優秀な審神者の登場如何によるであろう。

よく近代批判、国家神道批判の観点から

 

明治以前は皇室も神仏習合であった、その証拠として「即位灌頂」

 

がとりあげられ、即位における神道儀礼である大嘗祭は中世に

 

費用的な問題で途絶えたこともあったが、即位灌頂は一貫して

 

途絶えることなく行われてきた近代以前の天皇、皇室にとっての

 

最大の仏教的即位儀礼としてとりあげられている。

 

しかし、その実際は一体どんなものであったのだろうか?

 

 

大江正房「正房卿記」所引『後三条院御即位記』に記録がある。

 

(なおこの記録は九条家本「御即位次第」でも裏付けがとれているという)

 

それによれば

 

 

天皇が小安殿から大極殿に移動する間、「この間後三条院手を結び給ふ、

 

大日如来(智)拳印、本持(地)一字金輪を御本尊とし給ふ」

 

 

以上である。

 

 

灌頂は密教の儀式に由来しているが、この即位灌頂の実際は密教の灌頂のような

 

儀式が行われるわけではない。

 

ただ即位式の移動中における作法の一部にすぎなかったというのが

 

実際である。

 

実際に行われたかわからないが「東寺御即位法」でも

 

印と偈讃が増える程度である。

 

 

つまり大嘗祭が中断しても即位灌頂が続いてきたのは仏教を重視したわけ

 

でもなく、単に簡単なものであったからである。

 

大がかりな施設や人員を動員して行われる大嘗祭と比べるべくもない。

 

「秘儀」と言えば大層な儀式を行ったように聞こえるが、実際には

 

即位灌頂というのは「作法」程度のものであったという事実を指摘しておきたい。

 

 

なお、皇室における仏事はあくまで個人的な信仰のもので、公的には

 

天皇はやはり神道の祭主であり、仏教色の強かった中世、近世においても

 

宮中にて神事が行われる場合は厳密な「神仏分離」が行われていた

 

ことは最近の研究であきらかになってきている。

 

 

また我が国における「神仏習合」における「仏」は厳密には「密教」が

 

基盤になっており、現在我々が考える近代仏教のようなものではなく、

 

それ自体がすでにインドにおいて神仏習合していた「密教」が

 

そのインドの神々に我が国の神々を加えたものにすぎないのではないか

 

という点も指摘しておきたい。

 

この我が国に伝来した「密教」というものが、現在我々の考えている「仏教」

 

とは少し違ったものであることはまた項を改めて述べたい。

 

 

(本項の参考文献:「天皇の即位儀礼と神仏」松本郁代)

旧皇族、旧宮家から即位した天皇は室町時代の後花園天皇が

知られていますが、幕末にも旧宮家から天皇に即位した実績が

あります。

 

東武天皇】(東武皇帝)

旧宮家の伏見宮出身で慶応三年、上野の寛永寺に入り

輪王寺宮として活躍され、新政府軍が江戸に迫ると

徳川幕府を助けるよう新政府軍と交渉するが聞き入れ

られず、上野戦争で彰義隊に脱出を助けられ、榎本武揚

の幕府海軍により会津、米沢を経て仙台藩に移り

奥羽越列藩同盟の盟主、東武天皇(東武皇帝)として天皇に即位した。

年号は「大政」。

このことは当時のニューヨークタイムズにも

「二人のミカド」として報道されている。(1868年10月18日号)

 

北白川道久王

旧宮家、北白川宮

昭和20年の敗戦により、昭和天皇やその兄弟に

万が一のためのことあった場合には皇統を護持す

るために日本陸軍中野学校出身者

らによって将来の天皇として北白川宮道久王が

北陸に匿われる計画があった。

戦後は伊勢神宮大宮司、神社本庁統理を歴任

され平成30年に逝去された。

上皇陛下の「またいとこ」に当たる血縁。

 

梨本宮守正王

旧宮家、久邇宮出身であるが梨本宮を相続

日露戦争、第一次世界大戦などに出征したが

大東亜戦争(太平洋戦争)にはほとんど関係していない。

敗戦後、国際世論的に昭和天皇の戦犯指定が危惧

されている世相の中、天皇の身代わりとして戦犯指定を

受け、巣鴨プリズンに収容された。

半年後に釈放されたが、臣籍降下、公職追放を受け

昭和26年に逝去された。

 

 

以上、見てきたように近世、近代以降にも旧宮家、旧皇族が

天皇として扱われてきた事例は存在する。

このことはつまり旧宮家、旧皇族が正当な皇位継承者としての

資格を有してきたことの歴史的証明です。

旧宮家とは600年間の正統皇位継承候補者のことです。

 

旧宮家、旧皇族に関する重要資料である「四親王実録」が

宮内庁から公開されたのは平成23年(2011年)のことで

あったという。

つまり、平成11年(2005年)の小泉内閣の「皇室典範に関する有識者会議」

はこの重要資料を参照せずに皇位継承という国家的重大問題を論じて

いたことになる。

これはこの有識者会議の過程と結果に大きな欠陥があると言うべきであろう。

 

日本国家、日本国民はいつまで旧宮家、旧皇族という歴史の事実と

またその御子孫が現存されておられるという現在の現実に目を背け

続けるのであろうか?。

 

そして、天皇、皇族とは現在の天皇が基準ではない。

それは天孫、あるいは建国の祖である神武天皇を基準とする

もので、私達の先祖はその建国の祖の血統をこそ守ってきた

という原則を間違えてはならないでしょう。

 

旧宮家は本当に皇室制度を皇位継承を論ずるのならば絶対に目を背けずに

正面から取り組まねばならないことだと指摘したい。